閑話 現代魔術師のひとやすみ
閑話「一年を十二ヶ月で表すのが太陰暦だ。けど八年に三度ほど、十三ヶ月になる年がある。これを太陰暦では閏月としている」
アテーマがその少年と出会ったのは、【共和国】の試験会場へと馬車を乗り継いでいく真っ最中の、とある宿場町でのことだった。
いかに元気な馬でも一日中走り続けることはできないので、馬車の通る道にはところどころに宿場町が生まれる。そして、疲れた馬の交代や、一晩の宿の提供がなされる。
あまり農作物が取れない貧しい集落なんかは、この宿場の経営が結構な収入になっているところも多い。
貴族も平民も、長距離の移動となれば、ほぼ必ずどこかしらの宿場町を経由する。
この日は奇遇なことに、宿場町に集まる馬車が多かったため、宿の空き部屋がなくなってしまい、手持ちの心許ない平民は馬車内で過ごすことを余儀なくされてしまった。
そして、貴族の一部も。
(私のような貧乏貴族が、あまり我儘を言うべきではないですわ。馬車でも十分眠れますもの)
心の中で強がるアテーマだったが、普段使っている寝台とは違う硬い感触のためか、彼女はなかなか寝付けないでいた。
野鳥の鳴き声がほぅほぅと虚ろに響き、虫の鳴き声が不規則な音楽を奏でる。普段過ごしている館とはまるで勝手が違う。
それでも何とか寝ようと努力しているうちに喉が渇いたアテーマは、井戸の水を一口もらおうと馬車の外に出た。
そしてまさに、井戸のそばでうずくまっている少年を見つけてしまったのだ。
「! 大丈夫ですの!?」
「え、あ、こら!」
心配して駆け寄ろうとしたアテーマだったが、運が悪かった。少年が急に立ち上がったのである。そして少年の手の位置が完全に悪かった。
不運にも、駆け寄る少女を制止させようとした手が、胸の高さちょうどの場所であった。
「きゃ」
「ああっ、何てことを!?」
慌てたような少年の声。アテーマも動揺して、一瞬何がなんだかわからなかった。
うずくまっていた少年が急に立ち上がった、そして胸を触られた――少しだけどきりとしたが、「お、お気になさらず」としどろもどろに答える。
これは事故である。怒るほど狭量ではない。うずくまっている怪我人がいないならそれに越したことはないのだ。
だが、少年は困惑していた。
「お気になさらずとは言っても」
「問題ありませんわ、私が貴族令嬢だからといって、特に恐縮する必要はありませんのよ」
「? えっと?」
「あら?」
どうも噛み合っていない。何だか誤解があるらしい。
不思議な顔をした少年は、指を下の方に向けて、戸惑い半分の口調で説明を続けた。
「えーっと、君の足元に数式を書いてたんだけど、出来れば足をどけてくれるかな?」
井戸に映る月明かりを観察しながら、天体の動きと暦を計算していたらしき少年、ジーニアスは、そんな無遠慮なことを平然と口にするのだった。
◇◇
人の胸を触ったことを微塵も気にしなかった少年は、太陰暦についてあれこれと語っていた。
「月が最も欠けている状態を
この八年周期は、八賢者それぞれになぞらえて今年は六番目の賢者の年、来年は七番目の賢者の年、みたいに守護聖人を毎年交代しているけど、そのうちどの三名が閏月を担当するかは平等になるよう配慮される」
ジーニアス曰く、八年とは、宵の明星と明けの明星の交代が五度起きる周期におおよそ等しいらしい。
だから、古代の人は、数字としての八と五と三を大事にしたのだという。
しかし、八年に三度の閏月でもまだまだ乖離が生じるらしい。太陰暦の八年周期を五度繰り返すと、おおよそ一日だけずれるとのことであった。
おおよそ四十年に一度(正確には四十一年に一度)だけ暦に一日を追加することを閏日というらしい。
「……どうして暦なんて調べているんですの?」
「いやあ、万が一試験に遅刻したときに暦のズレを言い訳にできないかなぁと思ってね」
「なんで遅刻する前提ですの……?」
とても奇妙な論理展開だったが、どうにも遅刻を心配しているらしい。
どうやらジーニアスにはあまりよくないジンクスがあるらしく、遅刻がありえるときは大体遅刻する、忘れ物がありえるときは大体忘れ物をする、うっかりがありえるときは大体うっかりする、という奇妙な不運を時々発揮するのだという。
恐らくはマーフィーの法則だ、と彼は言っていた。
