椿ノ峰高校の平凡な非日常

蟬時雨あさぎ

June:見知らぬ指輪

青嵐葵乃の拾い物

第1話 紫陽花の花は萼

 突然だが、六月といえば何を思い浮かべるだろう。


 それは一面雨雲の変わり映えしない窓の景色に飽き飽きしつつ、廊下を歩いているときのことであった。

 雨樋あまどいから滴り落ちる水がパチパチとコンクリートに打ち付け、ザアザアと降りやまぬ雨の音が響く中。辺りに冴えわたるような効果音を立てながら――は私の目の前で床へと落ちたのだった。


 まさに、カラーン、という金属音を立てて。


「……お、落としましたよ!」


 そりゃあ勿論、呼び止めた。何ならその落し物を拾って差し出していた。だって私は見ていたのだ。彼の制服の影の中から、するりとが落ちてきたところを。

 しかしながら、だ。振り向いたソイツは私を見下ろし、差し出している落とし物――鈍く輝く、に視線を移して。

 その後、程々に整った顔立ちを不快そうに歪めながら、睨みつけるように目を細めてこう言ったのだった。


「俺はそんなもん落としてねーよ」


 と。


 私は茫然と、紫陽花あじさい色だなあなんて。歩き去るソイツの、毛先の色を見て思ったことだけを覚えている。



 *  *  *  *  *



「お~い、葵乃あおのサーン? 青嵐あおあらし葵乃あおのサン??」

「はっ!!」

「あっ我に返った」


 いかんいかん。こともあろうに化学の実験中に悟りを開いてしまうとは。アルコールランプとかを使う実験じゃなくて本当によかった。

 けど、実験ペアの海藍うみあいちゃんがすぐ隣にまで来ても気が付かないなんて。不思議ちゃん認定一歩手前になるところだった。


「海藍ちゃんごめん、何だった?」

「これ測り終わったよ~って。あと友達なんだから、瑠璃るりって呼んでよ」

「ごめんごめん。有難う、海藍ちゃん」

「うーんブレない……。だがそこがイイといえばイイ!」


 名前を呼ばないのは別に彼女が数少ない女友達で、そして仲良くなったとは思いつつも名前で呼ぶという行為自体慣れていないのでちょっと恥ずかしいからだなんてことはない。ないったらないのだ。


「それでどーしたの?」

「え?」

「何かあったんでしょ? 葵乃ちゃんのトンデモ話、聞きたいなあ」


 浮かべられたのは、にこやかな笑顔でした。うっ、可愛い。

 既にトンデモ話だと決めつけられているのは誠に遺憾だが、あながち間違っていないので何とも言えない。出席番号一番わたし二番うみあいちゃんの付き合いは、伊達ではないということだろう。


「いや、でもそんなに面白い話じゃないし」

「ええー。でも、気になる! 葵乃ちゃんが授業中にボーっとしているのは珍しくないけど」


 なんだか今サラッとディスられていた気がするのは私だけだろうか。


「でも今日のは何ていうんだろ? どちらかっていうと、意識を根こそぎ持っていかれている感じだったし。あ、もしかして――」

「もしかして……?」


 ビーカーに指定された量の水を汲んで渡せば、海藍ちゃんの手元の薬包紙の粉末を含め、実験材料が全て揃った。


「――恋?」

「誠に残念ながら断じて違う」

「だよねー。となると、何かなあ。お昼ご飯が美味しくなかった?」

「ええと、海藍ちゃんにとって私はどんなヤツなんですか……?」


 あれ、違った? と心底不思議そうにする海藍ちゃん。

 確かに、お昼ご飯のお弁当の豪華さで露骨に機嫌が良くなったり悪くなったりする自覚はあるけど。美味しいものをお腹いっぱいに食べられるというのは、幸せなことなので。そして甘いものは正義。

