032

 バス停から十分ほど歩き僕の自宅に到着した。僕が自宅のドアを開ける寸前まで、久美は僕の背中にべったりと付いて行き、さも緊張している様子だったが、僕の両親が留守であること、そして金曜日のこの時間帯、母親は午後パートの真っ盛りで、午後六時頃までは帰ってくることがない旨を伝えると、急に緊張の糸が解れたのか、僕の背中に隠れるようなことはしなくなった。


 取りあえず僕は、僕と久美の荷物を置くために、僕の部屋まで久美を案内した。案内した後、久美を部屋に残し、僕はお茶を出すためダイニングへと向かった。麦茶とクラッカーをおぼんに用意し、久美にドアを開けてもらい、更には部屋の隅にあった折れ脚テーブルを中央まで移動してもらい、その上にお盆を載せた。


 遊ぶ用意は整った。


 整ったんだけど、部屋に入ってみて部屋にちょっとした違和感がある。


 なぜかカーテンが閉めてある。


「……あれ? 部屋に荷物を置きにきたときからカーテンなんて閉めてあったっけ?」


「閉めてあった閉めてあった。 最初からこんな風に部屋は薄暗かったよ」


 久美が僕の何気ない呟きに解説を入れてくれた。


「まあいいか。取りあえずクラッカー食べよう。ほら、いいよ、久美も食べて」


「では、遠慮なく」


 久美は片手でクラッカーを摘まむとポリポリと食べ始めた。


「でさ、由人」クラッカーを食べながら久美は言う。


「これから何するの?」


「あー、うん。まあ、これからゲームでも……僕の部屋、結構ゲーム機の種類は豊富だし」


「ゲーム……ゲーム……うーん、ゲーム、ゲームねえ……」


 なぜか久美の歯切れが悪い。


「ねえ、由人。テレビゲームより楽しいゲームをやってみない?」


「テレビゲームより楽しいゲーム? なんだ? トランプか?」


「トランプは楽しいのは分かるよ。でも二人でトランプはスピードくらいしかできないでしょう。それよりも、もっとなんていうか、大人な遊びをしてみない?」


 大人な遊び……? 大人……大人…………? ええっ⁉ まさかアレか⁉


「花札か」


「違う」


「カジノかな」


「確かにそれは大人の遊びだね」


 うんうん、と腕組をして頷く久美。


「……って違うから。全然そうじゃないから」


 久美は、はあ、っとため息をついた。


 何か一瞬悟ったような、諦めたような顔をした。


 そして急に久美は顔をぱたぱたと仰ぎ始めた。


「あ、暑いなーこの部屋。あーこんなに暑いと靴下なんか履いてられないよなあ」


 と、左の紺のハイソックスをするするするっと脱ぎ出した。


 なんか久美の声が上擦ってる。声だけでなく視線もまた上向いてる。


 壁と天井の隙間辺りを久美の視線が泳いでる。


 若干口まで開いちゃってるし。


 そして何より、顔が滅茶苦茶赤くなってるし。ほっぺたが火照って言ってる感じ。


「ほ、ほ、ほ、ほんっと暑いなー、この部屋ー。み、右の靴下もいじゃおっかな―」


 そしてするするすると右のハイソックスも下していく久美。


 ま、まさか……、この展開は……。


 親がいない自宅で若い男女が二人きり。


 僕にも絶頂期が訪れたと、そういう意味を表してるのか⁉


「く、久美さん⁉ 久美さん⁉」


 僕の声まで上擦った。というか最早もはや裏返った。


「靴下脱いだだけですよー でもまあ、そんなに私のところに来たいなら」そう言って、両腕を真横に真っ直ぐに広げ、少し挑戦的な眼と少し口角を上げた微笑みを携えながら、「来ちゃっていいですよ」と続けた。


