糸色、ふたりのこころ

よる子

糸色、ふたりのこころ

 人間のこころとは、どこにあるものなんだろう?そこらを行き交う人々に問えばきっと心臓とか脳とか、そういった普遍的な答えが返ってくるはずだ。そういうものと比べてしまえば、わたしの思うこころの在り処は、少し変わっているのかもしれない。でもわたしは知ってしまったのだ、わたしのこころの、棲むところを。



 生きることがどうでもよくなって、自覚をしてからもう五年。それと、三ヶ月。もとより生に執着があったわけではないしこれからもきっとそうなのだ。人が通じて持つ生きたいないし生きねばという情感は、わたし個人の胸の内では僅かしか生まれなかったしましてや育つことなどなかった。たしかに肥料をやったり水を降らせたりといったことはしてこなかったが、そのようなことが必要だとは微塵も思っていなかったのだ。大半の人間はそういった行為を無意識に行うので自己肯定感がまるで蔓のように伸びていくのであるが、わたしのような人間はその何倍も世話をする必要があったのだと気づくのにとても長い年月を要した。与えられる自己肯定感の種を自ら跳ね返しまたは歪曲させ芽吹かせていくわたしに、まともなそれが咲くわけもないのである。

 そういうわけでわたしは二十歳を過ぎたいま職にも就かずふらふらりと日々を過ごしていた。することといえばもっぱらネットサーフィンか布団に横たわるかするだけで、まあ傍から見れば両親の厚意に甘え垂れるただの引きこもりである。

 最近は季節も春ということで春眠暁を覚えずというかつまりただただ眠かった。雨音がサアサア響く昼過ぎ、空腹を覚えつつも敷布団の上に倒れ込み掛け布団で全身を覆う。たぶん、わたしに限ったことではないと思うが雨の日は雨音が他の雑音を消してくれるのでとても眠りやすかった。それに加えて眠りのプロなのだろうか、暗闇で目を閉じるとわたしはあっさりと夢の世界へ旅立った。



「雨なのね」

 雨なんて、彼女と私の周りには降ってなかった。それどころか星のあかりが眩しすぎて太陽みたいだった。

「こんにちは」

 背中の真ん中まである黒髪を揺らして、彼女は笑った。その笑顔があんまり人間離れしてきれいだったので、わたしは彼女は生きている人ではないと悟った。不思議と恐怖は無かった。

「ね、ちょっとお話しをしよう」

 道端の青いベンチを指さして彼女は言った。わたしは初めて体を動かしたが、案外重たくなかった。彼女はスカートのプリーツ部分を丁寧におさえてベンチに腰かけた。アニメや漫画でしか見たことがないセーラー服だった。夜空の色に天の川みたいな白い線が入ってる。いいなぁ、セーラー服。わたしは呟く。

「あは、あなたから見たらそうかもね」

 他人からはわからない、本人にしか感じられない不自由さは誰にだってあるもので、けれど他人のそういう感情に気づくのはなかなかに難しいことだったりする。彼女には彼女なりのセーラー服への不満があるのだろう。わたしは黙った。

「イロハは大切な人っている?」

 イロハ、色葉はわたしの名前だ。お母さんがつけてくれたって、聞いてる。大切な人はそうだなあ、お父さんとお母さんと、弟。それだけ。

「三人もいる。すてきだね」

 目を細める彼女は相変わらずきれいだった。ええ、三人しかいない。

「も、いる。わたしは、ひとり。すごく可愛くて大事な人で、何においても不器用」

 眉を八の字にさせて笑う。

「でね、わたしのすべてを懸けて守りたい人」

 じっとこちらを見て優しくそう言う彼女は太陽みたいだった。ベンチに放り出していた手があたたかくなる。彼女が握ってくれていた。すごく、落ち着いた。握り返そうにも私の手には力が入らない。不思議なくらい安らかな気持ちだったから、逆にもどかしさを感じてしまった。そんなわたしを見て彼女は吹き出す。

