第2話



 夕月は呆然としていた。初めて見た時から、咲万は不思議な香りがすると思っていた。鼻で感じる匂いではなくて、雰囲気という意味で。何かを隠していると想像はついていたけれど、警察への反応で大体の予想がついてしまう。


 そんな子を自分の家に置いておけるほど、夕月の心は寛大ではない。けれど、拾ってきた責任は自分にあって、首を突っ込んでおいて見放すのはあまりにも冷たい。


 夕月は折れて、息をつく。


「釈明できますか?」


 咲万はちょっと間を置いて、


「嬉しいと思って」

 と真面目な顔で言った。


「口移しをですか?」

「うん」


 はっきりとうなずく。そこに悪意は感じられない。


 どういう生活を送っていればそんな考えになるのだろうか。夕月は完全に困ってしまった。


 咲万は本当にのっぴきならない事情を抱えていて、家庭かどこかで間違いを教え込まれて、非常識を常識として覚えてしまって、勘違いを日常に取り入れて、それをちょうど被った自分はかなり運が悪い。


「でも、咲万さんが言うように喜んでもらいたくてした行為なのに、鼻をつまんでたでしょ」

「そうしないと口を開けてもらえないと思って」


 ああ、なるほど、と納得しそうになって首を横に振る。


「時間も長かったし」

「他の人にするの、初めてだったから」

「え、あ……。そ、そうなんだ」


 もうたじたじだった。完全にペースを摑んだのは咲万のほうで、大逆転負けした夕月は、落ち着いて床に座った。咲万の様子を窺いつつ、ゆっくり炬燵に戻る。


「つまり、奉仕の心があったと」

「うん」

「殺そうとしたわけではなくて……?」


 咲万は小首を傾げた。


「なんでそんなことしないといけないの。カレーまでご馳走になって」


 真っ当な意見だった。これでは自分がいろんな過程をすっ飛ばした、盲目的な自意識過剰者ではないか。


 顔がちょっと熱くなるのを感じながら、それでも咲万がしたことの危険性を説く。


 話を聞いている咲万はとても真剣だったけれど、どれだけ納得してくれているかわからない。


「感謝を伝えるなら単純にありがとうって言えばいいし、もしその人の好みがあればそれを聞いてあげればいいのよ。たとえば、お金とかね」


 ちょっと悪い例かもしれないけれど、お金を貰って嫌な気持ちになる人は少ないだろう。自分だったら、貰った金額がいくらであっても嬉しいし、なんだったら何でも許そうと思える。それだけお金の力は偉大だ。


「咲万さんはまあ、口移しでその気持ちを伝えようとしてくれたから今回はもういいよ。けど、今後はそういうことをしないように。わたしにだけじゃなくて、他の人にもだからね」


 わかったのかわかっていないのか、咲万は長いあいだ思案して黙り込んだ末、


「できるだけ」

 となんとも頼りのない返事をした。


 困りに困る夕月だったが、出逢ったその日に間もなく何かを強要するのもおかしな話なので、これ以上は言わないことにする。


 冷静になって炬燵周り見る。カーペットに落ちたカレーのシミは、もう完全には取れなさそうだ。炬燵と同時に出した新品だったのに、数日で汚してしまうと少し悲しい気持ちになる。冷めかけのカレーライスを見ると、その気持ちも倍増した。


「とりあえず、食べちゃいましょうか」


 咲万のほうもまだ少し残っていて、ふたりは特に何も話さずに食べ進めた。


 ちらっと時計を見る。既に午後十時を回っていて、そろそろお風呂の支度もしなくてはいけない頃だった。


 咲万の上品な所作を見て、ふと思い出して訊いてみる。


「あの、咲万さんの着てる制服って、有名なお嬢様学校のやつですよね? てことは、咲万さんはどこかのご令嬢なんですか?」


 咲万の手が一瞬止まる。


「そんなことない」


 短く答えると、皿に残る少しの米粒をかき集めて、綺麗に食べきった。


「そうですか……」


 謙遜かもしれない。食事の取り方も、あまり音を立てず上品だった。本人が否定しても、家のしきたりとかマナーとか、そういうのを厳しく教え込まれたんだろうと思ってしまう。その証拠に、咲万は炬燵に入ってからずっと正座を崩していなかった。


