第11話 逢瀬
進めども進めども白い廊下が続くばかりで、ディルアローハは途方に暮れていた。ただ自分の部屋に戻りたいだけなのに、どの扉を開けても殺風景な小部屋が見えるだけだった。
「もう、嫌になる」
戸に手を掛けた彼女はため息をこぼした。こうしたことを繰り返して幾度目になるだろう。もう数えるのは諦めてしまった。今度こそはという期待も薄れている。
だがせめて誰かがいれば。そんな希望だけを込めて、彼女はそっと次の扉を叩いた。
驚いたことに返事があった。目を見開いていると、白い戸の向こうから一人の女性が姿を見せる。柔らかく波打つ黒髪を胸の前に垂らした、温和そうな女性だ。ディルアローハと同じくらいか、少し年上だろうか?
「どちら様?」
「あの、すみません。帰り道がわからなくなって」
ディルアローハははにかんだ。穏やかに微笑した女性を前に、急に気恥ずかしさがこみ上げてきた。
どうにでもなれという破れかぶれな気分でいたが、突然知らない人間の部屋を訪問するなど品のない行為だ。母に知られたら、後で何を言われるかわかったものではない。
「ああ、お客様ですか? よくあるんです。大丈夫です、ご案内しますよ」
即座に事情を察したとばかりに、女性は頭を傾けた。そしてゆっくりと部屋を出てくる。安堵の息を吐いたディルアローハは、そこでふいと気がついた。女性のお腹にはまろやかな膨らみがある。
「お客様を通す部屋でしたら、大体決まっているので」
「すみません、ありがとうございます」
ディルアローハは頭を垂れた。ぶしつけな質問を口にするのは憚られたが、突として色々なことが気になってくる。
どうして自分はこんなに真っ白な長衣など身につけているのだろう。こんなに艶やかでさらさらと音を立てる生地など見たことがない。
「いいえ、気にしないで。よくあることですから」
廊下を歩き出した女性の後を、ディルアローハは慌てて追いかけた。女性の長い生成り色のスカートが、風を含んだように揺れる。肩から羽織った薄紫の布からは、覚えのある甘い香りがした。
「ここは皆さん迷うところなんです」
ゆったりとした歩調なのに、何故だか速い。ディルアローハが必死に小走りで追いかけても、その背中はどんどん小さくなっていった。ディルアローハは息を切らす。ようやく見つけた案内人において行かれるのは困る。
「あの」
ちょっと待ってください。その一言が声にならなかった。伸ばした手の先で、ますます女性の背中が遠ざかる。それなのに甘い花の香りだけが、まるですぐ傍にいるかのように鼻先をかすめた。
これは、あの浴場の花びらの香りだ。思い出したディルアローハは、その場で足を止めた。真っ直ぐ続く白い廊下の先に、もはや女性の姿はなかった。幻でも見ていたのかと、ディルアローハは首を捻る。
紫の花弁が麗しい、その花の名は知らない。宗教国家ニーミナを象徴するものだという。
ディルアローハはもう一度自らの服を見下ろした。艶やかな長衣は、薬術師が身に纏うものではない。先の尖った青い靴も、シリンタレアにはない。ここはどこだろう。今まで自分は一体何をしていたのだろう。
忽然と心細さを覚えて、彼女は辺りを見回した。白い廊下の右手には窓がはめ込まれているが、曇っているのか外がよく見えなかった。答えを求めて、彼女はやおら窓に寄った。この際何でもいいから手がかりが欲しかった。
硝子に頬を寄せると、冷気が肌を撫でた。彼女はそっと目を瞑る。すると、遠くから獣の遠吠えが聞こえた。野犬よりも野太い、力強い声だ。
この獣の咆哮には聞き覚えがある。
はたと気づいた彼女は目を見開いた。そこには、もはや曇った硝子は存在していなかった。視線の先にあるのは茶色いテントだ。数度瞬きをした彼女は、細く長く息を吐き出す。
「夢、か」
女性用のテントに隔離されているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。それも仕方のないことかと、彼女は体を起こす。もう真夜中だ。緊張の糸が切れてしまえば、疲労に抗えるはずもない。
左の足首をさすりつつ、彼女は視線を巡らせた。また遠くで獣が叫んだ。彼らは眠らないのだろうか? 夜行性なのか。それともナイダートの男たちを見張っている?
