041

 着替え終わった後に、久美に一緒に『鍵の塔』へと行かないかと誘った。太一は、綾伽と海でも眺めておくと言った。海は泳ぐもんじゃなくて、眺めるためにあるもんなんだ、なんて言ったりしていた。──そして、久美とともに、今、『鍵の塔』に向かっている。


 御立岬には、シンボルタワーがある。通称、『鍵の塔』。十メートル程度の円筒のタワー。タワーの周囲は階段が蛇のように巻き付いている。螺旋階段を上った頂上には、海が一望できる展望台があるようだった。二人で、階段を一歩ずつ登っていく。


 階段を上った先では、塔の屋上が小さな広場になっていた。海を眺めると夕陽が輝いていた。海に夕陽の黄色がキラキラと反射している。熊本の海岸際ぎわ特有の、のっぺりとした西風がほほを撫でる。


 その海の手前の柵には、南京錠が山のようにくくり付けられている。鍵、鍵、鍵。夕陽の影で、黄金色とくすんだ黒色が混ざり合った色をしている。


 久美は、柱に掲示された説明文の前に歩いて行った。


「『ある夏の夜、海へきていた少女は、きれいな星空を眺めていました。すると、一つの星がきらきらと輝き少女を導くようにゆっくりと流れていきました。少女は星の流れゆくまま歩いていくと、同じようにその流れ星を見ていた少年と出会いました。


 二人は何かの運命を感じたように時のたつのも忘れ語り合い、夜が明けるころには、お互いに惹かれあっていました。


 別れ際、また逢えるように願いを込め、星に一番近いシンボルタワーに二人でカギをかけました。すると願いは叶えられ、二人は再会し結ばれ幸せになりました。


 その後、このシンボルタワーで、願いを込めてカギをかけると好きな人と結ばれるという伝説が生まれ、その伝説を信じる恋人たちが愛の誓いを込め、ここにカギをかけるようになりました。』──だってさ。すごい伝説あるんだねここ」


 僕が海を眺める柵へと近づくため、久美の後ろを通るときに、久美はわざわざ看板にある文字を全て口に出して言った。


「なあ、久美」


 僕は、柵に両肘をかけて、夕陽に輝く海を眺めながら言う。


「なに?」


「……今朝、夢を見たんだ。僕以外が全てロボットだって告げられる夢」


 僕は、久美の方を見ずに言う。


「最近、いや違うな。ここ数年ずっとか。酷い夢を見ることが多いんだ。阿蘇山が爆発したり、海泳いでるときに雷が落ちてきたり。周りに人々が誰もいなくなったり。そして、今朝がた、酷い夢を更新したんだ」


 僕は久美の方を見ずに言う。訥々とつとつと告げていく。


「詳しくは覚えてないけど。夢の中で久美も太一も綾伽も、僕の父さんも母さんも、全部全部嘘だって言うんだ。おまえは地球でただ一人だって。白衣を着た知らない人に告げられるんだ」


 僕は真っ直ぐ海を、海の先に広がるドームの端を眺めながら、誰にも言わないかのように、宙に放るかのように言葉を投げる。


「怖いんだ。いつ終わるんだこの夢は」


 僕は前を向いたままだったので、後ろに久美がいるかどうかは分からない。実際そうだ。目の前に見えるこの世界だけが、見えているということだけが確かなだけで、そう感じている自分の認識だけが確かにそこにあって、それ以外は確かなことなんて何もない。