「あは、いいよ、大丈夫よ。気にしないで」

 そう言う顔が少し寂しそうで、私はやっぱり悲しくなってしまった。貰った分を返せないのだ。わたしがよっぽど変な顔をしていたのだろう、彼女はさらに笑いだした。

「相変わらず表情が豊かだね。でも、笑った顔が一番好きだよ」

 愛おしいものを見る瞳で微笑む彼女に、わたしはどうしようもない懐かしさを感じていた。彼女をこうして目にするのはたぶん初めてなのだが、額の真ん中で分けられた前髪も、大きな瞳もほんのり色付いた頬も、すべてが懐かしいのだ。なによりこの喋り方が、妙に落ち着いて仕方がない。どこかで、会ったことがある?

「……そうだね、あるのかもしれないね。イロハ、自分のこころって、どこにあるか知ってる?」

 こころ?

「うん、こころ」

 うーん、このへん。

「あは、心臓のとこ?たしかにそういう考えもあるね」

 ええ、なんで笑うの。だいたい皆ここって言うよ。

「ごめん、そうだね。あは。わたし、イロハのこころはそんなとこにないと思ってたから」

 そうなの?じゃあどこにあるの?

「イロハのこころはね、ことばにあるのよ」

 言葉?どうして?言葉って、文字?

「うん、文字だけど、ことば。イロハが生み出すことば全てが、イロハのこころなの。ねえイロハ、わたしもあなたのこころから生まれた。かなり昔よ。あなたがわたしにこころを分けてくれた。あなたのことばは何にでもなれる。こころの叫びを乗せて文章にも音楽にも絵画にもなれる。わたしはイロハの分身で、わたしの世界はイロハ自身。あなたはわたしの宝物。あなたの中でわたしが生きてなくても、わたしの中であなたは生き続ける。だいすきなの。あなたがつらいとわたしは悲しい。だけどわたしにはどうしようもない。こうして夢の中でお話することしか出来ない。どうか、ここにあなたを愛している人がいることを忘れないで。お願い」

 まって、泣かないで。泣かないで。イトハ。

「もう時間なの。また会えるから、イロハも泣かないで。ありがとう、イロハ。だいすきよ」



 枕はぐしょぐしょに濡れていた。目の前に転がる携帯電話に手を伸ばす。画面には十五時の文字。わたしは上半身を起こして窓の外を見た。もう雨はすっかりやんで、太陽が元気に顔を出していた。夢を見ていた気がしたが、あまり覚えていなかった。涙で顔がめちゃくちゃだったので悲しい夢かと思い出そうとしたが、そうでもないらしい。妙にすっきりした気持ちだった。ずっと忘れていた何かを思い出した時のような…。

 伸びをして布団から出た。することもなかったが机に向かってみる。ふと気になって机の下の箱から原稿用紙の束を取り出した。これは、五年前までわたしが書き綴ってきた小説だ。本が好きで、読むことも書くことも大好きで、自分の言葉でゼロから世界を作り出すことが本当に楽しかった。いつからかその喜びも忘れてしまって、書くことはおろか読むことさえもしなくなっていた。

 原稿用紙をぺらぺらめくる。そこには静かに息をするホコリを被った物語たちがいた。ホッチキスで留めてあるものばかりだが、ひとつだけ端に穴を開けて紐で結んだものがあった。分厚さゆえだろうか。タイトルは『星尋ね』。セーラー服を身にまとった少女が星空のもと生きる意味を探して歩み続けるという話であった。細い糸を一本一本集めるように、空っぽのこころに大切なものを蓄積していく。けれど、どんなに読み進めても彼女に大切な人はできなかった。一生懸命に生きる彼女は、糸葉はひとりぼっちなのだ。

「………」

 この物語は完結していない。わたしは何かにかき立てられるように鉛筆を握った。わたし自身のことばでこころのままにこの物語を書き終わったとき、きっと何かが見えてくる。だれかがそう耳元で囁いた気がした。

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