第22話 第二幕
家の前に止まるパトカーに、近所の人たちは顔を出す。田舎ではよく見られる光景だが、狭い世界で横の繋がりがあると、どこでも起こりうるらしい。
彼方はなんでもないです、と愛想笑いを浮かべ、玄関を閉めた。
「なんだったの?」
居候中の聡子は、せんべいを食べながら質問をする。
「今さらだけどさ、父親の実家に入ったとき、物に触れたりしたかって聞かれた」
「そりゃあ指紋だってべったりなんじゃない?」
「足跡もべったりだよ。土足で上がったからね」
虫やネズミが通ったような跡があり、靴下で上がるのは勇気が必要だった。
「バイトの時間だから行ってくる」
「まさかゴールデンウィークもずっと働くの?」
「一日だけ休みはあるよ」
「彼方、行くんならこれ持っていって」
祖母から渡されたのは、風呂敷の包みだ。
「どら焼きが入ってるから、ふたりで食べなさい」
「うん、ありがとう」
外は春の混じる匂いが消え、本格的に夏への訪れを感じさせる。
庭に刺さる小さなこいのぼりは、祖母が立てる愛情の証だ。孫の年齢が二十歳を超えても差す理由は、愛情のほかに近所の子供たちが喜ぶからだ。
『Aimer』と書かれた店は、占星術とカフェを融合させた茶店である。『Aimer』だけだと分かりづらいためか、『Astrology & Cafe』ともプレートに書かれている。
フロアには、店長のアーサー・ラナウェーラと褐色肌の男性がいた。
「ハロー」
「やあ、こんにちは」
英語で話しかけたのに、返ってきたのは発音の良い日本語だ。
彼方はもう一度、日本語で返す。
茶葉を届けに来ただけのようで、入れ違いに帰っていった。
「すっごく良い香りですね。青々した匂いがします」
「ダージリンのファーストフラッシュです。あとでお茶をしながら一緒に飲みましょう」
彼方は風呂敷ごと彼に渡す。
「これは?」
「おばあちゃんから渡してほしいって言われました。どら焼きだそうです」
「ああ、この前の。本当に下さったのですね」
「この前?」
「一緒にお茶をしたのですが、あんこに興味があると申したところ、あんこを使った和菓子を作ってくれるとおっしゃって」
「一緒に……お茶?」
「飲み友達ですから」
「いつの間にそんなことに」
祖母もそんなことは言っていなかった。
けれど、家族と仲良くしてもらえるのは、幸せだ。
今日のアルバイトは、ダージリンについての勉強会である。
「左から順に、ファースト・フラッシュは春に摘まれたもの、セカンド・フラッシュは夏、秋はオータム・ナルといいます」
「どうしてダージリンだけそんなに分かれてるんですか?」
「異なる季節に取れたダージリンは、それぞれ香りと味が違うんです。では、入れてみましょうか」
乾燥した茶葉自体も、それぞれに色は異なる。特に春と秋に採れたものでは、緑色と茶色くらいの差だ。
三種の茶葉から抽出された水色は、まったく違った色だ。
ファースト・フラッシュは淡い黄色で、カップの底までしっかり見える。セカンド・フラッシュは赤に近い茶色。オータム・ナルは、茶色で、重みのある色だ。
「ストレートでどうぞ」
「……美味しい」
「ファースト・フラッシュは、甘みとフルーティーな香り、優しい渋みが特徴です」
「こっちは、けっこう渋みが強いですね」
「夏に採れたダージリンは、紅茶のシャンパンとも呼ばれています。力強さがある渋みと、濃厚なコクもある。最後の秋のダージリンは、セカンド・フラッシュに比べて高値で取引されることはありません。ですが、夏に比べて甘みや渋みが強くなり、刺々しさの抜けたお茶らしいお茶です」
「採れた季節が違うだけで、味も水色も全然違うんですね。春のダージリンが一番好きかも」
「奇遇ですね。私もです。ですがやはり、世間一般では夏のダージリンの人気が頭一つ分抜けているので、多めに輸入します」
「ダージリンって、どこの国なんですか?」
「インドです。気候も毎年安定しているわけではないので、味が違うんですよ」
残り少なくなった紅茶にミルクを混ぜて飲んでみると、春のダージリンはミルクに負けている。渋みの強い秋のダージリンは、ミルクに一番なじんでいた。
「春と夏はあまりミルクとの相性はよくないかもしれませんね。ですが好みの問題ですし、お客様へは必ずお出しします。さあ、準備しましょうか」
アーサーが微笑むのと同時に、ドアベルが鳴った。
女性二人組で、アーサーを見るなり息を飲む。髪を整えたりと忙しない。
「いらっしゃいませ。こちらの席へどうぞ」
カウンター席へ腰を下ろすのを確認して、メニュー表を渡す。
「これって何が違うんですか?」
女性が指を差したのは、ダージリン・ファースト・フラッシュだ。数百円の差だが、農園も異なる。
「同じファースト・フラッシュでも、採れた農園が違うのです。タルボ農園は渋みが特徴的で、マーガレットホープ農園は、ダージリンとして甘みも渋みもバランスが取れたお茶でございます」
「じゃあ、こっちで」
「かしこまりました」
農園によって味も異なり、摘んだ季節によっても味が変わる。ダージリンは摩訶不思議なお茶だ。
「農園って何種類あるんですか?」
カウンターでこっそり聞いてみると、
「九十近くはありますね」
驚きの返答だった。
「そんなに?」
「毎年の試飲が楽しみでもあります」
温かな湯気と共に香りが立ち、アーサー手作りのワッフルを添えれば完成だ。
女性たちは大いに喜び、フォークとナイフを手にする。
毎日のように変わるセットメニューは、最近はワッフルが多い。
アーサーがジャム作りにはまり、なんとか消費したいという願望も込めたメニューだ。
アルバイトの終わりに、アーサーは瓶詰めのジャムを渡してきた。
夏みかんのジャムで、宝石のように光っている。きっとどら焼きのお礼だ。律儀な性格は、日本人に近い。
岐路につくと、端末に聡子からメールが来た。中身は温泉卵がないという、間接的な催促。彼方は踵を返し、スーパーへ向かった。
目的のものと聡子の好きなお菓子を購入し、井の頭公園へ寄った。
柵に肘をついて、寄りかかっている男性がいる。気配に気づき、振り返った。
過去の記憶がフラッシュバックを起こした。一年前も、似たような出来事があった。金髪に碧眼、癖っ毛の髪が風に揺れ、路頭に迷う姿。彼と重なる。
『ハァイ』
彼と違うところは、ノリの軽さだ。
アーサーよりも身長は少し高いが、金髪碧眼は同じだった。
『こんにちは』
『とてもいい発音だ。英語は大丈夫?』
『話せます』
『人捜しをしているんだよ。吉祥寺にいるはずなんだが……』
男はにやりと笑い、距離をつめた。
『アーサー・スタッフォードっていう男を知らないか?』
心臓が警鐘を鳴らし、危険を知らせた。
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