河童様に願いを

護武 倫太郎

前編

 俺が通っていた小学校の裏には濁った水の池がある。その池はうっそうとした雑草が無造作に生い茂っている中に、ぽつんと存在していた。昔、この池では足を取られてしまい溺れてしまう人がたくさんいたとかで、学校の先生から近づいてはいけないと言われ続けていた。

 でもこの池に近づいてはいけないのには別の理由があると皆が知っている。その池には昔から語り継がれている伝説があった。それが河童伝説だ。池に昔から住み着いている河童は、多くの人を見守っている守り神であり、同時に恐ろしい呪いの力を持っている妖怪でもあるという。

 実際、俺の叔父が小学生の時に、上級生の女子が河童に呪い殺されたことがあったらしい。だからだろう、この池はいつでも人気がなくよどんだ空気が漂っていた。たしかにこの池なら河童がいてもおかしくはない。

 そして、中学校にあがった俺はどうしても叶えたい願いを聞いて貰うべく、その池を訪れていた。なんでも河童にはもう一つ、細々と語られる噂話があった。河童様にキュウリを供え願い事をすると、叶えてくれるというものだった。だから俺は河童様に願ったんだ。

「大好きな彼女とずっと一緒にいられますように」


 あれから6年。当時中学生だった俺は大学生になった。大学は地元から遠く離れたところになってしまったけれど、河童様に叶えて貰った願いはまだ消えていない。

 俺は愛しの彼女、陽菜と同じ大学に通うことができた。正直、高校時代は成績に不安があって、遠距離になってしまうのではないかと心配していたが、河童様のお力なのか山勘が見事に当たった。

 学部はお互い別々になったが、同じキャンパスに通えるだけで幸せだと俺は思っていた。

 しかし、夏休みに入り事態は一変した。

 陽菜が通う国文学科のゼミ生でキャンプに行ったそうだ。そこで、3年の男子学生に目を付けられたらしい。らしいというのも、俺は直接その現場を見たわけではない。そういう噂話が流れてきたのだ。

 直接問いただすのもはばかられ、俺は知らないふりを続けるほかなかった。河童様の力が、池から離れすぎたせいで弱くなっているのではないか。俺はそう感じていた。


 ある日のこと、俺が文化史学科の友人と2限目の講義室へ移動しているときのこと、件の武田先輩とふいにかち合ってしまった。武田先輩も俺の存在に気づいたのか、冷たい視線を俺に向けてくる。俺はいてもたってもいられずに、先輩につい話しかけてしまった。

「武田先輩ですよね」

「そうだよ。君のことはよく陽菜から聞いているよ」

 いけしゃあしゃあと、呼び捨てにする武田先輩はいかに性根が腐っているのだろうか。俺は、はらわたが徐々に煮えくりかえりそうになるのを、必死に押さえる。

「あの、陽菜にちょっかい出すのをやめてもらってもいいですか?」

「いや、ちょっかいって。そんなの君に言われてやめるようなものでもないでしょ。ていうより、陽菜には俺がいるわけだから、君こそもう手を引きなよ」

 そう言うなり、武田先輩は講義があるからと立ち去っていった。友人が俺のことを心配してくれていたが、気を遣う余裕はなかった。俺は友人の心配をよそに講義室とは真逆に歩き出した。


 武田先輩について調べ出すと、様々な情報が手に入った。武田先輩は顔も人当たりも良いため、かなりモテるらしい。その上、プレイボーイな性格らしく、常に女をとっかえひっかえしているとのことだった。

 そんな男に陽菜が引っかかるわけないと思っていたが、どうやら陽菜は本格的に武田先輩に熱を上げているらしい。二股をかけられた怒りよりも、選ばれなかった事実が俺に暗い影を落としていた。

 しかし、落ち込んでばかりもいられない。なんとか陽菜を救い出さなければ。そう思わせる情報が入ってきた。DV疑惑だ。

 武田先輩は日々ジムに通っていて、友人同士でよく筋肉自慢をしているらしい。そして、昔は荒れていて、人をよく殴っていたという噂がまことしやかにささやかれていた。

 そしてある日、陽菜は青あざを作って大学の敷地内を歩いていた。その頃俺は陽菜から避けられるようになっていたため、直接聞けたわけではなかったが、何でも転んでけがをしたと友人から聞かされた。しかし、俺はさすがに信じられなかった。

 武田先輩は陽菜を暴力的で支配して、肉体も精神も縛っているのだ。武田先輩と陽菜が身体の関係を持っているのはその頃には明白だった。陽菜は自分のマンションではなく、武田の部屋に泊まるようになっていた。

 俺は陽菜を武田先輩の魔手から救い出さなくてはいけない。


 河童様の力は完全に消えていた。俺はそう確信した。何しろ大好きな彼女と、ずっと一緒にいられないのだから。

 だから俺は自分自身の手で彼女を救い出す決心を固めた。

 深夜、武田先輩が居酒屋のバイトを終えて自宅に向かって歩いていた。街灯も消えかかり、薄暗い夜道を一人で歩く先輩を見つけた俺は、迷うことなく先輩の背中にナイフを突き立てた。

「うわっ、な、何だ?」

「武田先輩、死んで下さい」

 俺は背中に刺さったナイフを抜き取ると、首元にナイフを突き刺した。

「う、うわああぁ」

 武田先輩が思わずよけぞったせいで、ナイフは首元ではなく肩に突き刺さった。

「ち、血が……。やめる、まだ死にたくない」

 再びナイフを抜き取ると、血がだらりだらりと流れ出す。思ったより出血しないな。俺は武田先輩が逃げられないように、腱をナイフで切り裂いた。

「ぎゃあああ……」

「先輩がよくないんですよ。陽菜に乱暴なことをするから」

 武田先輩の首筋を今度こそ切り裂いた。鮮やかな赤い血が勢いよく噴き出す。武田先輩の口から、ふしゅーという息が漏れ出す。呼吸も苦しそうだ。もう声も出ないのだろう。

 俺は武田先輩が苦しむ姿が見たくて、ナイフを腹に突き刺すと、ごまをするかのようにナイフをねじり立てた。そのたびに苦しそうな音が武田先輩から漏れ出て、その光景があまりに愉快だった。

 武田先輩の体中にナイフで穴を開けている内に、武田先輩の反応はなくなった。おそらく絶命したのだろう。

 陽菜を傷つけた元凶を排除できたことに俺は満足していて、俺の背後に近づく存在に気づけなかった。

「圭太くん、君を殺しに来たよ」

 その声にハッとした俺は背後を振り向こうとしたが、そのときにはもう意識が途絶えていた。朦朧とした意識の中、俺の目にかろうじて映ったのはぬめぬめとした粘膜に覆われた緑色の肌だけだった。

 俺の精神は泡となって消えた。残された肉体は体中の水分がなくなり干からびていたという。

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