反響していた獣の声が途絶えると、孤独が辺りを満たした。静寂を揺らすのは時折吹く風くらいだ。このテントは男たちからは離されているので、余計に沈黙が強調される。
「朝までは、まだありそうね」
耳を澄ませた彼女は、情報を探るのを諦めて座り直した。左足に負担がかからないよう気を使ったが、それでも鈍い痛みが走る。靴を脱がされた時に、固定していた包帯が緩んでしまったのだろう。
しかし足の状態を見たくとも、この小さなテントには何もない。革袋も全て奪われた。そのかわり手枷も足枷もなかった。これは獣があちこち徘徊しているためかもしれない。そもそも、この状況で逃亡を企てるほど彼女も愚かではない。
「この先は毒の地だしね」
彼女は分厚いテントの先を見つめた。大体、二大国が睨み合っているところを出し抜こう、などと考えても無駄だ。彼女たちの知らないところで何が起きているのか、まずは探るところから始めた方がよい。
それでも気にかかることはある。皆はあれからどうなったのだろう。サグメンタートやボッディとは離されてしまった。どうやらクロミオの監視下で応急処置が行われるようだったが、その後はどうなったのか。
ナイダートの黒ずくめたちの処遇も不明だ。だがこのことが公になれば、明らかにナイダート側は不利となるだろう。
二大国は常に争い、互いの隙をうかがい、勢力拡大の機会をうかがっている。今回の件は、明らかにナイダートの失策だ。
だからこそ不可解でもあった。そんな危険を冒してまで、彼女たちを狙ってきたわけが掴めない。
気になると言えば、シリンタレアの聖の間の話もそうだ。母は既に送り込まれてしまったのか? 決定されただけの段階なのか? まだ細かい話を、サグメンタートから聞いていなかった。
彼女はもう一度足をさすった。この冷え込みのせいなのか、痛みが強くなっている気がする。触れてみた印象では特段腫れてはいないし熱ももっていないようだが、今の自分の感覚が正常だと断言するだけの自信はなかった。
包帯がずれてしまったのであれば、いっそのこと取ってしまおうか。そんな浅はかな思いが浮かび上がったが、不十分でも巻かれていた方がまだましという考えもある。サグメンタートとも、いつ再会できるかわからない。
そもそもシリンタレアに戻れるのか? 強引にジブルに連れて行かれるのではないか?
考えれば考えるだけ、悪い方向へと思考が流されていく。投げやりな気分が湧き上がるのをどうにか飲み込み、彼女は瞳を伏せた。
あんな夢を見たのも不安が膨らんでいるせいだろう。あの白い廊下は、おそらくニーミナの教会だ。あのように彷徨い歩いて、そうしてクロミオに見つかっては連れ戻されることを繰り返していた。
そうだ、クロミオはどうしているのだろう?
ふいと疑問に思ったところで、再び獣の声が響いた。先ほどよりも近い。
訝しんでいると、わずかながら湿った土を踏む靴音が聞こえてきた。硬いブーツの奏でる旋律とは違う、もう少し柔らかいものが地を蹴る時の音だ。
彼女はそちらへと視線を向ける。目を凝らすと、分厚いテント越しでも、小さな明かりが揺れているのが見えた。あれは角灯だろうか?
