第10話 友好条約違反

 彼女は奥歯を噛み、そっとサグメンタートの手の甲に触れた。彼が先走った行動に出なければいいのだが。彼の人となりがまだよくわからないので、どう声をかけるべきかは悩ましい。

 男がさらに進み出てくると、左右非対称の外套が揺れた。分厚い布が奏でる旋律は、硬いブーツの靴音と相まって威圧的だった。彼女は汗の滲んだ拳を握る。

 ついと男の足が止まった。その右腕が持ち上げられ、外套の下が露わになる。

 見える範囲だけでも、幾つもの遺産やナイフが仕込まれていた。ただの武装兵とは思えない。ボッディは先鋭と称していたが、まるでお伽噺に描かれていた暗殺者だ。

「――獣だ!」

 男の腕を注視していると、その背後から別の者の声が響いた。事態を理解できぬ彼女が目を見開けば、控えていた黒ずくめの集団の内にざわりと動揺が広がる。

 ついで誰かの悲鳴が白い靄を切り裂いた。彼女が唖然としていると、獣の咆哮まで聞こえてくる。

 何が起きているのか定かではないが、好機があるとすれば今しかない。意を決した彼女は、サグメンタートの手を強く掴んだ。

「お願い、ボッディさんをっ」

 彼女と彼だけでは駄目だ。ボッディの力が必要だ。そしてボッディの武器が。

 サグメンタートがはっとしたようにこちらを見下ろす気配を感じたが、彼女はそれ以上は口にしなかった。彼の表情はここからでは見えないが、今はその方がいい。

「わかった」

 彼が立ち上がる気配に安堵するのも束の間。獣の叫声が増えていき、男たちの動転する気配が濃厚になった。あの獣はこの男たちが放ったものではなかったのか? それとも制御できなくなったのか? 

 彼女は顔を上げ、サグメンタートがボッディへと駆け寄っていくのを確認する。黒ずくめの男たちが、その動きに気づいた様子はない。獣でそれどころではないのだろう。声からすると何匹かいるようだ。

 彼女は右手を支えにして、どうにか上体を起こした。奇妙な臭いは辺りに漂ったままだが、息苦しさは感じなかった。

 獣の姿を確認しようと、彼女は視線を巡らせる。と、右手にちらと赤い光が見えた。思わずそちらに顔を向ければ、一匹の獣と目が合う。

 爛々と輝く赤い双眸が、はっきりとこちらを見た。あれはただの野犬ではない。彼女は直感的にそう悟る。

 我知らずに息を呑んだ彼女は、必死に腰のナイフへと手を掛けた。瞳をぎらつかせた獣が、一直線にこちらへと向かってくる。

 舌を出して駆けるその体躯はしなやかで、おそらく強靱でもあるだろう。あの牙を避けてナイフを振るうだけの実力など彼女にはないが、ここはもう運に任せるより他ない。

 細い四つ足が強く地を蹴るのにあわせて、彼女は引き抜いたナイフを構えた。こんな時に唱える神の名があればと、頭の片隅で考える。

 獣の口が大きく開く様が、やけにゆっくりと、鮮明に見えた。彼女は息を詰めた。誰かの叫ぶ声が聞こえた気がしたが、今はそちらを振り返る余裕などない。

 覚悟を決めて、歯を食いしばる。衝撃に備えつつ、目を閉じぬようにと自らを叱咤した。

 次の瞬間、鈍い音がした。飛び上がった獣の体が、空で跳ねるのが見えた。瞠目し硬直した彼女は、落ちた獣が地の上でもがくのをただ見つめる。

 四肢を痙攣させた獣は、歪な鳴き声を響かせながらしばらくはその場で跳ねた。しかしその声も次第に小さくなり、最後にはかすかな震えだけを残して動かなくなった。

 一体何が起こったのか? 答えを求めるよう視線を彷徨わせれば、獣が向かってきたそのさらに先に、何かが見えた。

 白い靄がたゆたう中、月明かりに照らし出された輪郭は小山のように思えた。黙って見守っていると、その小山の一部がきらりと月光を反射する。

 彼女ははっとした。――あれは大国ジブルの紋章だ。

「双方動くな!」

 辺りの空気を一瞬で塗り替える、よく通る声が響いた。彼の声を無視したのは獣たちだけだが、それでも声の方を振り向いた途端に尾を振りながら歩みを止める。

 否。獣たちは一目散に彼の方へと駆け出した。それは襲いかかるというよりも、主を見つけた猟犬のようだった。

 彼のもとへと集まった獣は、命を待つ兵のごとくその足下にかしづく。あの獣は、ジブルの使いなのか?