 本当に、椿がそこにいる保障なんて、どこにもない。



「……終わるよ」


 後ろから声が聞こえる。椿の声が聞こえる。


 いつのまにか、椿は僕の背中のすぐ傍にまで来ているようだった。


 一歩近づく音がした。


 椿が、右手を僕の左肩に伸せた。


 耳元にかすかな吐息を感じる。


「私が終わらせてみせるから」


 声がかすかに震えていた。


 僕は、横目で久美の表情を窺う。


 その言葉は、僕を慰める言葉のはずだった。久美が僕を励まそうとする、強い言葉のはずだった。なのに、なんで──


「なんで、泣いてるんだ、椿」


「泣いてないよ」


 涙を流しながら、久美は言う。


「泣いてないってば」


「……ごめんな。俺がこんな話をするから。える話ばっかで」


「謝るな!」


 久美は、僕のポロシャツの裾を掴みながら、僕に叫んだ。


「……そう簡単に謝らないでよ。謝罪の価値が下がっちゃうじゃない」


 それに、と付け加える椿。


「由人が怖い夢の話をしてくれて、ほんっとうに感謝してる。そんな話、みんなの前で聞いたこと無かったもん。私のこと、信頼してくれてる証でしょ。私、とても嬉しいよ」


 あ、そうだ、と久美が小さな声で呟いて、シャーリングワンピースの底の深いポケットから南京なんきんじょうを取り出した。


「信頼の証に、この鍵結んじゃおうよ」


 椿の涙は、もう止まっていた。


「……椿も鍵を持ってきてたのか。ってあれ?」


 僕もポケットから、南京錠を取り出そうとした、が触れられなかった。手には鍵だけの感覚。記憶の中では、錠と鍵とをセットで持ってきたはずだった。どこかに錠の方は落してしまったのかもしれない。


「……おかしいな」


 僕は鍵をポケットから取り出し、鍵を自分の目の前に持ってきて、鍵に向かってそう言った途端に、パンっと何かが弾ける音が、目の前から突飛もなく飛んできた。


 僕が驚いて顔をあげると、僕に伸びる右手を必死に抑えつける久美の左手があった。抑えるというより、右腕の根元から右腕の進路を塞ぐように、固定するかの様に左手が、震えながら久美自身の右腕を抑えつけていた。


 僕の鍵の、左端にふれる寸前まで、久美の右手が伸びている。僕から見て左側から、回り込むように久美の右手は伸びていた。空中で止まって小刻みに震えている。


 久美の顔は下を見ている。ショートボブの前髪は表情を隠すように垂れている。


 はらりと、耳に掛かっていた前髪がまた、一束いっそく垂れた。


 久美の、小さな呼吸音が聞こえる。聞こえる程に久美の呼吸は荒れていた。


「……離れて」


 それは、ともすれば聞き落してしまいそうなほど、小さな声だった。


 僕は言われるがままに、一歩下がる。下がって、こういう場合のお決まりのセリフを口にした。


「お、おい、いきなり何言ってんだよ」


 そう、僕が口にした途端。


 久美の左手が負けた。


 思い切り力を加えていたのだろう。また、何かが弾けるような、人の肌と肌がれた音とは思えない、まるでゴムを机に打ちつけたかのような、乾いた無機質な音がして、両腕がクロスされ、久美は右へ回転しながら、前へとつんのめる。


 その勢いをそのままに、久美は右手の甲で、僕の右側から僕の左手をはたきにくる。久美の右手の狙いは、僕自身ではなく僕が握っている鍵の方だと、その掴むにも相応ふさわしくなく、攻撃するにもダメージが弱い裏拳を見て、そう悟る。僕はすぐに左手を身体の近くへと引き寄せる。久美の右手が宙を空振る音がする。音がするということは、それほどその右手の裏拳は威力があったということで、右手が空中を切り裂いたと表現した方がいいかもしれない。


 僕はとにかく、鍵を左ポケットへと仕舞い込んだ。


「その鍵を渡しなさい。もしくは棄てなさい」


 状態を立て直した久美は、無機質な声でそう言った。表情は窺えた。瞳に感情が無い。力がない。光が反射していない、黒いまなこ


「棄てればいいんです。棄てれば戻れるんです。棄てれば幸せになれるんです。棄てれば迷うこともないのです」


 久美は口を半開きにして、続ける。


「……お願い、棄てて頂戴ちょうだい。由人」


 口調が変わった。いつもの久美に戻った。


「……棄てろと言われれば逆に棄てたくなくなる、僕の性格を知ってのその発言か?」


 僕は、やっと喋ることができた。


「由人、僕っ子になってるね」


「僕っ娘にはなっていないだろう」


 これは、昔もした会話。いつも、久美の前では、僕という一人称に戻ってしまう。   


 本当の僕が現れる。


「久美ってその会話好きだな。二人きりになって、僕が僕と言い始めると毎回そのセリフを吐くな」


「だいじょうぶだいじょうぶ。久美ちゃんは言いました」


「……それは毎回は言ってないな」


「五月のあの日だったね。このセリフを言ったの。その後キスしようとして、由人が意気地無しだから逃げ出したんだっけ」


「思い出したくない記憶だな」


 久美は、震えている。目も死んだままだ。だけど、僕は避難する気もなく叫ぶ気もなく、いつも通り会話をする。


 異常が起きたら、元に戻すのが一番だ。


 だけど、僕はぶち壊す。自分で言ったことも次の会話で忘れ去る。短期記憶能力が欠如しているのは自覚の上で、次に会話を続けようとする。言葉を口で紡ごうとするその寸前で、セリフを脳内で構築したのを客観的に判定するその瞬間に、僕はいつもそう思う。


