第45話 変ですよ
「確かに空海が創建したのは金剛峯寺だ。しかし、今はそこを根本道場として百十七の子院がある。高野山は一大宗教都市なんだよ」
「へえ。で、その一つが春成さんのお寺」
「そういうことだ。そして、こういうのも縁というのだろうが、師匠が願孝寺を知っていて、紹介してくれた。さすがに美希と知り合い、付き合っていたとはいえ、いきなりそこの僧侶にしてくださいと言っても突っ撥ねられる。お寺も受け入れられる人数が限られているし、他から修行させてくれと頼まれていたら、俺が勝手に入る余地はない。だが、恭敬さんは今は一人でやりくりしているからと紹介されて、ちゃんと迎え入れられたというわけだな」
「それは、やっぱり美希さんが導いてくれたんじゃないですか」
「だといいんだけど」
おかげであれこれ動揺しまくりだと亮翔は僅かに肩を竦める。確かにあれよあれよと願孝寺に入ることが決まった時は美希の導きであり、僧侶になったことは間違いではなかったと思えた。しかし、そこに美希がいるわけではないのだ。恭敬とは一度挨拶をしたことがあるだけだったし、いわば知らない寺に入ってそこで修行するのと何ら変わりはない。
そしてここでかつて美希が生活していたという実感が得られるわけでもない。お寺ははやりお寺なのだ。生活空間は別にあるとはいえ、亮翔が寝泊まりする部屋と美希が生活していた場所は区切りがある。そしてそのもどかしさが、亮翔を苦しめる原因の一つになっていた。
「未練しかないなって、何度も思うよ。かつてここで美希が過ごしたのかと何度か思い、でも、何の痕跡もないなと思ってしまう。その繰り返しだ」
「――」
「それに美希は大学生の時に東京に上京しているんだから、俺の知る美希の痕跡があるはずがないんだよな。それなのに、美希がいた場所に来てしまったなんて、なんて馬鹿なことをしているんだろうと、何度も思った」
なぜ、千鶴に向けてこんな話をしているんだろう。自分でも解らなくなっていたが、亮翔は春成にも恭敬にも、そして美希を知る八木にも吐き出せないことを、ようやく吐き出せていた。それはたぶん、千鶴が美希のことを全く知らないからだろう。
「亮翔さんは美希さんのためにお坊さんになったんですか」
そんな亮翔に、千鶴は何ともストレートな質問をしてくれる。だが、それは亮翔の心の中に大きな波紋を作った。
お坊さんになったのは美希のためだったのか。
それは恭敬にも問われたことに通じる。僧侶になる決断をさせたものは何だっただろうか。亮翔は今になって解らなくなっていた。願孝寺に勤めることになり、いつしか美希との約束通りになったなという思いが強くなっていたが、果たして、自分が研究の場を捨てた時に感じていたのは、その約束のためという思いだっただろうか。
「俺は、この世界が解らなくなっていたんだ」
「えっ?」
「そんな時、美希と喋っていて知った仏の道について考えた。気づいたら、高野山の門をたたいていたんだよ」
「――」
「こうやって僧侶になったのは、自分のためだな」
亮翔が自嘲的に笑うのを、千鶴は複雑な思いで見つめることしか出来ない。美希のためというのは二の次だった。それはそれでいいと思う。でも、総てを否定してしまっていいのだろうか。
美希と何があったのか、飛行機事故で行方不明の彼女のことをどう思っていたのか。千鶴は詳しく知らない。でも、そんなに簡単に片づけていい感情ではないのは確かだ。そう思うと、千鶴は徐々にむかむかしてきた。
「亮翔さんにとって、美希さんは大事な人じゃなかったんですか」
「な、何を言う。大事だったに決まっているだろ」
「じゃあ、なんで今になって慌てたようにそんなことを言い出すんですか?」
「えっ?」
「今日の亮翔さんはいつも以上に変です。美希さんことを考えて動揺するほどだったのに、何だか変な吹っ切れ方をしようとしていて。美希さんとの思い出を捨てようとしているように見えます。今まで俺って凄いみたいな空気を出してたくせに、今日の亮翔さんは甘えているように見えますよ」
「――」
千鶴の言葉に、亮翔は再び大きく目を見開く。そして、美希に叱られている気分になった。何をどうしたいのか。これまでの気持ちはどうだったのか。色んなことに悩みすぎてぐちゃぐちゃになっている自分。それを、どこかで美希のせいにしていないか。
「補陀落にいるんだって、思い続けることは駄目なんですか。死んでしまったかもしれなくても、どこかにいるって信じるの、駄目なんですか。なんだか今日の亮翔さんは、無理に美希さんを忘れようとしているみたいです」
驚く亮翔を無視して、千鶴は追い打ちを掛けるように言ってくれる。まったくもう。本当にこの子には色々と感情を揺さぶられる。
「悪くはないんだ。でも」
死んだことを感情で理解できていない。春成の指摘もまた心に深く刺さっていて、どうしていいのか解らなくなっている。それが正直な気持ちだった。
千鶴と亮翔の二人が気まずいドライブを続けている頃。
「あの二人、大丈夫かなあ。舌打ちに関してあれこれ言い続ける千鶴ちゃんって、結局のところ亮翔さんに一目惚れしてるんだよね。でも、口では悪く言っちゃうみたいな感じになってるのに」
「そうよね。千鶴ってそういうところでは素直じゃないからなあ」
一足先に今治市に到着していたがっくんと琴実は、今治名物の焼豚玉子飯を食べつつお喋りをしていた。朝早くに春成と一緒に家を出たので、朝ごはんを食べ損なってしまったのだ。そこでブランチとして名物を堪能することになっている。
「亮翔さんもどうして最初に舌打ちしたんだろ。話に聞く限り、見た瞬間だったってことでしょ」
今日も可愛らしい格好のがっくんは、焼豚玉子飯の目玉焼きを崩しながら訊く。すると、千鶴は美希にそっくりだって情報を忘れているわよと琴実に指摘された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます