056
無いことを証明することは、有ることを証明するよりもずっと難しい。
というよりも、無いということに気が付くことがまず困難を超えて不可能に近い。
人は、そこにあるもの、それだけで完全だと思い込んでしまうから。
例えば、歴史を記述する媒体などなく、歴史など存在しないとしよう。そしたらドードーという鳥はこの世から、過去からも存在を消してしまうことになるだろう。
だから誰も気が付かなかった。
村上秀と白石由人との部室での密会が、WITHの感知し得ないプライバシーモードの中で行われていたということに。
あのとき。
あのときの村上秀は、冷や汗をかいていた。
バスケットボールのプレイ中はもちろん、見えないものが見える、だとか何とか言って、日頃の生活でも自信の塊のような、あの村上秀が冷や汗をかきながら音ゲーに興じていたのである。
理由は簡単だろう。音ゲーをやりたくてやっていたわけではなかったと、そういうわけで。
ただ僕にWings of Pianoを聞かせるために音ゲーをやっていただけで。
その答えとして、今、目の前で椿久美が瞳を閉じ、涙を零しているわけで。
椿久美は立ち止まった。
道具を道路に下ろし、ガードレールに軽く座る。
袖を伸ばし、涙を抑える。
僕は知らない。彼女が泣いている理由を僕は知らない。
僕とこの曲との関係は、夢の中で聞いたことがあるというただそれだけのことだ。
あるときは研究所で。
あるときは自分の部屋で。
あるときは祖母と言われていた、母屋に泊まっていた布団の中で。
その唄は幾度となく反芻され、記憶に刻み込まれ、忘れることのない数篇の詩と化していた。
その夢の中でいつも。
その唄を歌うのは。
その唄を囁くのは。
目の前で目蓋を閉じて泣いている彼女その人だった。
でもそれだと──。
「──なんで泣いちゃうんだろうね。私その唄初めて聴くのに」
くすん、くすんと小さく鼻を鳴らしながらつぶやいた。
「私の何が反応したんだろうね」
「なあ、椿。この唄は夢の中で何度も何度も聴いた唄なんだ。それで唄っていたのはいつも、椿で。──だから、つまり、僕が見ていた夢が、物質移転装置の暴走から逃げ惑っていた、本当の記憶だとしたら──、椿がずっと、僕が幼いころから、世話を見ていたその夜に子守歌として、唄っていた唄なんじゃないのかなって、勝手に思ってるんだけど」
「それが事実でもね。私椿久美、白石由人保護用アンドロイドは初めて聴いたんだ。その唄」
椿の頬には涙の跡が残りながらも、その瞳はもう泣いてはいなかった。瞳は東にかろうじて残る夕日を照り返し輝いていた。強い瞳とかすかな微笑みは、探偵が推理を暴く際に見せる自信に満ちた表情を彷彿とさせた。
「私はその唄を知らない。だからWITHも知らない。なのに私は泣いている。そうとなれば答えは一つ。その夢の記憶はゆーくんの実母、白石久美さんとの現実の記憶さ」
白石久美。
将来的にあり得る目の前の少女の名前であり。
過去に実在していた、僕、白石由人の母である。
白石久美はそこにいた。
「存命中だった白石久美さんが、幼い由人を寝かしつける際に歌っていた、囁いていた子守歌が、Wings of Pianoに勝手に歌詞を付けた唄、ということになるんだね。恐らく、何度も何度も唄い続けた。多分これは、一つの勘だけど」
夢の中の久美さんは、今の久美さんより少しばかり老けてませんでしたか?
椿の質問に対し「老けてたというより、比べるというより、単純に母親だったよ」と答えた。
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