「……なあ、久美」


「なに?」


「この鍵ってなんだ?」


「棄てると幸福になる魔法の鍵」


「取っとくと不幸になるのか」


「そろそろ棄てよう」


 久美が、右手を伸ばしてきた。久美の顔が鍵を掌に乗せろと言っている。


「説明してくれ」


「説明したらその鍵渡してくれるの?」


 僕が言いそうなことを言う椿。疑わしげな視線を僕に向ける。


 嫌いな僕をそのまま鏡に写したような言い方だった。


「この鍵を椿に渡したらどうなる?」


「闘いが終わる」


「闘いなんてどこにある?」


「私の心の葛藤。だって、その鍵、昔私が渡した鍵だもん。由人に渡した鍵。それをそのまま持ってくるなんて由人、最低だね」


 久美が、僕にこの鍵を渡したと言う。


 そんな記憶は、僕の中のどこにもなかった。


「由人にね、昔渡したんだよ、その鍵。ほら、由人の誕生日に宝箱を渡したじゃない? 宝箱を開ける鍵がそれだったじゃない。ほら、ほら。それでさ、由人は誕生日プレゼント、そんなに喜んでなかったじゃない? だからその出来事は私の小さなトラウマになっていたんだよね。由人、こんなときに、その鍵を持ってくるなんて、由人最低だね」


 僕がいつの間にか、最低認定されていた。


 そしてなにより、どんなに付け加えられても僕の頭の中にそんな記憶はなかった。


 久美は、その後も二言三言、述べつなく話し続けた。


 けれどそれはどれも僕の心には届かなくて、数秒後の記憶にすら残ることはなかった。


 ぼうっとしていた。僕は何も考えずに、久美を見ていた。久美の背景を見ていた。夕焼けに染まる、久美の背景である山々をぼうっと見ていた。



 その言葉を聞くまでは。


 その言葉を聞いた時だけ、背景に同化していた久美の姿が急に輪郭を持って感じられた。急激に僕の焦点が久美そのものに合わせられる。


 今、何て言った?


 久美は、背景に溶け込んでいた久美は笑顔だったらしい。更に深く微笑んだ、その表情の動きに感付いて、久美が笑顔であったことを知った。


 久美は、


「……何で絶対なんだ?」


「何でだと思う?」


 久美はちょっと笑いながら逆に訊いてきた。


 僕は久美の話を全く聞いていなかったので、適当に話をつなげる。宝箱が云々かんぬん。プレゼントの鍵が云々かんぬん。


「ご・め・い・とー、ゆーくん」


 耳が勝手に反応する。その言葉もはっきりと聞き取ることができた。


 この会話は、どこかで。


 何かを刺激される不快感。何かがおかしいと心が叫ぶ焦燥感。


 僕は何かがと気付く。無い存在があることに気が付く。


「物質移転装置なんて、知るもんかー!」


 不意に、脈絡みゃくらくのない久美の発言が……あった。


 いや、目の前の久美は、何も話していない。ただ微笑んでいる。


 今のは、頭の中で、勝手に……。音が。声が、勝手に。


「あ、あ」


 僕の声が、思わず漏れる。勝手に、久美の声が、響く。ハウリングする。


「ごめんなさい、由人」


 研究所の前で、泣き崩れる椿の姿。


「あ。あああ……」


 改札を、無言で何も見ずに通り過ぎていく椿の姿。


 僕と一緒に昼食を食べる椿の姿。


 光の先に、突然現れる椿の姿。


 僕にカッターナイフを押しつける椿の姿。


 僕を抱きしめて、唄を語りかける椿の姿。


 謝り続ける、椿の姿。


「あ、あああああああああああああああ」


 僕は堪らず、頭を抱えて地面へ突っ伏せる。爪を頭皮に立てる。脳に刺激を与える。それでもなお湧いてくる現像の数々。どうにかして止めようと、止めようと、試みる。嘘だ。試みていない。違う。違う違う。違うのはどちらだ。僕が。違う。やることが違う。考えることが違う。行動することが違う。動かすことが違う。