揺らぐ明かりが近づいてくるのを待ち受けていると、しばらくもしないうちに、無造作にテントの幕が捲り上げられた。
「ディルさん、いたいた」
「クロミオくん」
誰かと思えば、今ちょうど思い描いていた少年であった。先ほどと同じ大きな外套で身を包んだクロミオは、そのまま遠慮なしにテントの中へと入り込んでくる。
「よかった、起きてて」
人懐っこい笑みは相変わらずだ。湿気で癖の強くなった黒髪も、一見無垢に見える眼差しも、別れた時と変わらない。上がり込んできた彼は、角灯を床に置いてもぞもぞと近づいてくる。
「はい、これ。ディルさんの荷物」
彼が大きな外套の下から引っ張り出したのは、道中彼女が背負っていた革袋だった。虚を突かれた彼女は閉口する。まさか取り返してくれたのか?
「どう、して……」
「どうしてもなにも、僕があげたものじゃない。簡単に手放さないでよ」
身軽になったと言わんばかりに手を振り、ついで彼はその場で膝を抱えた。拗ねているようにも見える面持ちだが、そんな可愛らしい少年でないことは身に染みてわかっている。
「ガウーダさん丸め込むのに時間かかっちゃった。感謝してよね」
「それはもちろん。ありがとうございます」
わざとらしいほど子どもらしく胸を張る彼に、彼女は素直に頭を下げた。そして手にした革袋の重みから、本が無事であることを確信する。ジブルの使者たちに中はのぞかれていないのだろうか?
それにしても、まさかクロミオが大国の使者ともあれほど対等に言葉を交わせるとは。まだ十三歳の少年に、それだけの知略と度胸があるというのは信じがたかった。
「あ、人払いはしてあるから大丈夫。ほら、婚約者との逢瀬は邪魔されたくないじゃない? それでも時間の問題だとは思うけど」
彼女の眼差しをどう受け取ったのか、クロミオは両手をぱたぱたと振った。どこまで本気なのか掴み所のない言動だ。冗談としか思えないが、それを押し通してしまう力もある。
「一体何がどうなってるんですか?」
彼女はもう一度耳を澄まし、周囲に人の気配がないことを確認し、口を開いた。ニーミナを発ってからの数日のことを思うと、心が冷える。
彼女を逃がした彼が、どうして今になって追いかけてきたのか。ジブルの使者と行動を共にしているのは何故なのか。疑問点はいくらでも思いつく。
「それは僕も聞きたい。誰、あの、サグなんとかって人」
それなのにまずクロミオが返してきたのはそんな問いだった。やはり拗ねたような言い草だ。唖然とした彼女は口をつぐむ。
「ねえ、ディルさん聞いてる? あの人、ディルさんの知り合い?」
「私を……助けに来たと言っていました。でも知り合いではないです。シリンタレアの人間には間違いないみたいですが」
当惑した彼女は、仕方なく本当のことを口にした。誰を信用してよいのかわからない現状だが、ここでクロミオに隠し事をするのが得策だとは思えなかった。
大体、彼女とてサグメンタートのことはよくわからない。ごまかしようもない。
「ふぅん? 自国の人間だとか、そんなにすぐわかるもの?」
「シリンタレアの人間なら、叩き込まれているものというのがあるんです」
膝の上で、彼女は拳を握った。これはきっと他国の人間にはないものであろう。教育方針に関しては、シリンタレアは長らく一貫している。医術に関する基本知識のない人間を、国内に生んではいけないからだ。
「そういうものなんだ。僕らにとっての女神様の話みたいなものかな?」
「それは、私にはわかりません。ただ、私たちにとって基本的な医術の知識は、命綱のようなものですから」
彼女はしみじみと口にした。
技術や資源が失われ、つぎはぎだらけの知識しかない中で、多くの疾病に対応するのは無謀な試みだ。それを実現させるための工夫を、シリンタレアはずっと積み重ねてきた。
感染対策もそのうちの一つだ。無知な誰かが病原体を持ち込むことがないような仕組みを作り上げている。医術国家としての立場がなくなれば、シリンタレアなどいとも容易く大国に飲み込まれてしまう。そんな意識は常に皆の頭にあった。
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