031

「あ!」


 それを思い出したのはバスの中、ふかふかの座席に座ったときだった。


 正確に言うならば、座席に座りスラックスのポケットの中で僕の太腿に鍵が触れた時だった。


「なあ、久美。何で久美は僕に鍵の話はしなかったんだ?」僕は、バスの中で最後尾の右隅をそそくさと陣取り(久美いわく「揺れが怖いから」だそうだ)、手すりにがっちりと掴まっている久美に訊いてみた。


「ん? 鍵の話? 何それ?」


「あ、今は別に、ウィズさん知らないモードじゃなくてもいいから」


「ん? いやいやいやいや。久美さんウィズさん知ってるモードでも鍵の話なんて知らないですよ」右の掌を自分の鼻の前でブンブンと振る久美。


「え、そうなのか。いや、これなんだけどさ」


 そうして僕はポケットから吉良教授のデスクワゴンから持ち出した鍵を取って、久美に見せた。


「貸して、見せて」


「食べたり無くしたりするなよ」


「しないしない。人間のあなたに誓って鍵を奪ったりはしませんよ」


「おーけ。はい、どうぞ」


 僕は久美の右手に鍵を渡した。


「んんんーっ」鍵を目の前につまみ、じーっと観察する久美。


「私にはわかりません。それどころかこの鍵が一致する鍵穴すら検索できません」


「突然ウィズモードになったな。え、どういうことそれ」


「この鍵は鉄くずと同然ということです」


 久美は鍵をつまんだまま自分の顔の前で両手をパンっと鳴らし、「ということで」と言うと久美は、両手でバスの窓を開けて、その鍵をぽいっと捨てようとして──僕はもちろん止めた。久美の左肘をがしっと掴み、強制的に止めた。鍵はぽとっと久美の膝の上に落ちた。


「いやいやいや即行で約束破ろうとするなよ」


「食べるでもなく無くすでもなく、無意味だから捨てようとしただけだけど」


「それは強制的に無くすのと同じだろ。久美?」


「それにこの鍵の物質」久美は鍵をまた摘まみながら分析をするかのように目を細めながら言う。「とても新しい物質で出来てる。とても奇妙。最早気持ち悪い。どういう流れでここにあるのか全く分からないんだけど」


「新しいのか? どういうことだ? それ吉良教授のサイドワゴンから見つけたんだけど」


「あ!」口を開いて、久美はまた鍵を摘まんだままパンっと手を打った。僕はすぐに久美の左肘をしっかりと押さえる。


「ああ、いやいや、今度はもう捨てないから、ロックロック、ロック外して、私の肘に絡みつかないで」


「あ、はい。すいません」僕は素直に久美の肘から離れた。


「うん。まあ取りあえず鍵は返すよ。そしてそんなことより」久美は僕に鍵を渡し、訊いてきた。


「吉良教授が移転された後何してたの? 私、教授が移転されたと分かった時、扉に向かったんだけど、由人、三十分位経ってから部屋から出てきたよね? もしかしてその時なの? この鍵を見つけたの?」


「いや、待てよ。何でウィズさん知らないんだよ。ウィズさん何でも知ってる、神様みたいなもんじゃないのかよ」


「それは、教授が移転されてたから」


「ああ、なるほどな」


 と。


 僕は一瞬納得しかけた。けど。


 いや、それは違うだろ。


「いやいやいや、違う違う。それは違うだろ。ウィズさん物質全てを司ってるのならば、別に吉良教授が作動しなくなったって部屋の様子は手に取るように分かってたはずだろう?」


「だーかーらー」


 久美は物分かりが悪い弟に教えるかのように説明した。


「吉良教授の胸は移転されてる最中で、不定形になってたんだって。不定形だったら観測されないの当たり前でしょう? 不定形がそこにあったら、不定形の周囲も観測されにくくなるのは当たり前でしょう? 不定形は波に近い性質があるんだから」


「そんな説明あったっけ?」


「あったよ! 無かったかも知れないけれど基礎事項は教えたんだからそれを組み合わせれば充分に教えたことになるはずだよ!」


 なるほど。つまり僕はあの吉良教授の胸の風穴について勘違いしてたんだな。


 あの穴の向こうは、どこかの夜につながっているわけじゃない。そのまんま無そのもの。


 いや、またこれも違う。無は無だ。有無すら「無い」の無だ。つまり規定されない、「不定形」としか言いようがないのか。


 そういえば。


 吉良教授の風穴に触れた時、あのときリラックスチェアの感触あったもんな。


 もしもあれが、吉良教授が例えたように、そして僕が考えたように、どこでもドアみたいにどこかの空間に繋がっているのなら、あのリラックスチェアに触れるはずがないもんな。


 そして、また、あのとき、吉良教授の胸の表面を触ったのにリラックスチェアに触れた感触があったのは、まさしく、吉良教授の胸が、不定形だったから。


 そこにあるのかないのか分からない状態だったから。


 そこにないとわかれば、代わりに何かをある状態にするだろう。ないところにあるものが流れてきて同時的にあるものがある状態にするだろう。


 それが自然の流れだから。


 だが、分からないから、空間も省略されたのか。


 そこの座標に入るものが分からないから。


 あと一つ分かったことがある。


 吉良教授は、多分僕を馬鹿だと見越して、物質移転装置を人間の主観から見て、どこでもドアと例えたんだろうな。


 あの教授、僕に全然期待してなかったな。


 なんか馬鹿にされた気分だ。


 もう会うことはないはずなのに腹立ってきた。


「あー」


「どうしたのいきなり?」


「いや、教授のどこでもドアの例えに腹立ってきて。あれ人間主体の考えじゃないか」


「あー、なるほど。私が言った不定形の説明ちゃんと理解したんだね。でもそんなに教授を責めないでよ」


 久美は教授擁護派だった。


「元々由人にそんな詳しく教える計画なかったんだって。吉良教授はある程度の移転までの理由と経緯を説明した後、由人に説明を信じさせるために教授自身が身を持って物質移転を実演するだけのつもりだったんだって」


「そこで僕が予想外に怒ってしまったんだっけな」


「そう。吉良教授は直接式の物質移転装置を以って、教授の指先辺りを由人に触れさせて、由人をちょっとびっくりさせるくらいのつもりしかなかったのに」


 すごいな。僕すごく悪いことをしてしまったみたいだ。


「突然にあそこまで大きな領域で不定形を開けられたら、WITHウィズさんだって操作不能になっちゃうよ」


 あらあら。というか、もうすぐ家にもっと近いバス停にバスが着く。


 僕は『次とまります』ボタンを押そうとして、念のため久美に訊いておく。


「久美も降りるよね」


「オフコースです」


 そう言うと、久美は僕の方に親指を突き立てた。


 ちなみに、帰りのバスでは二人はほとんど揺さぶられることがなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る