 僕は右手で頭を抱えたまま、左手をポケットに突っ込む。奥に押し込んだ鍵を握りしめる。僕は右手を支えにして立ち上がる。急に立ち上がったことによる眩暈めまいで目の前が黒い泡におおわれる。それに関係なく、椿への視認の記憶を頼りに変な姿勢のままで突っ込む。


 目の前の黒い霧が晴れたときには、椿の後ろに回り込んでいた。


「ごめん椿!」


 僕は右手全体を使って、椿の腰回りを両腕でロックして、椿のワンピースの上から背骨下部を触る。


 先程の、水着姿では全く存在していなかった小さな穴を、椿の腰に確認した。


 つまりこの鍵穴は、鍵に反応して現れる。それも不定形の形で。僕にしか見えない、人間にしか分からない、判別の仕方で。


 僕は鍵を鍵穴の上に押し当てる。鍵の先端だけ、まるでそこに何もなかったかのように、水色のワンピースの生地がほろほろと、落ちていく。


 僕は間違っていた。椿の稼動を止めたことも、圧倒的な真実を前に自身の選択を放棄したことも。何もかも間違っていた。自分では何も選び取ってはいない。死ぬ間際にして運命に身を任せただけだった。


 ウィズの声が聞こえたあの時、椿に顔を埋めて何もしなかったあの時、僕は本来、運命に負けていたのだ。何も選ばなかったから、機械が創りだした幻想に入れられた。


 創られた幸福を、ぶち壊す。


 僕は、鍵穴に鍵を差し込んで回した。


 途端に、椿の力が抜ける。回していた右腕と、僕の体幹に椿の重みがぐっと掛かってきた。──目を閉じた椿の顔は僅かに微笑んでいるように思えた。


 僕は、久美を抱き止め、そのまま膝を折ってコンクリートに着座する。


 腕の中の彼女からは目を離さず、ゆっくりと丁寧に腰を下ろした。


 地面に着いて数分後──椿は再び目を覚ました。


「ただいま」彼女はそう言った。


「おかえり」僕は腕の中の彼女にそう答えた。「僕の方こそ、ただいま」そう続けると、彼女は「おかえりなさい」なんて返したりした。


 お互いに、その場にいなかった。記憶を忘れていた僕と、意識を失っていた彼女。お互いができることで、互いが互いを呼び戻した。


「あの発言は、わざと?」


「うん。ウィズさんを出し抜くために、何となく混ぜてみたの。気付かれないタイミングで、由人には分かるかと思って。分からないなら、分からないでもういいやって、小さな賭けと大きな諦めでの決断だったけど」


「ありがとう」


 ありがとう、だけでよかった。無駄に理屈っぽい言葉は返すべきでないと思った。椿は闘っていたのだ。このに及んで、ウィズに抵抗していたのだ。


 けど、そんなこと、口にするだけ無駄な解説。逃げずに、自分のことを考えよう。


 果たして、僕は何がしたい?


 命の果てに何を選ぶ?


 今までやってきたことは何だ? 自分の意思で積み重ねてきたことは一体何だ?


 そんなものは、たった一つだ。


「……僕は、人生の最後にバスケがしたい。今まで通り部活がしたい」


 彼女は静かに頷いた。


「なあ、ウィズさん」


 僕は、宙に向かって話し掛けた。


「僕のしたいことが見つかった。僕のたった一つの願いだ。あなたが用意してくれたこの世界には感謝している。楽しかったよありがとう。だけど、僕のしたいことが見つかったんだ。たった一つでいい。たった一回でいい。二〇八〇年五月二十四日の午後四時、僕の部屋に戻してほしい。たった一回の願いで、たった一回の僕の願いだ。その後は何の抵抗もなく、僕は月へ移転する。頼む、一度の願いを受け入れてくれ」


