023

 僕は目を開けた。涙で少しにじんでいた。


 ……少し眠ってしまっていたのかもしれない。白ワイシャツの両裾りょうすそをそれぞれの目に当てる。……よし、疲れも眠気もだいぶ取れている。


 僕は上の方にある時計を眺める。時刻は正午ジャスト。


 どうやら本当に数十分眠っていたみたいだ。僕は背中を壁に押しこみ勢いをつけて立ち上がる。


 部屋の中は先程と何も変わっていなかった。穴の空いている教授はいずれもそこに座っていた。


 胸に穴が開き、そして尚且なおかつ血は全く出ていない姿。


 やっぱり不気味だ。死んですらいないのに見た目だけは人間の姿をした、何かが停止している。


 僕はスラックスの右ポケットの中をまさぐる。鍵がある。あのとき吉良教授が最後の力で僕に示した、デスクボックスの中にあった鍵がある。


 この鍵がその名の通り色々な謎を解くカギなのだろう。


 思えば、僕以外のすべての人間がロボットであるならば、この世界を説明する者は別段べつだん、吉良教授でなくともいいはずだ。熊本高校のクラスメイトでも構わないし、そもそもあの朝に会った久美から語られていても別に何の不思議もないはずだ。


 それでも久美は吉良教授の元まで僕を連れてきた。これには多分、何か致命的な理由があるのだろう。


 そしてその謎を解くキーがこの鍵なのだろう。


 ……ここまでだ。僕が考えられるのはここまでだ。


 僕は教授の方に向けていた身体をひるがえし、ドアのほうへと向き合った。


 さよなら吉良教授。もうあなたに会うことはないだろう。


 ドアまで歩き、少しため息をついてから扉を開くと、そこに椿久美が待っていた。 


 椿は少しうつむき、唇を震わせ、顔をくしゃくしゃにして今にも泣き出しそうな様子だった。


 「ごめんなさい由人。傷ついたでしょう……」


 第一声がそれだった。椿久美の、いつもは強気の椿久美の第一声がそれだった。


 「今まで……、由人を今まで騙して……、ずっと今まで騙して、ごめんなさい」


 椿の声が震えている。小さく絞り出すように声がかすれている。


 違う。


 違うよ、椿。


 椿は何も悪くないじゃないか。


 椿は何も悪いことなどしていない。だから、だから──。


 僕は反射的に、椿を強く抱き寄せた。


「簡単に謝るなよ……。謝罪の価値が下がるだろう?」


 僕は椿の耳元で囁いた。


「椿は何も悪くない。こうするしかなかったんだろう? だったら仕方のないことじゃないか。大丈夫。椿は悪くない」


 僕は椿の髪をさすりながら続ける。


「それに、椿は椿だけの過去を持っている。僕と出会ったとき確かに君はロボットだったかもしれない。それでも、君と僕とが共有した時間は確かにそこにあるじゃないか。それは、椿だけが持っている記憶だろう? 独自の過去を持ち、記憶を基に行動するのならば、それは立派な人間だ。そうだろう? 椿。君は立派な人間だ。君は確かに生きている」


 椿が力が抜けたかのように、僕の胸の位置まで頭を下げた。そして、頭を下げながら嗚咽をまじえ泣き始めた。


「……っ、あ、あり、がとう……。ありがとう由人…………。ありがとうありがとう…………」


 彼女は膝を曲げ、崩れるように身体を僕に預けた。僕はそれでも離さない。椿に合わせて僕もゆっくりとかがんでいく。


 その後も椿は泣き続けた。不思議なことに、僕らの周りには誰もいなかったし、どこかに人がいるような物音一つしなかった。

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