「ナイダートの使者よ。貴公らは連合の遺産保管条約を犯している。これは連合会議にかけるべき案件だ。このことが何を意味するのか正しく理解しているのであれば、それ以上の狼藉は止めよ」

 男の荘厳な声が響き渡った。白い小山だと思ったのは、全身を包む白いマントを身につけているからであった。

 悠然と進み出てくるその姿は堂々としている。この場で自分が強者であることを疑わぬ振る舞いだ。

 口元を覆う布のせいで若くも年老いても見えるが、態度は老練な兵士のようであった。悠然と獣を連れ歩く姿を見て、抵抗を考える者はいないだろう。

 獣に翻弄されていた黒ずくめたちは、どうやら動きを止めているようだった。

 それを不思議に思っていると、獣を連れたジブルの使者の後ろから、白いマントの男たちがさらに姿を見せる。口元の布も揃いのものだ。こちらも明らかに統率のとれた集団だった。

 これはおとなしくしている方が正解だ。それでもボッディたちが気がかりで、彼女はちらと横目でサグメンタートの方を見遣った。

 片膝をついたサグメンタートは、ボッディの傍らで黙していた。迂闊な言動で反抗の意志ありと見なされるのを恐れているのか、その手はぴくりとも動いていない。

 大国ジブルの使者が、何故こんなところにいるのか。疑問を声に出すこともできずに彼女は思案する。二大国双方が同時に動いていたというのは予想外だった。

「そしてシリンタレアの人間。貴公らには知る術はなかっただろうが、現在シリンタレアには我が国との友好条約違反の疑いがある。身柄を拘束させてもらう」

 彼女が押し黙っていると、ジブルの使者の双眸がこちらを捉えた。思わぬ宣言に、彼女はあんぐりと口を開ける。

 友好条約。大国の人間がそう口にする時は、シリンタレアとの契約を指している。

 大国からの援助の見返りとして、シリンタレアは情報や医術の提供を行う。そう半ば無理やり誓わせられたのは遙か昔のことだ。しかも大国ジブルとナイダート双方と契約させられている。

 それにしても友好条約違反とは、突然どうしたのか。まさか彼女たちが秘密裏に動いたのが、いらぬ疑いを生じさせてしまったのか? 何にせよ、ここでさらに疑惑を深めるような行動を取るのは自殺行為だ。

 彼女は唇を震わせつつ静かに頷く。おとなしく従った方がよいだろう。だがボッディをこのままにもしておけない。彼女はちらとサグメンタートたちの方を見た。

「……わかりました。しかしそちらの男性は怪我をしています。まず応急処置をさせてください」

 正確に言えば、処置をするのはサグメンタートだが。それでも彼女はそう懇願した。このまま放置すれば、ボッディの命に関わる。

「ならない。その浮浪者は遺産の不法所持の疑いがある。これ以上、貴公らと接触させるわけにはいかない」

 だが醒めた眼差しのまま、ジブルの使者は一蹴した。息を呑んで見守っていたサグメンタートの顔が、あからさまに曇るのが見えた。

 彼女たちにとっては命の恩人でも、ジブルの使者にとってはただの浮浪者なのか。命を落としたところでさしたる問題はないと考えているのだろうか。彼女の背を冷たいものが這い上る。

 ジブルには、ボッディを助ける義理などない。むしろこのまま死んでくれたら苦労せずに遺産が手に入ると考えても不思議はなかった。手を下したのはナイダートの人間ということになるのだから、彼らにとっては幾重にも好都合だ。