 だがしかし、だ。


「今日のお昼ご飯は唐揚げがとても美味しかったので大満足でした」

「よかったね~。てことは、移動教室中に頭の上から虫が落ちてきたりとか?」

「……ヤメテ思わず想像しちゃったじゃないか海藍ちゃん」

「それもこれも、君が素直に話さないからだよ葵乃君。さあ、まるっと全て洗いざらい吐きたまえ~」


 さもなくば次はどんな想像をさせてやろうか、という表情はきっと第三者には非常に愛くるしいものに映ることだろう。しかしながらやはり出席番号一番わたし二番うみあいちゃん、彼女が私を知っているように私も彼女を知っている。


「……ちょっと、衝撃的な出来事だったってだけの話だよ?」


 というのもこのゆるふわ可愛いガール、虫も昆虫もオールオッケー、なんなら爬虫類はちゅうるい大好きなトカゲ愛好家なのだ。私からすれば爬虫類はいいのだが、ただし虫よテメーは絶対アカンのである。こうなっては白旗を上げる他ない。


「……移動教室のとき、目の前の人がこう、コロンって落とし物をしたから、『落としましたよ』って拾ってあげたんだよ」

「おお、葵乃ちゃん流石、良い人じゃん」

「だけど、『俺のじゃない』って受け取ってもらえなかったんだ」


 あの、雨音響く廊下での出来事。

 私の目の前で指輪を落としたその男は、名乗ることなく、受け取ることなく、お礼を言うこともなく、そのまま去って行ってしまったのである。そのお蔭でくだんの指輪はといえば、私のポケットの中に入ったままなのだ。


「なにそれ、不思議すぎる……相変わらず変な引きが強いよねー」

「ただ落としたもの拾っただけなんだけどな。なんかすごい睨まれたし」

「ええ~、こわ。でも、なんでそんなことになったんだろ?」

「さあ? 誰かもわからんし、睨まれるし、衝撃的過ぎて回想してた」

「それはごしゅーしょーさま。お~出来た!!」

「ほんとだ」


 駄弁りながらも実験は無事成功。海藍ちゃんの目の前、ぽいっと入れられたマグネシウムリボンが、ビーカーの中で泡立っている。私の目の前のビーカーは無反応だ。

 酸と塩基に関する実験はまだまだ続くが、とりあえずひと段落。実験室ならではの背もたれのない椅子に座り、現在の状態をノートに書き留めていく。

 しかしその傍ら、私の脳内には指輪を押し付けていなくなりやがった名も知らぬ男が居座っていた。


 最も大きな疑問は、


「にしてもさあ、……最近なにかと指輪が話題だね~」

「? そうだったっけ?」

「ほら、アレだよアレ――思い出した! “大量の指輪が落ちてる事件”!!」

「こら、青嵐と海藍! 実験中大声の私語は慎むように!!」

「すみません!!」

「ごめんなさ~い!」


 そんなこんなで午後の実験の授業は過ぎ去り、放課後。

 ポケットには持ち主知らずの指輪。私はたった一つの作戦を引っ提げて、職員室の一角へと向かった。


「すみません、鶴見先生はいらっしゃいますか?」


 先生方の視線がザッと一瞬集まって居たたまれない気分になった後、ひらひらと揺れる手が目に入る。所狭しと書類が並ぶ事務机を前に、座ったまま私のほうを見ている鶴見先生(推定)がいた。