 絶頂絶頂絶頂。


 昨日のキスよりずっと絶頂。


 絶頂を超えて最早頂点。


 ここぞ最早青春の頂点。


 僕は覚悟を決めた。


 僕はロケットスタートで久美が待つ、そのブラウスの胸の中へと飛び込む覚悟を決めた。


 まるで飼い主に懐く犬のように。


 ワンワンっ! 僕は椿久美の犬だワン! 僕の名前はパトラッシュ―──


 と。


 飛び込みたい気分は山々で、最早気分が高まりすぎて自分が何を考えているか分からないけれど。


 僕と久美の間にはクラッカーを乗せた折り畳み式テーブルがある。


 まさか、麦茶をぶちまけて久美に飛びつくわけにもいかない。


「というか、久美も分かっててやってるでしょ。僕が結局飛び込めないの」


 僕はテーブルを指差しながら久美に愚痴ぐちる。


「あれー。えー。あ、そうだ。だったら」


 久美はふんふんっと鼻歌を鳴らしながらテーブルを横に横にとずらしていった。


 え、マジ? マジだったのか?


 テーブルをずらし終えた久美はペタンと、なぜか僕と反対方向を向いて床に座った。


 久美は僕に背中を見せながら、


「ふー、やっぱりまだ暑いねー」と言い、ブラウスのすそをぱたぱたとし始めた。


 裾? 上着? 


 それは早い! 早すぎるだろう!


 というか、ぱたぱたする度に久美の腰辺りの素肌がちらちら見えている。


 こいつ、キャミソールごと摘まんでやがるな……


 確信犯だ。明らかに僕を落とそうとしている。


 僕は紳士だよ。こういうときの順番はちゃんと守るよ。


 いや、もしかしたら、僕がちゃんと久美をエスコートしないから久美が無理矢理にも僕に誘発を仕掛けてるのかもしれない。


「もう、脱いじゃおうか。えいっ」


 久美はそう言うと、両手を身体の前でクロスさせるように、自分のブラウスの裾を握り、


 上へ引き上げ、


 上へ引き上げ、


 上へ引き上げ、


 ホックが見え……、


 見え……、


 ……、


 ……、


 ん?


 んんんん?


