005


「ゆーくん、僕っ子になってるねー」


「いや、僕っじゃないよ。僕は元から男だろう」


「あれ? 僕っ子ってそういう意味だっけ? 一人称が『僕』の男の子って意味だと思ってた」


 そう言うと彼女はてへへっと左手で軽く頭をかいて見せた。


「まあ、ゆーくんの一人称が『僕』になるってことは私に心開いてるってことだから」


「うん。そこは自覚してる」


「他の誰にもできない事、してくれてありがと」


 彼女は笑った。目を細め口を閉じたまま口角を少し釣り上げた。


「いや、礼を言うのはこっちの方だ。いや、礼と言うより謝罪かな。なんというか、こんな重たい話をしてごめん。そうだ、ちょっとベンチに座っていかない?」


 僕たちはもう、水前寺駅の北口手前まで来ていた。豊肥本線は熊本県を東西に横断している。駅の東側、つまり僕らから見て左側には大きな木を中心とし、その木をぐるっとベンチで囲ってある小さな公園があり、その反対側には道路を挟んで、こちらにも公園がある。こちらは大きな公園で、遊具やトイレなんかも備え付けられている。


 どちらの公園も名前は分からない。


 彼女は「ちょっと待ってね」と言って、西側の公園と水前寺駅の間にある細めの駐輪場へと、小走りで自転車を止めに行った。がちゃこんっと自転車を止め、鍵を閉め、そしてまた小走りで僕の所へ戻ってきた。


 僕らは西側、つまりは駅を背に左側の大きめの公園へと入っていった。そして、公園を一望できるような、公園の中でもちょっと外れたところにあるベンチに座った。


 先に久美が座り、僕が横に座った。両側にのみ手すりが付いているタイプで、僕基準の程よい距離間で久美の横に座った。恋人同士の適当な距離感を、僕は未だに正確には知らない。


 そして、僕はベンチに座るなり、ふうと息をついた。


「正直、朝からずっと怖かった。いや、なんかごめんな。久美には何にも関係ないことなのに」


 僕がそう言った瞬間、久美はガシッと僕の左の二の腕を掴んだ。


「なよなよしいぞ! さっきから謝ってばっかり! 私にゆーくんの悩みを全て打ち明けてくれたことに本当に感謝してる。感謝しかないくらい感謝してる。全然怒ってなんかいない。私が全然、これっぽっちも怒ってないのに謝ってくれなくていいの! 簡単に謝ってくれなくていいの! それじゃ謝罪の価値が下がっちゃうじゃない」


「なるほど、確かにそうかも」


 そして、彼女はつかんでいた右手を、今度は僕の頭に乗せて撫で始めた。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ。くみちゃんは優しい声で言いました。だいじょうぶ、だいじょうぶ」


「それは、たしか小学校のときの『だいじょうぶ、だいじょうぶ』だっけ?」


「そう。私の朗読がうまいおかげでゆーくんすぐ思い出したね。さすが私だね! 椿久美だね。ゆーくんの記憶を取り戻したね」


 そう言うと、彼女はくしゃくしゃっと僕の髪をき回した。


 久美のテンションについていけず、言葉が出なかった。


 自分の急すぎるテンションの高さに気がついたのか、向こうもも言葉が出ないようだ。


 久美は、すっと右手をベンチに下ろした。


「まあとりあえず、大丈夫だよ。私に話してみて、少しは楽になったでしょう?」


「少しどころか、だいぶ楽になった。聞いてくれて本当にありがとう」

 

そしてここで僕は、弱い自分の本音を出した。


「でも、やっぱり、まだ少し怖い、かも」


 弱い弱い僕の本性が現れる。


 はっきり言って、ただの面倒くさい奴だ。


 恐らく僕は、もう一人僕がいたら『なんだこいつ?』と思って嫌い、煙たがることだろう。


 人間とはそんなもんで、自分と同じレベルの弱さの人間がいたら、自分より弱いと思ってしまう。見下してしまう。


 しかし、彼女、椿久美は、そんな僕の弱さを見て、ベンチの上に置いてあった両の手を、それぞれ僕の両肘まで持ち上げた。


 僕の背中に手を回し、体ごと僕に近付き、僕の体を引き寄せ、僕の体をぎゅっと抱きしめた。


「大丈夫。私がいるから」


 かすれた声でそう言った。


 僕の方が体躯が大きいので、久美が僕の胸の中にうずめる形になった。突然のことに初めは動転した。だがすぐに安心した。


 これは凄い。久美に話してもまだ消えてくれなかった心の片隅に残る小さな不安、何か苦しい将来が起こるのではないかという些細な予感。それら全てが、本当に泡のように溶けていった。よく分からない複雑な悩みが、単純で純粋な安心感へと落ち着いた。


 今までなんとなくドラマやマンガなんかで見てるこっちが恥ずかしいと忌み嫌ってきた恋人たちの抱擁であったが、やられてみるとこんなにも心が静まるものだったとは思わなかった。


 顔を埋める彼女の背中を、ポンポンっと叩きながら、「ありがとう」と彼女の耳元で囁いた。


 そして、彼女の首元まで伸びるセミロングの髪を一回、指を通した。


 彼女は顔を上げた。


 僕は彼女にチラッと視線を向けた。


 一瞬の間。


 そして、僕は、彼女にキスをした。


 ──そのとき、なにかと音がした。


 何かが落ちたような音。


 もちろん、恋に落ちる音とかそういう比喩じゃなくて、


 物理的に、何かスイッチが入る音がした。


 僕はその音に気付いたけれど、聞こえていないふりをした。

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