第6話
「初めまして、衝羽根夕月様。私は朝辻家の使用人をしています、小倉美佳と言います」
「は、はあ……、ご丁寧にどうも」
週明けの正午過ぎ、昼食を食べ終えた夕月は、突如教室に訪問してきた美佳に呼ばれ空き教室に来ていた。
教室の電灯は消えていて薄暗く、夕月と美佳以外誰もいないせいか空気が重く冷たい。
身震いする夕月に対して、目の前に立ちすくんでいる美佳は寒さなど感じていないのか無表情で正面を見つめていた。
こつこつと時計の秒針が時を刻む音が響く。
夕月には目の前にいる彼女が誰なのか心当たりがなかった。髪の毛は栗色の猫毛。おっとりとした目は、ぱちぱちと瞬いている。身長は夕月よりも顔一つ分低い。全員の顔を知ったわけではないが、少なくとも同級生でないことはわかる。上履きのつま先のゴム部分の色が違うのだ。緑色は二年生だったと夕月は記憶している。
はて、そんな先輩が自分になんの用があるというのだろう。礼儀正しく自己紹介してもらったけれど、朝辻家の使用人といわれてもピンと来ない。
頭の上を疑問符だらけにしていた夕月に気がついたのか、美佳は無感情な声音で言った。
「咲万様のことでお話があり、こちらまで来ていただきました」
そう言われて腑に落ちた。咲万がいいところのお嬢様であることはなんとなく予想していたが、使用人が現れたことでそれが確固たるものとなる。
それにしても使用人か、と夕月は目を細めて、何か良からぬことでないのを祈った。
「早速ですが、衝羽根様のことは咲万様からいろいろ伺っています。その節は、咲万様を助けていただきありがとうございます」
美佳は深々とお辞儀をする。それにつられて、夕月も軽く頭を下げた。
次に頭を上げた美佳は、無感情のままに続けた。
「咲万様が差し上げたものはすべて、そのまま受け入れ下さいますようお願いします。それが朝辻家の意向でありますから」
それが何を指しているのかわからなかった夕月は、思い出そうとして、口移しのことを考える。まさかそれではないなと思うと、必然的に何のことなのか直感した。
「ここからが本題です。こちらにお呼びしたのも、そのお話をさせていただこうと思ったからです。――単刀直入に言います。衝羽根夕月様。あなたに咲万様をあずけていいのか、私が見定めさせていただきます」
なおも平坦な言葉遣いで美佳は言った。
夕月は困惑していた。
「ちょっと待ってください。咲万さんをあずける? どういうことですか?」
「そのままの意味です。咲万様がそれを望んでいるのです。ですが、咲万様の気持ちだけでは決めることはできません。旦那様に決定的な証拠をつきつけなければ、私たちの望み通りにはいかないのです」
それまでかしこまった表情をしていた美佳は、不意にうっすらと微笑み、ちらりと時計を確認した。
「少し咲万様の話をさせてください」
そう言うと、夕月にどこか席につくように促した。
夕月が椅子に座るのよりも一瞬遅く美佳は腰を下ろした。
美佳の口から、ため息ような空気が漏れる。
「咲万様の……、もういいかな……」
思案げな顔をした美佳は、おもむろにその口調を崩した。
「このまま話させてもらうね。裏の顔でいるのってそこそこ疲れるの」
「は、はい……。それは別にいいですけど」
美佳は笑顔を作ってうなずいた。
「咲万の事情について、あなたは何か知っている?」
「いえ、訊いても何も話してくれないので、困っていました」
「そうでしょ」
美佳は苦笑いで、
「あの子、自分のことはまるで興味ないような感じだから。実はこういうこと、初めてではないの」
「こういうこと?」
「まあ、家出ね。学校から帰るとときどき制服のままふらっとどこかへ行って戻ってこなくなることがあってね。とは言っても、次の日の朝には家に戻ってきて何事もなかったようにまた学校に行くから、心配するべきか迷うのよ。ほら、もしかしたら黙って彼氏を作っていたりするかもしれないし、交際に首を突っ込むのも野暮でしょう」
「たしかにそうですが、咲万さんに彼氏がいるとは思えません」
「そうね。私も同じ意見よ。なら何をしているのか。私は気になって、咲万のあとをつけたわ。そしたら、私がどんくさかったのか気づかれちゃって。お詫びに咲万のいうこと聞くから話を聞かせてもらったの。まさか私の学校の後輩の家に入り浸っているとは思わなかった。それ以前の話は教えてくれなかったけど、同じようなことだってなんとなく想像つくわよね」
夕月は、咲万が道端でしゃがみ込んで、誰かに声をかけられているのを想像した。慣れたようにゆっくり顔を上げるそれは、誰かに助けを求める洗礼された仕草だ。
「じゃあ、わたしよりも前にも誰かの家で寝泊まりを?」
「たぶんね。けど、こんなに長い期間帰ってこないことがなかったから、あの子のなかで何か変化があったんだろうと思うわ。そもそも、あの子が家出をするようになったのは、家庭環境が問題なの。厳格で仕事一筋の父と母。きょうだいも有名大学に進学し、咲万の家族は誰一人として彼女に興味を持たなかった。今回の家出も時期に帰ってくるだろうって冷たい感じだったし。だからね、もう家に帰ってくる必要もないと私も考えてる。そのためには、旦那様を納得させるものがなくてはダメなんだけど――」
美佳は夕月に視線を向ける。
「あなたの意思がほしい。本気の想いがあれば、人を動かせると思うの。だからお願い、あなたの意見を聞かせて。咲万のことを、どう思っているのか」
「咲万さんをどう思っているか……」
夕月は自分に聞かせるように呟いた。
咲万と出会った日から、告白を受けた日の夜までのことを思い出す。
既に答えは出ていた。しかし、まだ言葉には変換していなかった。もちろん、咲万にもそれを伝えていない。伝えるには、証人が必要だと夕月は思っていた。普通の関係ではない、この特別な想いには。
夕月は自分の想いを確かめるように言葉を紡ぐ。
「このあいだ、咲万さんに告白されました。からかわれていると思っていたんですが、本人曰く本気だったみたいで……。わたしも今日までいろいろ考えました。好きなのか嫌いなのかではなくて、一緒にいたいのかどうなのか」
やや間を置いて、夕月は続ける。
「一生一緒にいたいな、って思ったわけではありませんでした。だけど、この人の行いを心配する自分もいて……。だからそれは何なのかって考えたら、自ずと答えは出ていました」
美佳は心配そうな顔で夕月を見つめていた。
「わたしは咲万さんに笑っていてほしい。もちろん、いろんな感情があっていいんですけど、最後には笑っていてほしい。そのためにはどうしたらいいのかなんて簡単で、わたしが傍にいることでした」
夕月はすたっと立ち上がると、さっきよりも深くお辞儀をした。
その行動に、美佳は面食らったようにしていた。
「絶対にお家に帰らせてみせます。だからそのあいだ、わたしに咲万さんのお世話をさせてください」
「それがあなたの答え?」
夕月は顔を上げ、真面目な顔つきでうなずく。
「はい」
「そっか……」
美佳は寂しそうに目を逸らした。
風のない夜のようにしっとりとした静寂が辺りを満たしていた。聞こえるのは規則正しい時計の音。それと二人の小さな呼吸音。
生きていれば逃れられないことがある。それは大抵の場合、ある一つの言葉に掌握される。運命。幸も不幸も逆らえない流れの中で生きている。
美佳は立ち上がり、自己紹介の時と同じように頭を下げた。
「咲万様をよろしくお願いします」
「お受けします」
★
「——咲万さんは、もしあの日、わたし以外の人に拾われていたら、わたしにしたのと同じように、口移ししていましたか?」
出し抜けに言われて、咲万は驚いた表情で夕月のほうを向いた。
「突然どうしたの」
「答えてください」
夕月の目にはゆらゆらと揺れる闘志みたいなものがあった。それを見て取った咲万は、観念するように口を開いた。
「もちろん、していないよ。あたしは、相手があなただったからそうした」
「どうしてですか?」
咲万は夕月の顔を一瞥して返事をする。
「……好きだと思ったから。一目見た時から、この人はあたしの運命の相手なんだと感じた。何の根拠もないけどね」
「一目惚れってことですか?」
「ないと思う? あたしはね、あってもいいと思う。脳の錯覚だっていう人もいるかもしれないし、時間が経って冷静になればただの勘違いだと指摘する人もいると思う。たしかにそうだ。だけど入り口には変わりない。その後、ふたりはどうなるのか。あたしは、あなたの家で数日過ごすことになった。これって特別なことでしょ。それ以上に何がいるのか、あたしにはわからない」
咲万は目を落とした。大切なことの終わりを悟ったような、切ない表情を、夕月は横から見ていた。
咲万にいくらか問題があって、それらに目を瞑っていたとしても、彼女は自分自身をしっかり見ることができている。
では、自分はどうだろうか。夕月は自分を客観視する。
どんな思いを持っているのか、夢や希望はあるのか、今何をしているのか。
自分を見るということは簡単ではない。鏡に映ったそれは、かりそめの自分。本当に知りたいのは中身の部分。それはきっと、常に自分を意識できているかで捉え方は変わってくる。
自分はどう思っているの?
そう自分に問う。すると、見えてくる。
「咲万さん」
夕月は相手の名前を呼ぶ。物憂げな咲万の瞳がこちらを向いた。
「わたしも咲万さんのことが好きです。けど、まだ何もわかっていません。だから教えてくれませんか? あなたが今、何を思っているのか」
咲万はほんの少し目を細めて、結んでいた唇を解く。
「いいよ。その変わり、あなたのことももっと知りたい」
「……わかりました」
その後夕月と咲万は、自分についての話をした。途中うとうとする意識を懸命に起こしつつ、話が脱線したりして、ゆったりとしたふたりの時間が流れていった。
やがてカーテンに朝陽が差し始めるころ、ふたりは炬燵に身体をあずけて、小さな寝息を立てていた。
雪降る道端で ゆお @hdosje8_1
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