タスケの鯉。

桜野 叶う

タスケの鯉。

一、愛する人のために、全力疾走。

 ウミちゃん! ウミちゃん!

 

 ユウは走った。路面電車の通る大道おおみちを。全力疾走ぜんりょくしっそうで、これまで出したことのない、速いスピードで。ハァハァと息を切らすも、足は止めずに、前へ前へと進んでいく。

 ユウは、死にものぐるいで走った。心の内で、何度もさけんだ。おのれの足にムチを打つ。愛する彼が今どうなっているのか、怖くて怖くて仕方しかたがない。

 速く速く! 足を動かせ! ウミちゃんは今どうなってる? 

 ハァハァと息が苦しくなっても、必死に前を向いて、死にそうな足も容赦ようしゃなく、カラカラと動かしていく。

 

 それは八月だ。初旬しょじゅんのお昼ごろ。突然、広島の空に、すさまじい爆裂音がとどろいた。中心部の方からだった。耳をふさいだあと、ユウは青ざめた。そしてすぐに、家を飛び出した。くつかずに。

 爆心地から、かなり離れた、この町も、建物などが、結構けっこう飛ばされたり破壊はかいされたりしていた。

 爆心地である、その中心部近くのところには、ユウの許婚いいなずけである、海人うみとがいるのだ。空襲かさいによる火災かさいなどの被害ひがい最小限さいしょうげんふせぐための作業に、広島中のたくさんの人々がされだ。海人うみともその一人だ。だから、かなり大きな惨事さんじになっているだろうか。

 たった一撃いちげき爆弾ばくだんだ。しかし、この辺りまで、被害ひがいおよんだ。凄まじい爆裂音は、ここまでとどろいたのだ。街の中心部は、そこで作業をしていた人たち、普段からにぎわっているところだから、多くの人がいたはず。本当に大丈夫なのだろうか。おそろしいことばかりが脳裏のうりに浮かんでくる。第一だいいちに、海人うみと安否あんぴが非常に気がかりだ。

 

 あんじょう、中心部の街に近づくにつれて、街の有りさまはどんどんひどくなっていった。昨日まで立派な建物た立ち並んでいた街。人々が行き交っていた。それが、あの一撃いちげきで、一瞬いっしゅんで、街はここまで荒れ果てて、人々は古びた人形のようにボロボロになって、倒れている。むごたらしい。目をふさぎたくなる。でも、それでは前が見えない。

 そして、さっきまで晴れていた空も、突如とつじょとして現れた雲におおわれていた。ますます心配はふくらんでいく。止まることなんてないだろう。風船ふうせんのように膨らんで、パーンと破裂はれつする。それってどんなときだろうか。ユウは、ますます青ざめる。

 ウミちゃん。ウミちゃん。どうかご無事ぶじで。

 

 建物や、そこにいる多くの人たちが、無様むざまな姿になっていながらも、それをいくつも目撃していながらも。海人うみとだけは、なぜか生きているような気がするのだ。なにも根拠など、一切いっさいないのに。そしてウチに帰って、一緒に海でもながめて話をすることも。昨日までにように。

 ユウは走った。とうに限界になっている。息もえだ。それでも、ボロボロに破壊された街をける。その頭の中は、海人うみとの笑顔でいっぱいだった。元気な笑顔。無邪気むじゃきな笑顔。可愛かわいい笑顔。小麦こむぎ色の笑顔。天使のような眩しい笑顔。

 あぁ、怖い。漠然ばくぜんとした恐怖がユウを襲った。原因は明確にあるのだろうけれど、それを明確にさせたくなかった。街の有り様を見れば見るほど、彼も同じように、むごたらしく散ってしまったのではないかって。怖くて怖くて、いやだった。

 

 嫌だ嫌だ! そんなの嫌だよう! ウミちゃんだけでも、生きていて!