認知バイアスによるもので統計的に適切でないもの、しかし認知そのものが呪術的文脈を作り出してしまうこの世界では結果を歪めてしまいかねない、とかよく分からないことを説明していた。
悪いジンクスは続く傾向にある。連続性や規則性を無意識に見出してしまう人の能力が起こす不幸らしい。
「まあ、俺も遅刻するなんて、そんなまさかと思ってるけどね」
「そうですわよ、三日も早く到着する旅程で動いてるのですから、まさかそんな、ね」
二人がなぜ遅刻について話しているかというと、今、馬車の進みが遅くなっていることが原因である。
馬車を引く馬が体調を崩しているのだ。
それも一つの馬車だけではなく、【共和国】プラーグ方面に向かう五、六台の馬車が同じ現象に見舞われていた。
少なくとも一日は行程が長引くと確定してしまった。どこもかしこも馬が下痢気味で、思ったより道を進まなかったので野宿をすることになってしまったのだ。
宿場町で馬の飲んだ水が悪かったのか――と予想はされているものの原因は定かではない。
ふと、少年は何かを思い出したように口を開いた。
「……いや、昔読んだ小説なんだけどさ。馬車で旅する一般客を装った盗賊がさ、宿場町にしれっと集まって、いろんな馬の餌に混ぜものをするんだ。で、馬が体調を崩しちゃって野宿せざるを得なくなった馬車一行を、一網打尽にして皆の身ぐるみを剥いじゃうって話があってさ」
「ちょっと、やめてくださる?」
にやりと笑った彼は、あのとき数式を消された意趣返しだよとばかりの様子で、いたずらっぽく続けた。
「冗談さ。まさかそんなことある筈がないだろ?」
◇◇
「あっははは、お嬢ちゃんたち災難だったね! アタイらがまさか、魔術無効化の指輪を持っているなんて思ってなかっただろう?」
けたけた笑うアマゾネスの女性に捕まったアテーマは、呆気にとられて言葉を失っていた。
まさか本当に盗賊が襲ってくるとは想定していなかった。しかも大人数の盗賊団。
野営するとはいえ、馬車六台が固まって行動すれば盗賊も手を出しづらいはず――なんて気休めを考えていたのが嘘のようである。
夜中に星を観察しすぎて睡眠不足だったジーニアスは爆睡していたし、アテーマは魔術と剣技で奮闘したものの、時折魔術の発動を妨害される上、人数差に押し込められて負けてしまった。
馬車に乗っていた他の人たちも同じようなものである。
こうしてアテーマたちは、あまりにも呆気なく人質になってしまったのであった。
ちなみに、捕まって盗賊団の拠点の洞窟に運ばれる最中も寝ていたジーニアスは、その豪胆な精神をアマゾネスの盗賊たちに褒められていた。
容姿が整っていることも災いしたのか、彼はどうにも
(何ということかしら……! まさか、この私が蛮族に後れを取るなんて!)
洞窟内の牢屋に閉じ込められてしまったアテーマは、何ともならない現状に歯噛みする他なかった。
(父上、母上、力及ばず屈する不肖な愚娘をお許しくださいまし。この世にまします万象の精霊たちよ、どうか私に幸運の加護を授けてくださいまし)
後ろに縛られた手を組みながら、アテーマは静かに祈った。
外を見ると、見張りの兵士が二名交代で牢を見張っている。
彼らが身に着けている、魔術を一部無効化する指輪――この魔道具こそがアテーマの自由を大幅に制限していた。
もし無理やり脱出を試みようとするならば、牢屋の破壊と同時に、見張りに立っている兵士をほぼ一瞬で鎮圧する必要がある。それも、剣を敵に奪われ、魔術の一部を無効化され、なおかつ両手と両足を縛られたこの状態で、である。
こんな有様では、まともに戦えたものではない。
万事休すとは、まさにこのことである。
今はただ、奇跡が起こることを静かに祈ることしかできない。奇跡はなくとも、見張りが一人になったり注意散漫になった瞬間を見計らって行動を取るほかないだろう。
そう考えたアテーマは、じっと待って機を窺うことにした。
(……術式の妨害の規則性が読めてきましたわ。恐らく一定以上の長さの呪文をランダムに破壊するものと、文字の一部を別の文字に置き換えて無意味な文章に変換するものの二つ、かしら)
魔術を妨害するあの指輪について考えを馳せる。
対応する言語の種類の限界も確かめたいところであったが、残念ながらアテーマが知っている魔術言語はセルモー・ウルガーリス語、ガリア語、あとは
短い詠唱、もしくは短い呪文で構成された術式。そして一部を変換されても発動するような設計。