「はじめましてだよね。一年生ってことは君は奇数クラスかな?」

「はい。一年一組の青嵐です」

「青嵐さんね。知ってるかと思うけど、偶数クラスの社会科目を受け持っている鶴見つるみ繕郎つくろうだ」


 存じ上げております。初めて見たけど。


「それで、何の御用かな?」

「指輪を拾ったので、お届けに参りました」

「指輪?」

「はい。あのですね――」

「――ちょっと待って。場所を移してから話そうか」


 鶴見先生(確定)の制止に頷いて返す。多くの先生でごった返す職員室では話すことじゃないと思ったのだろう。まあ確かにその通りではある。

 先生の先導で向かったのは、職員室から程遠くなく、且つあまり人通りのない階段の踊り場だった。


「それで、指輪を拾ったって?」

「はい。風の噂で先生が指輪を探しているとお聞きしたので」


 ポケットから取り出した指輪を見せつけた。くだんの指輪である。

 何故、面識のない非常勤講師にこうして指輪を見せつけているのか。勿論、理由はある。


 鶴見繕郎。男性。既婚者。

 すらりとした長身。整った顔立ち。

 入学直後の授業で、若いイケメンの先生がいる! と、一年生女子達の心機一転ワクワクドキドキ高校生活へと彩りをもたらした男である。

 そんな彼が、指輪を探しているという話が少し前に出回っていたのだ。だいぶ前に情報通である友人の緋扇ひおうぎ朱灯あけびに聞かされた話であるが。

 その話によれば、彼は授業中に結婚指輪を無くしてしまったらしく、探し回るものの偽物の指輪は大量に見つかれど本物が見つからず。このままでは埒が明かないと、生徒にも協力を募っているとか何とか。

 そしてこれが理科の実験中に海藍ちゃんが言っていた“大量の指輪が落ちてる事件”でもある。


 つまり、だ。

 私は持っていたくもない指輪を持っており、鶴見先生は指輪を探している。なんという需要と供給の一致!!


「あー、なるほど。そういうことか」

「はい。どうぞじっくりご覧ください」


 正直、何故あんな態度をとられたのかは気になるところである。

 だが初対面であれほどな対応をされてしまった私としては、二回目の遭遇は遠慮したい気分になるもので。

 その折衷案として浮かんだのは、“先生を利用して真相を知る”ということであった。


 さあどうぞ、鶴見先生。指輪を手に取ってください。

 そしてそのまま返さないでください。


「……いや、それには及ばないよ」

「? コレ、そんなに落とされた指輪とは似ていませんか?」

「そうじゃなくてね。結婚指輪は、もう見つかったんだ」

「モウ見ツカッタンダ?」

「そう。もう見つかったんだ。ほら、これ」


 ワア。ナンダッテ。

 鶴見先生の左手、指が細ーい、そして長ーい。羨ましーい。ほんとだ、結婚指輪も嵌ってるー。きゃー素敵ー。

 うむ。これには指輪を押し付ける手も、思わず取り下げることになる。


「直接渡しに来てくれたところ悪いんだけれど、ね」

「そう、ですか。でも、見つかってよかったですね」

「本当にね。君も、協力しようとしてくれて有難う」

「いえいえ、そんなそんな」


 ごめんなさい。そんないい子ではありません。

 絶賛貴方を利用して指輪が落とし主のところへ届けさせようとしていただけの、結婚指輪紛失事件とは無関係な第三者です。


「にしても、まだ指輪が落ちていたなんてね。これでもう七十個は超えるかな」

「……噂には聞いていましたが、そんなにたくさんの指輪が?」


 思わず目を見開く、とはこのことだろう。

 手の指なんてせいぜい多くて十本しかないというのに、その何倍もの指輪が結婚指輪として現れ、そして持ち主がわからぬまま先生の手元にあるとは。

 何とも想像の斜め上を行く状況である。


「ああ。今も持ち主探しで大忙し、というところかな」


 ははは、と乾いた笑いを零す先生。

 よくよく見れば、鶴見先生はそのさわやかな顔立ちにほんの少しの影が差しているような。有体に言えば、少し疲れたような顔をしていた。初対面の私でもわかるということは、相当なものではないだろうか。


「でも、責任をもって落とし主へと返すよ。勿論、その指輪もね」


 柔らかな微笑を浮かべて、手のひらを差し出す鶴見先生。どうやら失敗かと思われた作戦は、成功を引き当てたらしい。

 らしい、のだけれど。


「? 青嵐さん?」

「あ、……えっと、ですね――」


 ――結論から言おう。私はいまだに指輪を持っている。自分の手で持ち主へと返却し、あの紫陽花あじさい髪の謎の言動、その真相を暴いてやろうと決意を新たにしたので。


 理由はまあ、いわゆる良心りょうしん呵責かしゃくというヤツだ。決して、先生の物憂げにも見える疲弊した顔に絆された訳ではない。決してだ。

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