 涙で前が見えない。それでも足を止めなかった。すぐにでも彼に会いたいのだ。

 進んでいくごとに、その思いほ強くなっていく

 

 雨が降った。土砂降りの豪雨ごううが。ゲリラ軍のような雨だった。この雨で、カラッとした晴れの街だったのが、一気に水たまりとなった。ユウの顔も体も、水浸しだ。それでも、ユウは構わない。絶対に足を止めなかった。愛する海人のもとへ急ぐ。ピチャピチャと音を立てながら。

 

 そろそろ爆心地の辺りなはずだ。やはり、ここの辺りが一番地獄じごくだった。そこら中で、たくさんの人々が、ひどむごたらしい姿に豹変ひょうへんして、道端などに転がっていた。あまりにもひど地獄絵図じごぐえずに、ユウは、気持ち悪くなりそうだ。


 そんなユウの体にも、異変いへんが起こっていた。足が、顔が、けるようないたみにおそわれる。特に足だ。足を抱えてピョンピョンするも、またなおして走り始めた。もちろん、回復かいふくしたわけではない。

 原因は、おそらく雨だろう。顔が、足が、この雨にかってからであろう。これは、普通の雨ではないんだ。異質いしつだ。何なんだ。あの、しさまじい爆発ばくはつ。あの、爆裂だ。あれが、広島の街を地獄に変えた。

 そして、その異質いしつな雨の水に、ユウの体はどんどんむしばまれていく。イチバンは、くつかずに水たまりにかり続けている足だろう。まだ、海人は見つけられていない。まだまだ走らなきゃいけないのだ。止まっているわけにはいかないのだ。

 なぞの痛み苦しみにもだえながらも、海人の顔を頭に浮かべ、絶対に足を止めない。


「ウミちゃーん」「ウミちゃーん」

 ユウは、走りながら、海人うみとを呼んだ。さけぶことは出来なかった。

 せめてもう一度だけ、あの笑顔を見せてよ。あの、大好きな笑顔を。見ただけで幸せになれる、あの笑顔を。

 でも、もっと一緒にいたいんだよ。ずっとずっと一緒に!

 しかし、ついに、ユウの足が止まった。ひざをついて、苦しんだ。全身がびしょびしょにれ、当然、体のむしばみも。口を押さえ、何かを吐いた。それは液体のでようで、苦しくて苦しくて目も開けられない。目からは、涙がでた。涙も体の液体のように止まらなかった。

「う…う…ウミ、…ウミちゃん」

 早く会いたいのに、会えないまま、かれてしまうのは嫌だ。くやしくてくやしくて仕方なくなる。嫌だ。ウミちゃん。

『ユウ』

 どこからか、ユウの名前を呼ぶ声が、聞こえてきた。ユウは目を見開みひらいた。これは、海人うみとの声だった。

 ウミちゃん! 

『ユウ』

 後ろを向いた。そこには何もない。再び前を向くと、そこには、一人の女の子がいた。

わたくしは、ゆうたんと申します。にしきぬし様が、貴方あなた様をお呼びです」

 金魚のような赤い着物。下はスカートのようになっている。首もとまでびたおかっぱ頭。その後ろ髪にかざった大きな桃色のリボンが目を引く。錦の主って誰だ?

にしきくににいらして下さい」

 何それ。と思ったのもつか祐丹姫ゆうたんひという女の子は、なんとこいへと姿を変えた。それも、あざやかな紅白の錦鯉にしきごいだ。金魚ではなくて、鯉だったか。

 鯉へと変化した祐丹姫ゆうたんひは、「わたくしの背中にお乗り下さい」と、ユウのすぐ目の前まで近づいた。

 ふらふらと立ち上がったユウは、祐丹姫ゆうたんひの背中に乗った。

「つかまってて下さいね」

 そう言った、祐丹姫ゆうたんひは、空に向かってスイスイ泳いだ。

 ユウは大いにおどろいた。飛んでいる。私は今、空を飛んでいる。鳥のように。飛行機のように。

 そして、今や荒れ地と化した広島の街を見下ろしている。地獄じごくと化した広島の街。昨日までは、活気かっきにあふれていた街。高い建物が立ち並び、人もたくさんいた。そんな街を、海人と手ぶらで歩いたものだ。それがだ。只々ただただむなしい。それだけが、しつこくこびり付く。おかまについた、おこげのように。


 

 

 

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