雪降る道端で

ゆお

第1話



 雪が舞い始めたのは、アルバイト先を出て直ぐのことだった。


 真っ白で細かな雪は、歓楽街の目に悪そうな光で赤や橙色に染まり、道行く人の合間を縫って地面へ落ちていく。


 アルバイト先からそのままにしていたポニーテールが強い風に揺られ、その冷たさに、衝羽根夕月つくばねゆづきは目をつむった。ネイビーのダッフルコートも袖に隠れた指先までは保護できていない。


 風をやり過ごし、はらはらと落ちてくる大粒の雪を目で追う。凍てつく風がまた吹いて、揺られた氷の花弁は、道端の花壇の陰になくなった。あまりにも儚い。


 ふと、花壇の裏側に何か見えて、興味本位で裏側に回ってみる。

 花壇に隠れた部分を確認すると、それは思った以上に大きな塊で、夕月は言葉を失った。


 人だ。


 それも、どこかの学校の黒いセーラー服を身につけた女の子。


 薄闇に浮かぶ細い瞳は、今にも閉じてしまいそうに弱々しい。鳥肌が立ちそうなほど真っ白な顔が、騙し絵のようにぼんやりと浮かんでいる。純黒のタイツは、彼女の足を異様に細く感じさせていた。


 首にマフラーを巻いているが、羽織ものはなく、見るからに寒そうだ。雪の夜にはそぐわない光景に、夕月は身震いした。


 怪しさは満点だけれど、このまま彼女を放っておくわけにもいかない。


 声をかけようとして、突然何かが軋むような音が聞こえて驚いた。鉄骨とかコンクリートなど無機物の音ではなく、生命活動に必要な警告音。一瞬自分のお腹から出た音かと思ったけれど、どうやらそれは座り込んでいる彼女のもののようだった。


「お腹空いてるの?」


 彼女は上目遣いのまま固まっていた。


 反応がない。もしかして喋れないほど寒さにやられてしまったのだろうか。


 これはなかなかの一大事ではないかと半ば焦りつつ、夕月は手を差し出した。


「立てますか? 手、取れる?」


 彼女は少しの間夕月の手を見つめていたが、ようやくゆっくりと片手を伸ばした。


 手と手が触れ合う。夕月の手もそれなりに冷たかったが、彼女の手はそれ以上だった。今しがた冷蔵庫から取り出した豚バラ肉を、夕月は頭の中に浮かべていた。


 凍傷とか低体温症になっていないか心配だったが、一応歩くことはできている。夕月は彼女の手を引いて、自宅まで急いだ。


    ★


 六畳一間の部屋の利点の一つは、室温の変化が早いこと。夕月がそれに気づいたのは、まだ太陽がギラギラと揺れる血気盛んな真夏の頃だった。


 今では見る影もなくなった暑さだけれど、季節は移ろい、当然冬はやってくる。


 十二月に入って初めて出した電気ストーブは、母に言われて亥の日に出した。夕月が実家で暮らしていた頃に母が日を気にしてストーブを出していたようには見えなかったが、それは夕月が注意して見てなかったから気がつかなかったのだ。


 一人暮らしを始めて半年以上が立つのに、今まで当たり前だと思っていたことの意外な部分が見えてくるのは、決して悪いことではなかった。


 今年の四月に高校生になった夕月は、高校入学と同時に母に勧められて一人暮らしをすることになった。


 特に家族と仲が悪いとかは全くない。けれど、それなりに小さな問題はあって。母はそういうのを気にして、わたしに一人暮らしを勧めてくれたのだと夕月は思っていた。


 話を持ちかけられ、その時は面倒臭そうだったから拒んでいたが、一人だけの自由な時間ができることには魅力を感じていたし、それなりに一人でできる気はしていたから、決断のタイムリミットぎりぎりになって、母の勧めを受け入れることに決めた。


 築八年のなんとも言い難いアパートの借りた部屋は小さいけれど、自分の身の丈には合っているし、今となってはとても気に入っている。


 ストーブと一緒に出した炬燵が、狭い部屋をより窮屈にしているのもそろそろ慣れてきた。いつもは夕月以外入ることのないそこには、帰り道に拾った女の子が足を入れて静かに暖を取っている。


 家に着いた時はしばらく玄関で突っ立ったままで、夕月が炬燵に入るように促してようやく動き出した。


 夕月が先を歩いていたことと夜道だったためにその場ではわからなかったが、彼女が着ているセーラー服に見覚えがあって頭を悩ませ、それが有名私立のお嬢様学校のものだと思い出して少し驚いた。どうやら彼女はそういう身分の人らしい。


