第18話 記憶の曖昧さ

「警察署の者です」

 表情とは裏腹に、背の高いひょろっとした男性は口元だけに笑みを浮かべる。

「はい、なんでしょうか」

 アーサーさんは客人への対応と同じだ。

「七海彼方さんっている?」

「七海……?」

「あっあの、彼方は僕です」

 僕は焦って片手を上げた。

 後ろからアーサーさんの視線が突き刺さる。僕の秘密がこんな形で漏れてしまうなんて。七海の姓を語るには、父のことを語らなければならない。僕には荷が重い。

「話があるんだけど、いいかな?」

「それなら、外に……」

「お客様もいらっしゃいませんし、ここで構いませんよ」

 やや力強い発声でアーサーさんは答える。逃さない、と岩よりも固い強固の意思。砕くことができず、素直に従う。

「ちょっと聞きたいことがあるんだ。お父さんといつから会ってない?」

「ずっと会っていませんしこれからも会うつもりはありません」

 やや早口で、にっこりと笑顔を作った。けっきょく父の話か、と心の中で吐き捨てる。

「君の家に会いに来たりしていない?」

「はい。来ていません」

「君からは会いには?」

「行ってません」

 僕はきっぱりと告げる。

 二人の男は顔を見合わせ、メモを取っていく。

「ちょっと質問を変えるけど、見かけたりもしなかった? 例えば、池袋とかで」

「池袋?」

 代わりに答えたのがアーサーさんだ。

 けっこう前になるが、ふたりで焼き肉を食べにいった。今まで食べた中で、最高の肉だったから忘れない。口の中が潤ってくる。

「吉祥寺に変質者が出たって通報があって、君の家の付近だったんだ。防犯カメラを調べてみたけど……」

「まさか、僕の父が?」

 警察官は何も言わない。穏やかな笑みを浮かべて、なるべく悪い雰囲気にならないようにしている。それか、これ以上余計な情報を流さないようにしているためか。

「僕は……知りません。庇うつもりもないですし、本当に会ってないんです。祖母も知らないと思います」

「そうか。仕事中にすまないね。でももし見かけたりしたら、連絡がほしい」

「はい」

「よろしくね」

 名刺サイズの紙には、下三桁が一一〇で終わる番号がある。正真正銘、警察へ繋がる数字だ。

 警察官が出ていった後、何て言おうか考えあぐねていると、アーサーさんは難しい顔をしたまま顎に手を置いていた。

「ピンポイントで、池袋と言っていましたね。私とご飯を食べてから、行ったりしましたか?」

「あれ以来一度も駅には降りてないです。ただ……ちょっと気になることがあって」

「どんなことが?」

「焼き肉屋さんを出てから、男性とぶつかったときの話です。男性は振り返って、じっと僕を見つめていて……記憶がおぼろげになってますが、父を思い出したんです」

「あなたが煙草の臭いは苦手だとおっしゃったときですね」

 彼はよく覚えている。

「どうしよう、家に来たりでもしたら。おばあちゃんが、」

「いとこの聡子さんとは連絡が取れますか? もし近いのであれば、しばらく家に泊まってもらうというのはいかがでしょう」

「ちょっと連絡してみます」

 聡子には、父が吉祥寺をうろうろしているかもしれない、とだけ送った。これで通じる。彼女は僕の家の事情を知っているから。

「一度ぶつかった男性が彼方さんのお父上だとしても、簡単に調べがつくとは思えないんですが……。いくら日本の警察が優秀とはいえ、結びつけるのは至難の業です。なぜ分かったのでしょう」

「前科ありなんです。僕の父は」

 アーサーさんは、はっと顔を上げる。

 色物を見るような目ではなく、単に驚いた顔だ。僕は、そんな彼の様子に救われた。僕は僕、父は父と見てくれている証拠だ。

「お酒や賭博に溺れて、母親やおばあちゃんに暴力を振るって捕まっているんです。弱い者しか殴れない臆病者です。僕はそんな男の血を受け継いでいます」

「血の関係は、本当に濃いものです。絶対に逃れられないし、遠くへ逃げても追ってくる。厄介で、すべての血を身体から抜いてしまいたいくらいに。ですが、あなたはあなたです。それで人生を捨てようなんて、諦めるなんて、とてももったいないことですよ」

 ふと、目の前がかすみ、身体の力が抜ける。

「大丈夫ですか? お茶を入れましょう」

「すみません……」

 アーサーさんは僕の身体を支え、席へ座らせた。

 氷がたっぷりと入ったディンブラだ。茶葉の種類はとても多いが、ディンブラはかろうじて分かるようになった。日本人の舌によく合う味だ。

 添えてあるクッキーは、おなじみのジンジャーの味がする。

「すみません……いろいろと」

「謝る必要はありませんよ。もっと食べますか?」

 追加でもらったクッキーは、今度はジャムが乗っている。全部手作りだというから驚きしかない。

「父親が家族に暴力を振るって捕まった後、母は離婚に向けて動きました。僕は小さかったんであまり覚えてませんが、母親の『父親はもういないから』に頷いたのは覚えています」

「ご連絡は一切取っていなかったんですか?」

「はい。おばあちゃんとも、まったく話題に出たこともないですし、様子もおかしかったとかもないです。おばあちゃんもこのこと知らないかも。もし、僕か家族の誰かに会いに来たとすれば、なんで今さら……」

「偶然の巡り合わせもあります。ですが、吉祥寺の辺りをうろうろしていたとなると、おそらく……」

「僕か僕の家族か、ですよね」

「彼方さん」

 ほんの少し、空気が変わった。アーサーさんの姿勢がさらに美しく上に伸びた。

「たいへん聞きづらい話ですが、お母さまの居所はご存じですか?」

 耳の奥が遠のくような感覚だ。

 最大級の爆弾を投げられたような気分。僕が、一番乗り越えなければならない問題だった。

「……知りません」

「そうですか」

 アーサーさんは優しく微笑む。

 まだ、うまく答えられなかった。いつか、ちゃんと向かい合える日が来るだろうか。来てほしい。母の話をすると、耳と胸の奥がつんとなる。

 素っ気ない態度にも、彼は機嫌を損ねたりもせずに優しい。彼はいつも優しいのだ。僕には、心を削って分け与えてくれているようにしか見えなかった。とても暖かくて、涙が出る優しさだ。

「今日は送っていきます」

「そんな……大丈夫ですって」

 アーサーさんは首を横に振るだけで、断固として譲らなかった。

 この日はいつもより早く店を閉め、会話もなく外に出た。

 居心地の良さより、緊張が勝っている日だった。

 父のこと、そして母のこと。一つをとっても難しい。

「彼方さん、もう一つ教えて下さい。七海という名字は……」

「父方の姓です。七海は父の名字ですから。呪われた姓です」

「私は、そうは思いません」

 アーサーさんと目が合う。

 夕日に照らされ、美しい目がさらに濃い碧眼となっている。

 アーサーさんは小声で何か言うが、僕には聞き取れなかった。

 聞き返そうとしたが、雰囲気に呑まれてできなかった。

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