 彼女は唇を引き結ぶ。ナイフの刺さりどころが悪くなくとも、傷を放置すればどうなるかは明白だ。

「ガウーダさん、ちょっと待ってください」

 諦念の空気が辺りを満たし始めたところで、聞き覚えのある声がした。ジブルの使者のさらに背後からだ。白い人影を縫うように、その隙間から少年が顔を出す。

「彼はニーミナに居着いた人間です。その処分に関しては、僕たちに一任ください」

 他の者たちよりも頭一つ分以上小さいその姿は、靄の中にあってもやけに目を引いた。柔らかな黒髪に黒い瞳はつい先日見た時と同じだが、今は分厚いマントで体を覆っている。

「クロミオ、くん」

 宗教国家ニーミナの悪魔――クロミオ。彼女を密かに送り出したはずの彼が、どうしてこんなところにいるのか? まさか謀ったのか?

 いくらでも疑問は溢れてくるが、大国の人間を前に不用意なことは口にできない。彼女は土に指を突き立てつつ、彼らの会話に耳をそばだてた。

「クロミオ殿、しかし」

「彼が手を出したのは、あの遺跡群に残されていた遺産でしょうから。それは僕らの領域のものでしょう? いくらジブルでも、そこにいきなり手を出すのは侵害行為だと思うよ」

 妖艶な美貌をたたえたクロミオは、ジブルの使者――ガウーダというらしい――の傍へと寄っていった。大柄なガウーダと並ぶと、クロミオのか細さはさらに際立つ。やや癖のある髪を、クロミオはわしゃりと掻いた。

「僕も叔母さんに言い訳しづらくなるよ」

「……わかりました。クロミオ殿がそう言われるのであれば。それはそれとして、覆いをはずさぬようにとお願いしたはずなのですが」

「だって息苦しいんだもん。大体、撒いてるのは偽物でしょ?」

 頭上で腕を組んだクロミオは子どもらしい屈託のない笑みを浮かべた。それがわざとであることに彼女は気づく。彼は普段あんな表情などしない。

「クロミオ殿……」

 ガウーダは眉根を寄せながら声を絞り出した。やはり、今のはあえて彼女たちにもわかるよう伝えてくれたに違いない。

 それでようやく事態が見えてきた。やはり二大国双方が動いていた。

 毒――実際は偽物らしい――を撒いたのがジブルだとすると、ナイダートの男たちを牽制するのが目的だったのだろうか? それなのにナイダートが強硬手段に出たため、慌てて駆けつけてきたといったところか? だから獣を先に放ったのか?

 それでも、ジブルの使者たちにクロミオが同行している理由は不明だが。

「あなたという人は……。まあいいです。ここは大目に見ましょう。ですが、これ以上はよからぬことを考えぬよう、重ね重ねお願いしたく」

「えーひどいな、ガウーダさん。遺産のことならちゃんと報告してるし、没収した物は渡してるでしょう? 第一期以外は」

 クロミオの意図に、ガウーダは気づいたのだろうか? 定かではなかったが、クロミオはとぼけることを選択したようだった。彼女は固唾を呑む。早鐘のように鳴っていた鼓動が、少しずつ静まっていった。

 これでひとまずは、当面の命の心配をする必要がなくなった。あとはボッディの無事を願うだけだ。そこはサグメンタートに任せるより詮ないだろう。

「わかっています。そこは信用しておりますよ。ですがナイダートに関しては」

「もちろん、お任せするよ。後ろのお兄さんたちも、血気盛んに待ってるみたいだしね」

 クロミオの笑い声が合図となった。それまで控えていた白い男たちが一斉に動き出す。

 その様子を眺めているうちに、彼女は霧が薄らぎつつあることに気がついた。はっとして空を見上げれば、薄ら雲の向こうにかすかに月の姿が見える。

 さざめくように広がる緊張感の中、控えた獣の唸る声が鼓膜を揺らした。急激に寒さを自覚した彼女は、再び身を震わせた。

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