第6話 ボッディ博士
地を蹴る音が近づいてくる。どくどくと鳴る心臓の鼓動がうるさい。ナイフを構える手が震えた。それでも目だけは瞑らぬようにと、彼女は自らを叱咤した。
野犬が大きく跳躍した。覚悟を決めた彼女は、奥歯を噛んで衝撃に備えた。が、その瞬間は訪れなかった。
耳覚えのない音がして、野犬の体が大きくのけぞった。痛ましい叫声が辺りの空気を揺らす。はっとした彼女は青年の方へと視線を転じた。けれども彼も呆然とその場にたたずんだままだった。つまり、彼が何かしたわけではない。
「おう、間に合ってよかったわぁ」
暢気な声は、闇の向こうから聞こえた。目を凝らせば、遺跡の陰から人影らしきものが近づいてくるのがわかった。
夜でも目立たぬようにか黒い布に身を包んだ、小柄な男だ。黒い帽子に黒い短靴と、本当に黒ずくめだった。やや訛りが目立つ共通語だ。
「手遅れになったら怒られてしまうところだった」
男のただならぬ気配に怯えたのか、残りの野犬が一斉に逃げ出す。甲高い咆哮が遠ざかっていくことに、彼女は心底安堵した。
しかしこの男が味方とは限らない。こちらの身ぐるみをはがしに来た盗賊の可能性もある。彼女はナイフを握ったまま男の様子を観察した。
月光の下、悠然と近づいてくる男の手には、小さな機械が握られていた。あれはまさか遺産か? ぞくりと彼女の背は粟立つ。
「お姉さんがディルさんとかいう人でしょ?」
足を止めた男は、遺産をぷらぷらと揺らしながらそう問うてきた。彼女はびくりと肩を震わせた。
それは確かに彼女の愛称だ。しかし愛称というのは、それなりに近しい者か子どもしか使わない。名前が長いのはシリンタレアの人間の特徴だが、大人同士は略すことなく役職名を付記して呼びかけるのが通常だった。
しかしもう一人だけ、この辺りの地でそう呼ぶ人間に心当たりがある。
「クロミオくんの、知り合いですか?」
長くて呼びにくいからと勝手に略してきたかの少年だ。すると男は目を輝かせながら、満足そうに相槌を打つ。
「ああ、話が早いお姉さんだ! そう、クロミオ少年から、ここを通るお姉さんがいたら助けてやって欲しいって頼まれてな。顔青くした使者さんが早馬で来たもんだから、何事かと思えば。いやぁ、実は疑ってたんだけど、念のため張っておいてよかったわ。クロミオ少年に恨まれると厄介だからなぁ」
ぺらぺらと喋った男は、彼女から視線を外して右手を見た。そこには、硬い顔で成り行きを見守る青年の姿があった。黒ずくめの男はまるで値踏みするような眼差しで鼻を鳴らし、青年へと問いかける。
「で、お兄さんはどこのどなたで?」
「……尋ねるのならまず名乗ったらどうだ」
「おいおい、助けてもらっておいてその言い草はひどいわなぁ。人は俺のことをボッディ博士と呼ぶ」
「博士?」
「物知りって意味さ」
怪しい男――ボッディはけたけたと笑った。手を振るのにあわせてくるくると回される機械の正体に、そこで彼女はようやく感づく。あれは銃だ。
大国にはまだ使用できる物が保管されていると聞いたことがある。それを何故この男が所有しているのか。
「で、お兄さんは? まさか名乗らせておいてだんまりはないよなぁ?」
底に威圧的な何かを潜ませた声が、辺りの空気を揺らした。相手がどれだけの武器を所有しているのか定かではない現状で、少なくとも友好的な態度を示している段階で、こちらが敵意を剥き出しにする利点はない。
不機嫌な青年もそう判断したのか、渋々といった調子で口を開く。
「サグメンタートだ」
これで彼女も彼の名を知ることができた。だがサグメンタートという名に聞き覚えはなかった。少なくとも彼女が育った宿舎や教育棟にはいなかった。名の長さや響きは、確かにシリンタレアのものらしいが。
「サグメ……? ああ、じゃあサグさんでいいな」
顔をしかめたボッディは、手にしていた銃を腰のベルトに差し込んだ。その際にかすかに高い金属音がした。やはりボッディは別の武器も身につけているようだ。彼女は固唾を呑む。
