第8話 母の疑惑

「……ボッディさんは、その少年から何を聞かされているんですか?」

 しばし躊躇ってから、サグメンタートはそう尋ねた。やや深く踏み込むような質問だった。

 彼が緊張しているのは、わずかに歩調が落ちたことからも読み取れる。どことなくぎこちない足取りなのは警戒の表れでもあるだろう。ここで一番強いのはボッディだ。彼の機嫌を損ねることは、様々な意味で危険だ。

「いーや、何も? 俺はクロミオ少年から、婚約者を守って欲しいって言われただけさ。この辺りが物騒になりそうだからってな。だからもちろん、君が彼女を害する気なら、俺は君の敵にもなる」

 前を見たボッディは左腕をぐるりと振った。サグメンタートの体に力が入るのがわかった。今のは完全に牽制だ。だがサグメンタートと彼女の微妙な関係については、ボッディは知らないはずだが。

「それは、どういう意味ですか」

「そのまんまだよ。俺は君の素性については何も知らない。念のため警戒はしている。何かを隠すってことは、隠される危険を孕んでるものさ。おあいこなのさ。ご理解いただけるかなぁ?」

 ボッディは軽快に笑った。つまりボッディもまだ何か隠しているということか? 彼女は喉を鳴らす。野犬から助けてくれたとはいえ、ただの良い人であるはずがなかった。ただの良い人が、こんなところで遺産を身につけているわけがない。

「食えない奴」

 ぽつりとサグメンタートがこぼすのが聞こえる。かろうじて彼女の耳に入る程度の声量だ。こちらに気を許しているとも思えないから、おそらく彼女にも聞こえていないつもりなのだろう。彼女は耳がよい方だから、筒抜けなのだが。

「サグさんには悪いけど、敵は多いもんでね。普段はこういう手伝いなんぞしないんだが、クロミオ少年には恩義がある。あの少年が認めたっていうなら、ディルさんは相当なお人なんだろうね。実際、お美しい」

 前方を見遣ったボッディの肩はかすかに震えていた。だが口調には、揶揄する響きはなかった。彼がどの程度本気なのか、いまいちよく掴めない。そういうところはクロミオと似ている。

「私は何もしていません」

 ボッディが何を思っているかは不確かでも、否定しておかなければならないことはある。

 クロミオが彼女を婚約者扱いしようとしているのは、彼女の人柄や能力が理由ではない。彼女の背後にある医術国家というものが、あの少年の興味を引いただけだ。

 どんな国でも、どんな力を持っていても、シリンタレア以上の医術を手に入れることはできない。少なくとも現在ではそうだ。

「そうかねぇ? このボッディ博士に頼むってのは、実は結構な話なんだけどね」

 首をすくめたボッディの背中を、柔らかな月光が照らした。彼女は顔を上げた。いつの間にか雲の切れ間から、丸い月が顔を出していた。

 こうして夜空を見上げることなどシリンタレアでは滅多にない。そしてニーミナでも、ほとんどずっと教会の中に閉じ込められていた。かといってニーミナを目指して歩いていた時は、空を仰ぐ余裕などなかった。

 今はこんなに窮地に追い込まれているのにと思うと、不思議な心地になる。

「お、サグさん。その顔は何か話す気になったね?」

 するとボッディが嬉しげな声を上げた。はっとした彼女は、サグメンタートの後頭部を見下ろした。彼の纏う気配がにわかに張り詰める。こちらの様子をうかがっているような、慎重な息づかいが聞こえる。

「アマンラローフィ医術師が、どうやら疑われているらしいんです」

 一言、サグメンタートは端的に告げた。彼女は固唾を呑んだ。ボッディは足を進めながらも怪訝そうに首を捻っている。聞き覚えのない名前だからだろう。

 今のは明らかに、彼女に向けて放たれた言葉だ。アマンラローフィ医術師というのは、彼女の母の名だ。

「サグさん、それって誰?」

「私の母です」

 ボッディの単刀直入な問いに、彼女は即答する。まさかここで母の名を耳にすることになるとは思わなかった。危険は国の外にあるものとばかり思い込んでいた。

 しかし行方不明になった子どもたちがいることを考えれば、国内にも協力者はいるはずだ。まさか母はその一味だと疑われたのか?