 声に出して、数十秒が経過した。


 何も起きない。


 そう言えばと思い、僕は久美の右手を確認した。久美の右手に空いた小さな黒い穴。これがある限りウィズは観測できないのだった。声など届くはずもない。


「久美、ウィズと話がしたい。直接話がしたい。稼動をいったん止めていいか?」


「御好きにどうぞ」


 僕は、久美の稼動をオフにして、もう一度先程の願いを宙に向かって語りかけた。


 数秒が経過する。何も起きない。


 駄目だったか、と少しウィズを恨んだ、そのとき。


 僕の視線の先の空に、小さな黒いひびが入った。毛細血管に水を一滴落としたかのように、音もなく当たり前に黒い罅が拡がっていく。


 僕はその異常な光景を、久美を抱いたまま見つめる。久美も首を空に向けて真剣な眼差しで見詰める。


 オレンジの空の小さなひと欠片かけらが、ぽろっとげた。茹でた卵を初めてくときのように。


 空がなくなったその区域は暗い闇。何も無かった。


 黒い闇とオレンジの空の境界から、空が次々に落ちていく。落ちた空は、剥がれた途端に黒に変わった。黒い泡になった。黒い泡が次々と空のあった場所を増殖していく。


 つまり空が消えていっていた。


 いや、空がへと裏返っていっていたと言ったほうが表現が正しいか。


 海岸線が飲み込まれた。太陽が消えた。なのに周りは明るい。  


 空が全て無に裏返った。遠くに見える島々が一斉に無へと裏返っていく。海が次々に無に変わり陸地にまで到達した。


 無は陸地をし上がり、鍵の塔の前まで浸食を終えた。まるでとどまろうとしない無は鍵の塔を避けるように、鍵の塔の手前で二股に裂けた。


 無が陸に手を伸ばす。陸がぱたぱたと無に呑まれていく。空から始まり、遠くの島々、平らな海面、山の起伏に関係なく、全て一定の速度で、そうあることが当たり前であるかのように無かったことになっていく。


 世界の物質が全てが、有から無へと裏返っていく。


 床との角度の関係で、無の浸食が一旦見えなくなる。


 それも、束の間。


 塔を這い上がってきた無が、塔の上まで押し寄せてきた。


 確認した途端に、もう僕ら──白石由人と椿久美──以外のすべての物質を無は包んでいた。


 地面も、宙も何もない。


 僕は、一度も眼をつむらなかった。久美も同じ。


 瞑ってはいけない。これが真実で、これがWITHの本当の力だ。


 その壮大さを脳に焼き付ける。


 無に閉ざされた時間はいち刹那せつな


 地べたに座り込んだ僕等の膝元から、何かが拡がる。クリーム色の何かが薄く薄く、拡がっていく。平面に二人を中心とした円形に、均一な速度で拡大していく。


 急にぴたりと止まる。円周の先から、にょきっと三次元方向に、色の無い何かが生える。うごめいている。振動を当てられたゲル素材のように、無邪気に予測不可能にわさわさと生えてくる。その触角は、僕と久美に近づいてくる。拡がっていく円周の先では生えながら、色が付いていく。


 僕等に近づいてきた何かは、僕に触った途端に、生理的に嫌うかのように触角を違う方向へと向ける。一つの触手が逃げたのに、それを認識していないのか次々と別の触手が僕等に触れてくる。その度に自分たちの居場所でないように、僕等を避ける。存在はここにあると認識すると、それら別の存在たちは居場所を失っていく。なかには母体から避けた勢いで切れてしまった者もいた。それらは、たちまち闇に呑まれ消えていった。


 いくらでも触覚が僕等にまとわりつきながら、空間を創っていく。物質が存在していく。


 足元からの着色作業が壁にまで到達した。僕の部屋の白いチェスト、チェストの上に乗ったデジタル時計が見える。16:00ジャスト。時計は動いていない。


 僕は動くのがあまりに危険だと思ったので、固まったままで世界を見つめる。久美も同じで目を見開いて、視線を固定していた。


 久美も初めて見るのかもしれない。


 天井まで着色作業が進んでいた。僕等の周囲は既に僕の部屋だった。


 僕は首をあげる。クリーム色の吊るされた電灯が、ガラスの透明へと着色されていく。


 電灯の紐の先まで着色された。部屋の隅まで塗り終わったとき、作業がすべて完了された。僕は時計を見た。16:00の、秒数は10を表示していた。


 下部のカレンダー表記に注目する。


 二〇八〇年五月二十四日。僕と久美は僕の部屋に戻ってきた。

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