 それから、彼女にはいくつか身体的な特徴があるが、とりわけ髪は人の目を引く。肩ほどの長さの巻き毛で、色が赤っぽい。若干、茶色も入っているようで、冬には映える色だ。後頭部も毛先も綺麗に染まっていて、少し乱れているが傷みもほとんど見られない。夕月はちょっと羨ましく思った。


 わたしも染めてみようかな。右手で自分の髪に触れる。結ったポニーテールは生まれてこのかた真っ黒だ。高校生である以上、髪を染めるという行為はあまり心証はよくない。それに、たとえ染髪できる状況が整っていたとしても、最後の最後で全てを投げ出すと夕月は思っていた。そういう質なのは自覚している。


 彼女はなぜだか一切喋ろうとせず、うなずく仕草も返事もない。たまに何かを訴えかけてくるようにこちらを見てくるが、どうかした? と訊いてみても反応はなかった。


 さっきから沸かしていた牛乳がほどよく温まったので、市販のココアの粉が入ったマグカップに注いでいく。追加でその上にマシュマロをひとつ落とした。このミルクココアの作り方は、ぼおっとネットを見ていて最近みつけたものだった。


「どうぞ。身体温まるから飲んでください」


 炬燵の上にミルクココアを載せて、彼女に勧めてみる。観察していても飲んでくれるかどうか怪しいところだったので、夕月は構わず次の作業に取りかかった。


 ひとまずは夕飯の準備。お風呂は、後からでもいいか。


 手順を頭の中で整理して、冷蔵庫の中身を見てから、調味料が置かれたテーブルに目を移す。カレールーのパッケージが目に入り、二日前の献立を思い出しながら、まあいいか、と冷蔵庫から食材を取り出した。


 調理を済ませて、彼女の様子を見る。ちょうどマグカップを口に運んでいるところだった。


 夕月と同じくらいの身長なのに、手の大きさは彼女の方が少し小さく感じる。マグカップを両手で持つ姿は、毛づくろいをするうさぎに似ていた。


 鍋の中が煮詰まり、そろそろお皿を用意する。ご飯は朝炊いたものが残っている。一人暮らしだから量は多くないが、一食分なら二人分はなんとか賄えそうだ。


 お皿の上をカレーライスの状態にして、彼女の前に置く。


「ごめんね。手軽なのこれくらいしかなくて」


 どうぞ、とスプーンを差し出すと、不思議そうな顔をして持っていった。


 彼女の仕草はいちいち初めて地上に出た地底人のようだ。見るもの全てが輝いているのかな、と夕月は思った。


 しばらくの間、カレーライスから立ち昇る湯気を観察していた彼女は、ようやくカレーに手をつけた。どうやら混ぜずに食べるタイプの人らしい。


 口に運んで、少しして、パッと彼女の瞳が輝いた。スプーンを加えたまま、まじまじとカレーライスを見つめている。スプーンが歯にぶつかる小さな音がして、


「甘口だ……」


 出会ってから初めて、彼女は声を出した。


 驚いたせいで一拍遅れで夕月は訊いた。


「甘口嫌いですか?」

「……そんなことない」


 彼女はそう答えるとカレーライスを食べ進めた。


 夕月は安堵の息を漏らす。辛口をご所望だったら、残念です、とお断りを入れるしかない。そんな劇物を家に置く気はない。カレーの辛口が好物の人と仲良くなれる自信は、夕月にはなかった。


 彼女の口には甘口が合うようだから、家に招いて正解だ。もしかすると仲良くなることだってできるかもしれない。


 そういえば、と彼女から名前も聞いていないことを思い出す。どこから来たのか、どうしてあんなところで座り込んでいたのか、訊きたいことは多い。


 夕月の分のカレーライスも炬燵に置いて、彼女の斜め横に陣取る。時々カンカンとお皿とスプーンが当たる音がして、その食べっぷりを見てちょっと安心する。


「名前聞いてもいいですか?」


 食事中に訊ねるのもどうかと思ったけど、甘口に反応してくれた流れを断つのも惜しかった。


 彼女はスプーンを加えたまま、顔だけこちらに向ける。目は合わない。小鳥がちょっと考えるように小首をかしげて、


「エマ」


 そう名乗った。


 夕月の頭の中で、海外の有名な女優の顔が浮かんだ。確かに、髪色と相俟って外国人ぽさはあるけれど、控えめなところは日本人の気質が色濃く出ている。どちらかといえば日本人。そう考えると、名前も少し特徴的だった。夕月の名前も大概かもしれないが。