「え、ディルさんの母さんが疑われてるって? 一体誰に?」

 困惑気味なボッディの問いが、冷たい風に乗って運ばれてくる。再び雲が張り出してきたのか、月光が弱まった。ボッディの表情もわずかに陰る。

「それは、わかりません」

「……それじゃあどうして疑われているってわかったのさ?」

 サグメンタートの返答に、ボッディはさらに首を捻ったようだった。彼女も顔を曇らせる。

 今サグメンタートはどんな表情をしているのだろう? 声だけで相手の感情を推し量るのには限度がある。

「――突然、半ば無理やり、聖の間に送られることになったからです。この強引さには、必ず裏があります」

 躊躇うようなたどたどしさで、サグメンタートはそう説明した。とはいえ、これだけではボッディには全く理解できなかっただろう。

 だが彼女が事態を推測するには、十分な情報だった。

 聖の間は、シリンタレアの奥の層に存在する一つの部屋だ。そこには古から存在する医術書や、遺産と同時期に発見された物たちが収められている。正しき医療の再現を目指すシリンタレアにとって、それらの書物や道具は貴重だった。

 しかしその部屋には一つ、大きな問題があった。部屋に長らく滞在する者は、必ず倒れ、亡くなる。そうしたことが幾度となく続いた。まるで呪われた場所だった。

 一時は、死の魔法がかけられているとも言われていたらしい。その理由を突き止めるために、何人もの医術師が聖の間に挑んだ。けれども誰一人として、その原因を探し出すことができずに今に至る。

 有害な場所として、立ち入ることを禁じられていた時期もあるという。

 しかしそこに保管された医術書をそのままにすることを、よしとしない者は必ず現れた。どの時代にもいた。医術の発展に寄与するならばと、捨て身の覚悟で挑む者を止めるのは困難だ。

 とはいえ聖の間の物を外に持ち出すのは危険だ。倒れた原因が未知の感染症の場合、その行為は感染源をばらまく結果となりかねない。

 大国に治療の場を提供することで生きながらえている小国として、それだけは絶対に避けなければならない。

 悩んだ上層部は、ある時決断を下した。定期的に医術師が一人、聖の間にこもり医術書を研究することで、とりあえずの解決策とした。これが聖の間送りの始まりだ。

「そうですか。母が……」

 彼女は軽く唇を噛む。聖の間に入る人間は定期的に選ばれているが、それが悪用されることもしばしばあった。政争の具に利用されるといった事態だ。

 特に聖の間への入室が早められる時は、裏で何かが起こっていたと後で知る羽目になることが多い。大国の思惑が絡む時もある。母の場合は何が原因だろうか。

 失踪事件を探り始めたことで、誰かを刺激したのか? ディルアローハの父は、その中の主たる人物の一人だ。では父の動きを封じるための計略だとしたら?

 いや、だからといっていきなり聖の間というのは妙だ。それは最終手段に近い。

 ならばやはり大国が絡んでいるのだろうか。もしやシリンタレア内で問題が起きていることに、二大国のどちらかが気づいたのか? 遺産探索警報も、ディルアローハらが合流するのを阻むための策なのだとしたら……。