もっとも、こんな危険な場所に足を運ぶのなら、武装するのは当然か。銃は遠方の敵を狙うにしても、命中率が低い遺産だったはず。それを補う武器は必要だろう。
「さーて、長話してる時間はないよな。ディルさんたちは毒の地を抜けたいんだろう? 案内するよ。ついてきな」
「い、いいんですか!?」
と、そこで思わぬ申し出を受け、彼女は間の抜けた声を上げた。野犬だけでこの有様だ。無事に毒の地に辿り着くまででさえ、何があるのかわかったものではなかった。
武器を持つ人間が傍にいると、ずいぶんと気持ちが違う。クロミオがどういう思いでこの男を寄越したのかはわからないが、助かるのは間違いなかった。
「もちろん。クロミオ少年にお願いされたんだから当然さ。サグさんは信用してくれてないみたいだけど、こういう時は利用しとく方が賢いと思うよ。ねぇディルさん」
すると他意はないと言いたげに、ボッディは空になった手を振った。胡散臭いと言えば胡散臭い言動だ。しかし現実的には力を借りるより他ない。ナイフを腰に戻した彼女は、静かに頭を下げる。
「よろしくお願いします」
誰かの助けがなければ国には戻れない。そう認めざるを得なかった。
顔を上げると、ボッディは満足そうに頷いていた。一方、サグメンタートは慌てた表情で口を何度も開閉させている。
あっさり信じるのかと問いたいのだろう。彼への態度との違いに文句があるのかもしれない。全く情報を出そうとしないサグメンタートよりも、気安くあれこれ伝えてくれるボッディの方が、判断材料が多いだけなのだが。
それに、今ここで最も強いのはボッディだ。彼を敵に回すのは賢明ではなかった。
「ディルさん、思い切りがいいねぇ。さすがはクロミオ少年の婚約者」
黒い帽子を指先で摘まみ上げたボッディは、にたりと口角を上げた。月明かりに照らし出され、その顔がよく見えるようになる。年を取っているようにも、まだ幼くも見える顔立ちだが、生気のみなぎる双眸が印象的だ。
「はぁ!?」
途端、サグメンタートが声を上げた。どうしたのかと彼女は一瞬訝しんだが、ボッディが口にした単語に反応したのだと思い至る。同時に頭を抱えたい心地になった。
まさかクロミオはあのことを、ボッディのような人間にも吹聴していたのか? これではますますサグメンタートの疑惑を深めてしまう。
「それは誤解です。婚約はしていません」
「そう? でもクロミオ少年は、婚約者を守って欲しいって頼んできたけど?」
「クロミオくんが勝手に言っているだけです」
ボッディの耳に入ったのなら、早馬で来たという使者もこの件を知ってしまったということだ。あの少年は本気で既成事実にしてしまおうとでもいうのか。子どもとは思えぬ、ずいぶんな力業だ。
言葉を重ねることに疲れ、彼女は肩を落とした。そもそもシリンタレア自体が危ういことを、あの少年はどこまで察していたのだろう。交友を維持しても、シリンタレアが無事でなければ意味がない。
「そうかい? だとしても、クロミオ少年が目をつける女性なんて珍しいからねぇ。君は貴重な――」
「お前は、やっぱり裏切ったのか?」
楽しげに言葉を紡いだボッディを、遮ったのはサグメンタートだった。まるで仇を見るかのような形相で、彼女を睥睨してくる。目だけしかろくに見えないというのに、彼が激高しているのは明確だった。
重い一歩を踏み出したサグメンタートの手が、彼女の肩を掴む。握りつぶされるのではないかと思うような力強さに、彼女の顔は歪んだ。
「お前は何のためにニーミナに? これは遊びじゃないんだぞ!?」
低く腹に響くような怒号に、彼女の頭はくらくらした。「痛い」という一言を発することもできなかった。じわりと目尻に涙がにじむ。
「大体、クロミオって誰だよ!」
サグメンタートは何故そこまで疑ってくるのか? 自分のこともろくに話さずに、こちらにばかり求めるのか?