「待った」


 久美が裾を上へと引き上げ、ホックに到達する前、腹部と胸部の間に差し掛かったところで僕は反射的に久美を止めた。


 久美のウエストは意外とくびれていた。背が小さいので寸胴型ずんどうがたの体型かと思ったが、いがいとほっそりとした腰回りだった。


 僕が久美を止めたのは、もちろん久美の腰回りの解説を頭の中で反芻はんすうするためじゃない。


「これは……、なんだ?」


 久美の腰のあたりに、人差し指の先端から第一関節くらいまでの大きさの黒い穴が空いていた。


 久美がブラウスを更に脱がそうと、少し腰を屈めたときに、それはスカートの中から突然現れた。


 久美の腰に、黒い穴が空いていた。


 ……。


「なあ、久美」


 前を向いたままの久美の後頭部に話しかける。


「なに?」


 久美は前を見たまま答えた。


「腰触っていいか?」


「由人にしては意外とせっかちだね」


 久美はブラウスの裾を放し、頭を少し回し、目線だけこちらを向いて応えた。


「あ、いや、そうじゃなくてな。久美の腰に穴が空いてたんだけど」


「穴? いや、さすがに空いてないでしょ」


 そう言って久美は手を後ろに回し、腰を擦る。


「うん、何もないよ」

「嘘だ。ちょっと待って僕が触る」


 僕は久美の傍にすり寄り、「すまん」と言って久美の腰のあたりを擦った。


 やっぱり空洞がある。


 腰の下部辺りに、人差し指が入るか入らないかのへこみが感触として存在している。


「ほら、ここここ。久美も触ってみてよ」


 僕は久美の右手を掴み、僕が感じたへこみのところを久美の指を滑らせる。


 けれども。


 久美の指は、まるでそこにへこみなど何もないように通過していった。


 ……。

 これは、アレに関係しているな、と、直感的に僕は感じ取った。


 僕にとってはそこにあるのに、久美にとってはまるでそこにないかのように通過していく。


 物質移転装置。不定形。


 色々なワードが僕の頭の中を回っていく。


 このへこみは、僕にしか見えないのか。


 久美には分からず、僕だけが感じ取れる理由。


 僕だけが特別な理由。


 …………。


 そういえば、例えそれがウィズさんのめいによる振りだったとしても、久美だって当たり前のように学校生活を送ってきて、もちろんそこには体育や水泳があって、人目に着くところで着替えたりして、そしたら、腰の位置に、指の大きさほどの穴が空いていたら、誰かが指摘するはずで。


 指摘しないと不自然なはずなのに。


 不自然だったら、除外するのがウィズさんのやり方だろうに。


 久美の腰に、穴は自然と空いている。つまりは、ウィズさんも、この穴のことは知らない。


 僕だけが知っている、久美の秘密、ということになるのだろうか。


 僕だけが知っていること。


 …………。


 僕は、自分のポケットに入っている。鍵を触った。


 この鍵のこと、久美は知らなかった。


 …………。


「久美、ブラウスの裾、さっきみたいにもう一度だけ上げてくれるかな」


「……変なことしないでよ」


 久美はさっきみたいに、ブラウスの裾を脇腹辺りまで上げた。


 僕はもう一度、久美に空いている穴を見る。


 そして、手に取っていた鍵をその中に突き刺し、回した。


 回した直後。


 久美の左のてのひらが光に覆われた。


 久美の右のてのひらが闇に覆われた。


「え、え、え?」


 久美が動揺したように声を漏らした。僕も一体何が起きているのか分からない。


 僕はすぐさま鍵を抜く。鍵を抜いても、久美の左手は輝き続け、久美の右手は暗がり続けた。


 久美は左手を前に差し出した。左手を差し出すと、部屋の白いクロスの壁がスクリーンのようになり、光の先端が映りこんでいた。


 その光はどうやらプロジェクターの役割を果たしているようだった。壁との距離が近いからなのか、カラフルな映像がピンボケして白い壁に映っている。


 僕と久美は壁との距離を取るために、じりじりとと部屋の隅の方へと向かっていった。結局、一番焦点が的確だった場所はベッドの上だった。


 ベッドの上に、二人並んで壁にもたれるように座り、久美の左手から放たれる光の先を見ると、そこにははっきりとした映像の中に白衣を着た吉良教授が座っていた。


 二度と会うことはない、二度と会いたくはないと思っていた吉良教授の姿がそこにはあった。


 それだけでも驚くべきことだったのに、その映像は、その驚きを超える驚異を僕に与えた。


 吉良教授がサンタ帽をかぶって、パイプ椅子に座っていた。


 吉良教授はあくまで真顔だった。


 …………。


 吉良教授の周囲には、吉良教授が座っている椅子以外にも、五脚パイプ椅子が用意されていた。


 でも座っているのは吉良教授ただ一人。


 吉良教授が、真顔で、サンタ帽を被って、こちらを見ている。


 …………。


「ねえ、これ最初の役ホントに私でいいの?」画面の中の吉良教授が、自分のサンタ帽を指差しながら、画面に向かって不意に口を開いた。


 画面を直視、というか、映像を取っている人を見ながら、訊いている様子だった。


「ああ、吉良教授! もう映像始ってますよ!」若い、女性の声が画面から聞こえてくる。


「ええ! もう始まってるの? じゃあ、さっそく始めちゃおうか。せーの」


 吉良教授がポケットからクラッカーを出し、前に構えた。前に構えると同時に、吉良教授の周りに白衣姿の男性二人と、女性二人が一斉に集まってきた。皆それぞれの手には色とりどりのクラッカーが握られている。


 そして。


「誕生日おめでとう! 白石由人くん!」


 と、一斉にその人たちは声を上げたのだった。

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