リンゴシンデレラ症候群

真己

リンゴシンデレラ症候群

『リンゴシンデレラ症候群』


 オーブンが私達の沈黙を壊した。

「……アップルパイ、焼けたわよ」

「そうみたいだな」


 彼は顔を隠していた新聞を畳む。机に散らばった雑誌やパンフレットの上に放り投げ、席を立った。


「食べて欲しいわ」

「後で食べる」

「どこへ行くの」

「ちょっと、友達と」

 キッチンから出て、廊下まで追いかける。掛かったジャケットを差し出す。ん、と振り返りもせず、腕を通していく。


「帰りの時間は」

「十二時すぎくらいだ」

「夜、遅いのね」

「寝てていいから」

 靴を履く彼が、後ろ手を伸ばす。鞄を持ったまま、立っていた。


「おい、寄越せ」

 やっと、こちらを向いた。私の表情を見て、顔をしかめる。目的のものを奪うと、 ドアの先に消えながら彼は言った。

「なあ、待っててくれよ」


 ――待ってるわ、ずっと。

 パタリと閉まった扉の前で、その言葉を呟いた。


 オーブンが音を鳴らして警告する。中に詰まったものが冷えてしまうよ、と。

 うるさい、うるさい、黙って。耳を塞ぐ。そんなこと、もうとっくに分かっている。冷めてしまったのだ。私達の関係も、愛も。


 彼は未だに、プロポーズしてくれない。


 私と彼がともに暮らしだして、五年の月日が過ぎていた。同居の申し出をしてくれたのは年上の彼からだった。二十四の時だったと思う。五歳年上の彼は、私が知らないことを教えてくれた。初めての恋もキスもその先だって。


 彼が好きだった。本当に愛していた。


 同居が決まって、ああもうすぐ結婚するんだって思った。舞い上がって、仕事を辞めた。彼は止めなかった。

 彼は、あのとき言った。

「今すぐは無理だけど、お前にふさわしい男になったらプロポーズするから、待っててくれないか」


 愛の言葉だと思った。私は喜ぶ。人生には運命の相手がいて、その人と出会えたんだって信じた。屋根裏の部屋で、王子様が迎えに来てくれるのを待ち望んだシンデレフみたいに。


 ドアに鍵をかけ、キッチンに戻った。点滅するポタンを切って、アップルパイを取り出 す。ふっくらと美味しそうに焼けていた。余熱を覚ます必要はないだろう。パイ生地にフォークを刺すと、ふくらみがしぽんだ。


 包丁を持つ。アップルパイに差し込む。リンゴがぐしゃりと音を立てて、潰れる。一切れ分だけ、切り取った。皿に移しかえるか悩んだけれど、面倒が増えるのだけだということが頭をよぎる。


 もう、このままでいい。


 さっき食器洗い器から適当に取ったフォークで、ーロサイズに切り、口に投げ込む。シャリジャリと果肉がなく。ゴロゴロとした果実を持て余しながら、噛み砕いていった。少し、砂糖を入れ過ぎたようだ。でも、おいしい。私が作ったんだから当然だ。


 かむ。かむ。かむ。アップルパイが口内で崩れていく。


 私はもう、二十九歳だ。若くない。

 結婚がしたい。結婚が、したい、したいしたいしたい。


 パイに、フォークを突き立てる。

 待っていたくない。私は、夢を見れる年齢ではない。乙女じゃない。シンデレラ、ではなかった。


 ゴクリと、リンゴを飲み込んだ。


 早く結婚したい。プロポーズさせたい。

 ァップルパイを差し出したい。家庭の味。食べて欲しい。


 シンデレラでいられないなら、イブになる。

 私が木からもいだリンゴを手渡す。楽園から追放されればいい。私は彼にそそのかされ た。なら、私が彼の蛇になる。


 あるいは白雪姫の魔女でもいい。

 毒の塗られたリンゴを食べさせる。永遠の眠りにつけばいい。王子様は彼だから、キスで呪いがとかれることはない。


 ねえ、誰かが言ったでしょう?

 結婚は人生の墓場、だって。


 もう、私に次はないの。こんな年齢の女誰も引き取ってくれない。愛してるわ、あなた。逃がさない。絶対に。私は待てない。待たない。


 机の、結婚式場やウェデイングドレスのパンプレットが眩しい。純白が遠い。

 結婚したいの、あなたと、だって、私は愛してるから、あなたを。

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