 夕食の片づけをしている最中、ぼうっと座っているだけの咲万を見ると、なんだか寂しそうにしていた。テレビくらいはつけておこうか。


 リモコンを取って電源を入れる。夜の十一時になるとさすがに面白そうな番組はやっていない。それでも、何かの音が部屋に流れると、だいぶ明るくなる気がする。


 ところで、彼女はいつまでここにいるつもりなのだろうか。


「咲万さん、時間は大丈夫なんですか? もうだいぶ遅いですけど」


 格式高い家の子どもであるなら、門限とかがあってもいい気がする。たとえ咲万の家がルーズな考えでも、これだけ深い時間になれば親が心配しているはずだ。


 ただ、さっき咲万が言わなかった事情が家族と関係なければ、の話だけれど。その場合、自分はどうすればいいのだろうか。


 家に泊める?


 いやいや。さすがにそれをすると、わたしが悪人みたくなってしまう気がする。


 よく考えてみると、理由はどうあれ家に連れて来たのは夕月であり、手を引いて半ば強引な感じでもあったから、これは誘拐にもなりえるのかもしれない。そんな気はさらさらなかったけれど。


 今になって、ちょっと焦ってくる。


 彼女に限って人を売るようなことをするとは思えないけど、万が一ということもある。


 夕月の顔がニュースで全国に流れ、家族は近所から嫌な目で見られ、罪状は女子高生が女子高生を誘拐、になる。それはさすがにまず過ぎる。少年法って個人情報は守られなかったっけ、とぐるぐると思考していると、咲万がぽつりと呟いた。


「泊めてくれるんじゃないの?」

「え?」


 夕月の頭の中は、春に桜が次々と芽吹くようにぽこぽこ湧き出た疑問符でいっぱいになった。


 いつの間にそんな約束をしていたっけと思い、一連の状況を思い出してみるも思い当たる節はない。


 彼女が何かを勘違いしてしまっているみたいだ。これはちゃんと断らないといけない。しかし、ちょっと気になるところもある。夕月だから余計に気になるのかもしれない。


「もしかして家に帰りたくないんですか?」


 咲万は小さくうなずく。


「さっき言ってた事情って、家族のことですよね」

「……そう、かもしれない」


 あやふやな言い方だけど、それでも咲万は否定しなかった。


 気持ちはとてもよくわかる。


 家族と何かがあって、家出してきたのだろう。夕月の一人暮らしはそういうのではないけれど、距離を置きたくなるのは、その年代だと普通のことなんだと思う。


 反抗でもなければ、気を引きたいわけでもなく。ただ、構わないでくれればいい。


 大人はそういうのをうまく理解できていない。咲万みたいな立派な家柄の大人は、特に疎いんだと思う。


 だからこそ夕月は、彼女のことを放り出すことはできなかった。


「わかりました。けど、今夜だけです。今夜だけ、うちに泊まっていっても構いません」

「ほんと?」


 咲万の表情がやんわりと緩む。


「はい。これも何かの縁ですからね。ただ、一人暮らしなんで寝る所は一つしかありませんけど」


 まさか人が泊まりにくるなんて思わなかったし、同じベッドで並んで寝ようなんて提案もしづらい。


 咲万もその辺りは承知の上みたいで、


「炬燵だけ貸して。そっちで寝るから」

 と気を利かせてくれる。


 風を引かせてしまったら申し訳ないけれど、今夜だけだから我慢してもらうことにする。


 咲万はあまり表情に出ないタイプの人みたいだが、今ばかりは安心しているように見えた。


「じゃあわたし、急いでお風呂の支度してくるので。咲万さんはテレビでも見ていてください。チャンネル勝手に変えてもいいので」


 そう言い置いて、夕月は準備に取りかかる。


 突然のことでいろいろバタバタしているけれど、ちょっとだけ気持ちが浮ついていることに気がつく。


 もう半年は一人で夜を過ごしてきた。寂しいなんて思ったことはなかったけれど、深層心理はどうなのか誰にもわからない。


 隠れていたものを見つけるのは、とても難しいことだと思う。それこそ、雪の導きがない限りは。


 こうして、夕月と咲万は、今夜だけ共に過ごすことになった。


    ★


 朝六時。携帯のバイブレーションが右手に響いて、夕月は目を覚ました。


 確かアラームが鳴るように設定してから寝たはずなのに、今日も音は鳴らなかった。昨日もその前の日も直したはずなのに何でだろう。


 ぐっと身体を起こすと、少しの疲労感に気づく。


 昨夜はいろいろあり過ぎて、眠れたのは日付が変わって一時間が経つ頃だった。といっても、時々目が開いて、満足に眠れていない。記憶がないのは四時を十分か十五分か回った頃だった。


 久しぶりに誰かと同じ部屋で寝るというのは緊張するみたいだ。


 しかも、その誰かは、昨日の夕月が道端で声をかけて連れて来た女の子である。それだけならまだしも、夕飯をご馳走になったお礼に口移しをしてくる同性なんだから、それは気が気ではない。


 別に意識しているわけではなかったけど、後になって、その時の彼女の唇の感触が思い出されて――。


「いや、いやいやいや……」


 やいやい言って、自分を自分で否定する。


 何を考えているんだわたしは。なんだったら殺されかけているんだぞ。


 ふと、炬燵のほうを振り向くと、そこに咲万の姿がないことに気がついた。


「あれ? 咲万さん?」


 炬燵に声をかけても掛け布団はピクリともしない。ベッドから起き上がって中を見ても、彼女の姿はなかった。もちろん、トイレや風呂場にいるわけもなく、玄関を確かめると、咲万の靴はなくなっていた。


 夢現の状態の記憶が正しければ、四時頃にはまだ咲万は炬燵から顔だけ出して眠っていた。寝返りした瞬間も見ているので、ほとんど間違いないと思う。


 ということは、夕月が眠りこけた後、咲万は家を出たことになる。


 ハッとして、ドアノブに手をかける。捻ると、何の抵抗もなく玄関扉は開いた。


 背筋に悪寒が走る。


 短い時間ではあるけれど、鍵の開いた部屋の中、無防備でいたことには変わりない。もし、誰かが気づいてその隙に侵入でもしてきた時には、かなり危なかった。


 寒さもあって、夕月は腕を組んで身を縮める。


 咲万が安全な人という保証は初めからなかった。


 出会った場所も、気候に見合わない服装も、行為も、どれも無害であると心を許せる要素はない。


 ただ、本当になんとなく自分と境遇が似ている気がして、同情するわけではないけれど、夕月は手を差し伸べずにはいられなかった。


 しかしそれと、夕月が寝ている間にどこかへ行ってしまうのとでは話が違ってくる。


 せめて一声かけてくれれば、出ていった後に鍵を閉めることだってできたのだから。


 どっちみち、今夜だけ寝泊まりを許したわけだから、今後はこちらから進んで関わらないようにすればいいだけの話だ。もし訪ねてきても家に上げなければ済む。今回の件でいろいろと学ぶこともできたのだから。


 夕月は早朝の冬空を見上げる。


 空の青はどこまでも清澄だ。雲一つない。


 風が静かに吹いて、ちょっと身を震わす。


 寒さに怯えながら逃げるように部屋の中に引っ込む。今日はもう雪は降りそうにない。

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