いくらでも文句は言いたかったが、それをここで実行する愚かさは、彼女も重々承知しているつもりだ。故に口をつぐむ。今はできる限り、彼の気持ちを逆なでしない方がいい。
「あーあーサグさん、お願いだから大声出さないでさぁ。盗賊たちまで聞こえるから。痴話喧嘩なら後にして欲しいね。それに、そういう態度は感心しないよ」
と、ひやりと腑の底を撫でるような、冷たい声が辺りに染みた。ボッディだ。はっとしたサグメンタートは、慌てたように彼女から手を離す。
彼女は肩をさすりながら小さく相槌を打った。ボッディの言う通りだ。武器を持つ者が現れたことで、どこか油断していたらしい。
野犬ではなく盗賊までやってきたら。――そして追っ手がやったきたら。それでも大丈夫だとは誰にも言えない。
「もう少し声は抑えてくださいな。話は歩きながらでもいいでしょ?」
それでもひらひらと手を振るボッディには、まだどこか余裕があった。おそらく今まで何度も危険な場面をくぐり抜けてきたのだろう。ボッディの方を振り返ったサグメンタートは、神妙な様子で首を縦に振る。
「すみません。わかりました」
「じゃあ、行きましょか。夜が更けると動物たちがますます活気づく。これだって、滅多に使うもんじゃあないからねぇ」
ぽんと腰の辺りを叩いたボッディは、彼女へと微笑みかけてから歩き出した。重たげな靴音だった。
慌ててついていこうとした彼女は、足首の痛みに再び顔をしかめる。怪我をしていることを緊張で忘れかけていた。平地とはいえ、そんなに早くは歩けない。
「ちょっと待ってくれボッディさん、彼女は怪我を」
すると彼女の様子に、すぐにサグメンタートが気がついた。こういう時だけは医術師らしい――見習いのようだが――顔だ。この歪さが、彼女にはどうも引っ掛かって見える。
「怪我?」
振り返ったボッディはすぐさま眉をひそめた。まるで信じがたいと言わんばかりだった。そのまま頬を掻いたボッディは、うんざりしたように息を吐く。
「それじゃあサグさんが背負ってやりゃあいいだけの話でしょう。まさかその若さで、そんな力ありませんとは言わないでしょ?」
呆れ混じりの、当然といった口調。ボッディの予想外の提案に、驚いたのは彼女の方だ。自分を疎んでいるだろう者に背負われるというのは、様々な意味で憚られる。大体、そんなに軽い体でもない。彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「い、いいんですボッディさん。私は――」
「よくないねぇ。時間がかかるってのは、それだけ危険性が高まるっていうことだ。そもそも、怪我は負担を掛けた方が治りが遅いもんだろう? そんな無茶が許されると思います?」
意地の悪い笑みを浮かべたボッディは、黙したままのサグメンタートへと一瞥をくれた。シリンタレアの人間ならそれくらい考えて動くのが当然だろうと、まるで煽っているかのようだ。
「わかりました」
サグメンタートの地を這うごとき低い声が、彼女の鼓膜を震わせた。再び頭を抱えたい心地になった。
これは一種の拷問だろうか? 自国へと戻る道のりが、まるで滅亡へと向かうこの世界の命運を、象徴しているかのように思えてきた。
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