果たしてそんな芸当が可能なのだろうか。
(……極めて簡潔な魔術を、運任せでたくさん発動するしかない、わね)
簡潔な術式をたくさん作ればいい。確実性に欠ける方法だったが、今できる最大の抵抗でもある。
勝負に出るのはせめて見張りの数が減ってから、と考えたアテーマは、見張りの兵士に見られないように気をつけながら、神経を最大限に張り詰めて、壁に術式を少しずつ書きなぞった。
緊張で指が震え、心臓の鼓動も早くなったが、せめて呼吸だけは不自然にならないように音を殺して。父上、母上、勇気を下さい――と、少女の口から唇の動きだけの祈りがこぼれた。
ところがである。事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、覚悟を決めて一か八かの勝負に出ようとしていた彼女の思いも虚しく、事態はあまりにも呆気なく急変した。
「よう、大丈夫か?」
ぬぅ、と生首だけのジーニアスがアテーマの目の前に顔を出した。彼の顔には真っ赤な血らしきものがべっとりと滴っていた。
今まで張り詰めていた緊張が爆発し、心臓が飛び上がった。
「――――――」
張り巡らしていた警戒が全部ひっくり返って、ぎゅうと下腹部が縮み上がった。
声なき絶叫。
肺から空気が全部抜けた。
かろうじて全部は粗相しなかったことだけが、彼女の唯一の救いであった。
◇◇
「いや、だから盗賊連中にスタン魔術を仕掛けて、一気に痺れさせて気絶させたんだって。脳内の快楽を司る報酬系に、めっちゃえっちな気分になる強烈なやつをぶち込んだから、多分幸せな気絶だったと思うよ。腹側被蓋野のドーパミン神経の広域瞬間発火さ、文字通り脳の溶けそうな刺激だったに違いない」
「これ? 透明化魔術だよ。顔の血は、ちょっと額を切っちゃったからワインのアルコールで軽く消毒したんだよ。でもこれいいアイデアだろ? 盗賊たちもこれには驚いちゃうみたいでさ、その隙に簡単に気絶させることができたとも」
「あ、そういや魔術の妨害をする指輪があったな。でもあれ、ハミング符号で誤り検出と誤り訂正を行ったら何とかなるんだよ。パリティ検査行列を作ったら、(n, k, d) 線型符号の最小距離dの半分以下の誤り数なら訂正可能なんだ」
「だからもう泣くなって、ほら、助かったんだし、な? 反射的な筋緊張に過敏な子供には、失敗はつきものさ」
盗賊のアジトから無事に脱出して馬車に乗ったあと、アテーマは少年に慰められながらもぐずぐずに泣いていた。
ようやく助かった安心感と、見られたくない姿を見せてしまった恥ずかしさが、彼女の頭の中をぐちゃぐちゃにしてしまっていた。
「失敗してませんっ、ちゃんと半分は我慢できてますわっ!」
などとよく分からない突っかかり方をしてしまったのも、恥ずかしさゆえである。言い訳を口にした瞬間、アテーマは死にたくなった。
ジーニアスが怪訝な顔をして「え、閾値って半分でいいんだっけ」と真面目に答えたので余計に死にたくなった。
「多分説明変数は、漏らした量じゃなくて、濡れ状態かどうかなんだよ。液体の表面自由エネルギーを計算して液体を取り除くときに仕事が発生するなら濡れ状態だと判断したほうが厳密なんだよな。
今回の場合、浸漬濡れは無いとしても、ヤングの式で求められる、固体と液体を引き離すのに必要な付着仕事と、液体が固体表面に拡がっていく拡張仕事がどちらも正なら、濡れている定義になると思っていて……」
「うぅ……何でそんなに意地悪するんですの……っ」
「え、え? 意地悪!? ちょ、泣くなって!」
同じ位の歳の異性の子供に助けられた経験も、恥をかかせられた経験もアテーマには全く存在しない。
人の胸を触っておいて何も悪びれないし、それどころか何とも思ってないこの少年に対して、奇妙な対抗心が燃え上がったのは――きっとこの時が初めてのことであった。
◇◇
後に、聖教騎士団の入団試験で、「腹側被蓋野のドーパミン神経の広域瞬間発火」の魔術攻撃を実際に食らうことになるとは、このときのアテーマは知る由もなかった。
かくして、度々恥ずかしい目にあって、何度も煮え湯を飲まされ続けてきた少女は、あの朴念仁にどうやって責任を取らせてくれようか――と憤慨の気持ちをたくましく燃やすのであった。
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