匿名!!ドッペルゲンガー
儀式の準備を終えて、第二治療室へ男が入っていく。シルヴァから借りた『無線機』という
『では、魔力を流す。基本的に攻撃などはしないと思うが、何かあったらすぐに言ってくれ。』
男の足元には魔術式が描かれており、隣の部屋からレンドが魔力を流せば発動する。彼の名前を奪ったドッペルゲンガーを呼び出す為の魔術だ。
ゆっくりと男の足元が発光していき、隣の部屋からレンドの魔力が流れ込む。
『影闇の正方。二重の影。光に照らされる闇。不可視の昼。代償は我が魔力、黒のインク、月の石。願いは一つ。彼を奪った影を呼び起こせ』
光と黒煙が男の視界を塞ぐ。唐突に現れた自分の影に後ずさりをすると、その影は初めて自分の前に姿を現したときと同じような重圧を向けてきた。
その影は、男自身だ。だからこそ、影の怒り、苛立ち、困惑、失望。その感情全てが手に取るように理解できてしまう。
「いまさら呼び出して何の用だ?」
自分そっくりの影が、自分を見つめている。顔のない黒塗りの頭部。本来なら表情なんてわからないはずなのに、理解させられてしまう。なぜならば
『影に何かを渡したはずだ。それを返してもらえば治療は済む。手助けは出来ないが、何を渡したのか覚えているか?』
耳元に付けた無線機からはレンドの声が聞こえる。当然ドッペルゲンガーには聞こえていない。とはいえ、ドッペルゲンガーもなぜ自分が呼び出されたのか理解しているのだろう。
「まさか、この
「……そ、それは…」
「お前が名前を捨てたから拾ってやったんだ。必要ないんだろ?だったら俺にくれよ」
嘲笑う影に、何も言い返せなかった。
アノニマスシンドロームは、モンスター由来の病気という指定を受けていない。厳密には
一種の逃避行動。
つらい現実から目を背けようとして失敗した結果、自身の分身体を作り出してしまう奇病だ。治療法は自分自身と向き合うほかなく、ドッペルゲンガーの性質上、カウンセリングによる治療も難しい。
「か…返してください…。名前…返して…」
「お前は、自分自身を捨てたんだよ。俺にとってみたらもう二度とないかもしれないチャンスだ。お前の名前があれば人間に戻れる。今度はお前の番だ。」
へたり込みながらも必死に叫ぶ。しかしまるで相手にしない。手の中で名刺を弄びながら笑うばかりで男の話を聞こうという姿勢すら見せなかった。ドッペルゲンガーになってしまった人間が元に戻るには誰かの名前が必要である。つまりは、終わりのない椅子取りゲームだ。
「安心しろよ。お前のように自分自身を捨てたがる馬鹿は大勢いる。それに、この体ならどんな犯罪も咎められることはないぜ?人から認識されず、直接触れるにも準備が必要ってことを除けば、最高な体だ。俺と同じように復讐に手を染めるのはどうだ?」
「け…けど…」
「アハハ!!なあ、よおく考えた方がいい。俺から名前を取り返して、また同じように営業活動を続けるのか?どうせ無駄なのに?名前が無くても出来る仕事はある。お前にはそっちの方がお似合いだよ」
一つとして言い返すことが出来ずに、ただ茫然と俯いているばかりだった。ドッペルゲンガーの声が聞こえず、部屋の中の状況を見通せないレンドが不安そうにしていると、しばらくしてから第二治療室から男が出てきた。
「時間切れか…」
ドッペルゲンガー召喚の魔術には
なお、本編には関係ないが、この魔術の安全機構は国際魔術協会が定めたものであり、何人たりとも変更させることは許されない。
「僕が奪われたのは名刺です。さっき先生にも渡したものと同じ。」
「なるほど、そこまで名前に
実質的な寿命宣言にもかかわらず、少し肩を震わせる程度だった。死ぬことが怖くないというより、生きることがつらく、死を受け入れてしまっているようだ。
無論、いままで診てきた患者の中にそういった人物はたくさんいた。そして、救えた患者もいれば、救いきれなかった患者もいた。
「魔術は万能とは程遠いが、安心しろ。俺は完璧に近い。」
いつものように自信たっぷりのセリフ。だが、彼は続けて
「俺の魔術が完璧でも、治ろうとしない人間は治せない。未練がなく死にたいというのなら他の病院を当たれ、俺は安楽死を請け負っていないんだ。」
と言い放った。
「僕は…この病を治したい。とは思っていないんです。だって…名前が無ければ営業をしなくて済むじゃないですか。もう疲れたんですよ。ほとんど断られに行くようなものなのに、名前を名乗って顔を覚えてもらって、必死に歩き回って。もうたくさんだ!!」
嗚咽を漏らし涙を零し、苦しさに押しつぶされてしまいそうな言葉。きっと、名前を奪われていなければ自殺を選んでいたかもしれない。だが、そんなことはDr.マギカには関係ない。
「なら、なぜこの診療所に来た?なぜ俺を頼った?答えは簡単だ。死にたくないんだろう?当然だ。心の底から死を願っている人間なんていない。どれだけ苦しくたって生きていたいんだよ。それが生物だ!!医者の前で簡単に命を捨てるな!!」
胸ぐらをつかんで怒鳴りつける。
「ぼ、僕は……」
「ごめんなさい。盗み聞きをするつもりはなかったんだけど…」
診療所と家を繋ぐ扉からスズがやってくる。昼食が出来たことを知らせに来たのだろう。少し怒ったような口調のレンドが無理やりスズを家へと帰そうとする。
「ねえ、お父さん。私の名前って、どっちがつけたの?」
おそらくほとんどの話を聞いていたスズが振り向いて聞いた。レンドに尋ねているが、その視線はまっすぐ男へ向けられている。
「二人で決めた。いろいろ案を出し合って、たぶん一番時間がかかったんじゃないかな。」
「そうなんだ。お父さん、私に名前をくれてありがとう。すごく…気に入ってる」
スズと目を合わせたままの男から、一滴の涙がこぼれた。
「先生…。僕の名前は祖母がつけてくれたんです。僕が落ちこぼれで就職に失敗しちゃったせいで、スーツ姿は見せてあげられなかったけど…。」
「なら、今見せてやればいい。お前がどれだけの人間なのかを、天国にいるお婆様に見せつけろ。お前の名前を奪い、姿を真似ただけの偽物とは違うってところを見せてやれよ!!」
スズが家へと戻る寸前、レンドにしか聞こえない程度の声で
「私、ファインプレー?」
思わず笑ってしまう。変に賢く気の利いた娘に驚くばかりだった。
「よくやった。さすがは俺とシルヴァの助手なだけある」
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