 様々な可能性が彼女の脳裏を駆け巡った。大国が既に本格的に動き出しているのだとすれば、彼女らが小国を訪ね歩いていても無意味だ。勝ち目はない。

「ふぅん。よくわからないけど。じゃあもしかして、ディルさんの母さんが疑われてるせいで、ディルさんも狙われているかもしれないってことかい?」

 考え込むよう頭を傾けたボッディは、前方を見遣った。何も知らぬボッディはそう受け取ったらしい。その辺りは不明だ。

 だが真相はどうであれ、シリンタレア内外どちらにも危機が迫っていることは確かなようだった。うまく帰国できたとしても、気を許している暇はなさそうだ。

「静かに」

 そこで忽然と、ボッディは足を止めた。ばっと左腕が大きく振られ、黒い外套が揺れる。

 何事かと問いかけようとした途端、こちらを振り返ったボッディは口元に人差し指を当てた。

「獣の気配だ」

 そう言われて彼女も耳を澄ましてみたが、何も聞こえなかった。サグメンタートも戸惑っているようだった。

 ボッディの勘か? 音とは違う、何か別な違和感を掴んだのか? しかしたとえ取り越し苦労であったとしても、警戒する方が賢明だろう。

「ここからはお喋り禁止だ。サグさんも、できるだけ足音を殺してくれよ」

 小声でそう続けたボッディは、再び慎重に歩き出した。彼女は静かに息を呑む。先ほどの野犬のぎらぎらとした瞳が、不意に思い出された。

 ボッディの持つ遺産があれば、獣など怖くない。そう考えたくもなる。だができる限り遺産を使用しないに越したことはなかった。

 資源が枯渇しつつあるこの時代、かつての技術で生み出されたものを再現することは困難だ。それらをまともに動かすのさえ難儀するのが普通だった。手入れや保管方法もよくわかっていないものが数多ある。失ってしまえば、それまでだ。

 ボッディの警告を機に、三人とも無言になった。沈黙を揺らすのは時折吹き込む風のみ。獣の声らしきものは、それからも彼女の耳では捉えられなかった。

 痛々しい静寂に染みこむサグメンタートの靴音も、徐々に重くなっていく。緊張が疲労感を強めているのだろう。蹴飛ばされた小石が跳ねるのを横目に、彼女はどうにかため息を飲み込んだ。

 申し訳ないと感じることさえ、きっとサグメンタートは快く思わないだろう。心の奥底がざりざりと削られていくような感覚に陥りつつ、彼女は黙り込む。

 これから待ち受けるだろう事態についてあれこれ考えても、気分が沈み込むだけだ。だからといって投げやりになってもいられない。背負った革袋を軽く手で撫でつつ、彼女は瞳をすがめた。

 何のためにはるばるニーミナを訪れたのか。何ら罪のない子どもたちを不安から救いたかったからだ。この汚れきった世界に産み落とされてしまった彼らが、彼女と同じように心細い夜を過ごすことがないように。ただただそう望んでいた。

 誰が何を企んでいるのかは知らない。それでも子どもたちを巻き込むのは反則だ。彼らはシリンタレアの希望であり、未来だ。

 そう思って決意を固めると、ふと疑問が浮かび上がってくる。それでは一体誰がサグメンタートをここへ寄越したのだろう?

 彼は医術師見習いだ。つまりシリンタレアにとってはかけがえのない人材ということになる。そんな青年をこんな危険な地へ送り込むというのは、尋常な案ではない。

 だから彼は不機嫌なのだろうか? それとも、まだ何か隠されていることがあるのだろうか? 考えれば考えるだけ、腑に落ちない点ばかりが目につく。

 彼女が何も知らされていなかっただけなのか。彼女が出国した後に大きく動いたのか。

 背負われたままあれこれ思案している間に、夜はどんどん更けていった。空へと一瞥をくれれば、月の位置もずいぶん変わっている。空とはこんなに広いものかと、新鮮な気持ちになった。

 シリンタレアの人間は健康管理も肝要だ。故に、夜に出歩くことは普段は制限されている。

 まともな治療法がないこの時代において、感染症を制御するなど並大抵の努力では達成できない。かつては存在したという薬の名を本で見かける度に、彼女は何とも言えぬ思いに襲われた。

 いつだって栄光は過去の中にしか存在しない。

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