第12話 道後温泉へ
「大威徳明王は梵名をヤマーンタカといい、『死神ヤマを降ろす者』の意味で、降閻魔尊とも呼ばれています。要するに割と怖い仏様というわけです。しかし、仏教において大威徳明王は阿弥陀如来、文殊菩薩に対応する仏であり、ふたつの仏尊の教えを人々に説くために恐ろしい姿をしていると言われています。この木箱に書かれている文字、上が阿弥陀如来を表す梵字でキリークと読み、下は文殊菩薩を表す梵字でマンと読みます。この二つだけでも、中に収められている巻物に描かれているものが解るようにしてあるわけですね」
「へえ」
「凄い」
亮翔の説明に、篠原も千鶴もそんな感想しか出てこない。それにしても、二つの仏様の教えを説くのにこんな怖い姿なのか。しかもさっき死神とか言っていたし。
「この六面六臂六脚の姿は日本独特で、これだけ手だけなく足の多い仏様は他に類がなく、大威徳明王の特徴の一つになっています。では、なぜこれほどの顔と手足を持つのかと言えば、顔は六道、すなわち地獄界・飢餓界・畜生界・修羅界・人間界・天界の六つを表しています。手は様々な法具や武器を持ち守護する様子、足は六波羅蜜、すなわち布施・自戒・忍辱・精進・禅定・智慧を表し、それらを怠らずに歩み続ける決意を表しているといわれています」
「うわあ」
ますます凄いと千鶴は本気で驚いてしまう。まさかこのいかつい姿にそんな意味があったなんて。びっくりしてしまう。
「また大威徳明王は威厳と人徳が備わり、毒蛇や悪竜を打ち倒すとされる明王でもあります。すなわち、この仏様をむやみに恐れる理由は何もないわけです。真面目に生きている限りは」
そこで亮翔は意味深ににやりと笑う。あっ、これは何かに気づいた証拠だなと千鶴は感づいた。
「どうやら篠原さんのお祖父様とお父様には、
そして亮翔は笑顔のままそう告げたのだった。
百萌だけに話しても仕方がないことだとなり、千鶴たちは亮翔の運転する車で百萌の旅館へと向かうことになった。もちろん住職の恭敬も一緒だ。恭敬は助手席に座り、あの大威徳明王の巻物を抱えている。
後部座席に乗り込んだ千鶴と百萌は、お坊さんの運転する車という初めての状況にちょっとドキドキした。が、亮翔は車の運転に慣れているようで、しかも車は至って普通の軽自動車なので、トラブルはなかった。お寺の前の細い道もすいすいと進んでいく。
「お寺を留守にして大丈夫なんですか?」
出掛ける前に二人とも出払っていいのかと訊くと、坊主は他にもいるとのことだった。千鶴がまだ会ったことがないだけらしい。また、事務をしてくれる女性も勤めているのだとか。意外とお寺って人がいる場所であるらしい。
「まあ、うちはそこそこの規模がありますから。中には自分一人で何でもこなさなければならないところもあり、大変そうですよ」
恭敬は恵まれているのだと目を細める。この間の亮翔の話でも思ったが、本当にお寺って色々と大変なようだ。
「そうですね。時代の変化に対応するのが大変というところでしょうか」
千鶴の感想に、恭敬は振り向くと苦笑していた。どうやらその辺りは亮翔に任せきりらしい。
「車だとあっという間だね」
「そうね。電車だと二十五分は掛かるもの。バスだと三十分以上よ」
「じゃあ、毎日の通学は大変だね」
百萌は何でもないように言うが、徒歩圏内に住んでいる千鶴はびっくりしてしまう。通っている私立聖因学園は県内では有名私立とはいえ、わざわざ通うのは大変そうだ。とはいえ、老舗旅館のお嬢様となれば私立に行くのは当たり前か。むしろ千鶴がイレギュラーだ。
「まあね。でも電車に乗っている時間は好きだし、中高一貫って魅力でしょ」
「そうなのよ。しかも地元の中学の噂が良くなかったから」
百萌の言葉に千鶴は大きく頷き、うちの地元の中学は二個上の学年が荒れていたからなあと溜め息だ。そう、そんなトラブルがなければ聖因学園に通うことはなかっただろう。これも縁か。因みにその進学には祖父が一番乗り気で、お金は心配するなと言ってくれたので、一般的なサラリーマン家庭である両親にしても問題なかったらしい。
「聖因学園出てるってのがブランドだもんね」
「そうよね。住職の娘さんの美希さんも聖因ですか?」
「ええ、そうですよ。あそこは仏教系の学校ですからね。それも一つの要因です」
恭敬はにこやかに教えてくれた。となると、美希さんは先輩か。今いくつ何だろう。遠くに行っているということは、もうお嫁さんに行ったということかな。ああ、だから亮翔は千鶴の顔を見て面白くなさそうな顔をするのかと、勝手な考察を進めてしまう。
「温泉街の中は車どおりも多いし観光客もいるので、石手寺さんの駐車場をお借りしましょうか」
道後温泉が間近に迫り、亮翔がそう恭敬に訊く。石手寺とは四国八十八か所霊場の一つで、第五十四番札所だ。願孝寺はお付き合いがあるということか。
「そうだなあ。篠原さん、旅館はどの辺ですか?」
「はい。石手寺からだと遠くなってしまうので、温泉街を車で突っ切ってもらった方がいいです」
「なるほど。じゃあ、山手側か」
「はい。坂が急なので、皆さん車でお越しですし」
「了解」
こうしてそのまま車で温泉街へと入っていく。窓から外の様子を見ていると、浴衣姿のカップルや家族連れの姿が多く見られた。さすがはゴールデンウイークの観光地。
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