「わたしは夕月って言います。夕方の夕に、空に浮かんでる月。エマさんは? 漢字でどう書くんですか」

「さく……、花が咲くに、一万円の万」


 確か咲って漢字には笑うって意味があったはずだから、漢字では咲万になるのだろう。一万円の万っていう伝え方はやめておいたほうがいいと思うけど。


「素敵な名前ですね」


 微笑みかけたが、咲万の反応は薄かった。


「ところで、咲万さんはあんな所で何をしてたんですか?」

「座ってた」

「寒くなかったんですか?」


 咲万はちょっと考えて、


「わからない」

 と曖昧に言った。


 雪が降るほどの気温の中、制服一枚で寒さがわからないというのは、咲万が単に体温が高いとか寒さに強いからだろうか。そういえば小学生の時、からっ風の中を短パンで走り回っている男の子たちがいたな、と思い出す。


「寒さに強いんですかね。ちょっと羨ましいかも」


 と言うものの、今そんなことをしたら翌日には風邪を引いていることだろう。


「それで、どうして座ってたんですか?」

「なんとなく」

「なんとなく、ですか? 何かそうする事情があったとかでもなく?」

「ある。けど言わない」


 咲万はこの話はもう終わりというように、カレーを掬った。


 これはなかなか難しい女の子を助けてしまったかもしれない。


 彼女にならって、夕月もカレーライスを食べ進める。


 ふと、咲万を見ると、いつからかわからないが、じいっとこちらを見つめていた。驚いて、たいして噛んでいないジャガイモをそのまま呑み込んでしまう。つっかえそうになって、喉に違和感が残る。


「どうかしました?」


 咳ばらいしながら訊くと、咲万はスプーンに取った鶏肉を口に含み、その顔をずいっと夕月の直ぐ近くまで持ってきた。そして次の瞬間。


「うむっ」


 ふたりの唇が重なった。


 夕月は驚いて目を見開く。


 咲万の左手がおもむろに動いて、夕月の鼻をつまむ。


 重なった唇に、咲万が何かを無理やり押しつけてくる。生々しい水音とともに、夕月の口の中に、彼女がさっき口に入れた鶏肉が侵入してきた。


 ひとの口の中で生暖かくなった肉が唇の表面を滑るのを感じる。完全に夕月の口に収まった後も、咲万は動かなかった。夕月も動かなかった。


 そして時期に限界がきた。


 息が苦しい。


 夕月の口と鼻は、咲万によって塞がれている。


 ドクドクと心臓の鼓動が脳内に響き、夕月は勢いよく咲万から離れた。炬燵に膝がぶつかって、宙を回転したスプーンが床に転がる。カレーが辺りに飛び散った。


 殺されるかと思った。まさか、本当にわたしを殺そうと思ってやった?


 危険だと夕月の直感が叫んでいた。


 現実に、口づけと鼻をつまんで窒息させようとする考えがあるなんて思ってもみなかった。難しい女の子というより犯罪の臭いがしてくる。


 警戒するも、あちらは全く気にした様子もなく、無表情で夕月のことを見ていた。


 とにかく警察に電話したほうがいいだろうか。夕月の携帯は充電中で、炬燵の脇においてある。財布は台所のテーブルの上にあるから、お金だけ持って外の公衆電話を使ったほうが安全かもしれない。


 ぐるぐると思考が回ってフリーズしそうになる。非日常的な事件が起きると、人というのはこれほどまでに思考が鈍るものなのか。


 激しい雨が地面で弾けて、上がった白い飛沫に視界を奪われるようだ。


 まず逃げることだけを考えよう。最悪財布を持たなくても、近くの交番で話を聞いてもらえる。


 横目で玄関のほうを見る。じわっと手のひらに冷たい汗が滲んで、拳を握った。


 飛び出そうとした直前、咲万が口を開いた。


「やっぱり気に入らなかった?」


 考えが及ばなくて、夕月は停止した。じわじわと、さっきの彼女の声が夕月の頭の中で色づいて、ようやく整理がついた。


 気に入るか入らないかの問題ではない。こっちは殺されかけた事実がある。


「気に入ると思ったんですか? とりあえず、警察に連絡します。大人しくしていて下さい」

「やめて!」


 言下に、大きな声が響いた。突然のことに、夕月の身体はのけぞった。


「それだけはやめて。お願い、します……」


 咲万は夕月をじっと見つめる。細い眉の端が、困ったように下がっている。その瞳には水膜が張っていた。


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