ビュブリスの涙と茜ちゃん

 久しぶりに夜更かしをした。その理由は満子とのイチャイチャではない。ケーブルテレビでやっていた韓国映画にハマってしまったのだ。


 実は、満子は大の韓流好きだった。アイドルグループにうつつを抜かすタイプではなくドラマや映画にハマるタイプだった。好きな俳優さんは「誰だい?」と一度だけ聞いたことがあったけど、キムやチャンなど似たような名前ばかりが出てきたので途中から名前を覚えないようにしていた。だって、みんな同じように聞こえるんだもん。ゴメンな、満子。

 韓国のドラマや映画は、じっくり見ると非常に面白い。ハリウッドや邦画とは違う独特の世界観があると思う。それぞれのテーマに対する掘り下げ方も徹底的なような気がする。今回ハマった映画は、大企業の御曹司と新人で入社したばかりの秘書との間で繰り広げられるラブコメで、実は二人は生き別れた兄と妹だったという笑いあり涙ありの秀作だった。


「平ちゃん、回覧板が来てたよ」

「おっ? 珍しいな。ありがとう、満子」


 僕は祖母の遺産で受け継いだ一戸建てに住んでいる。築年数は五十年以上と古めかしく、所々にガタがきている状態だが、子供の頃から慣れ親しんできたこの家には愛着があった。ゴキブリもネズミも、シロアリとも共同生活をしている。最近ではハクビシンが屋根裏に入り込み、先住のネズミたちを相手にドタバタと縄張り争いをしていた。

 ここら一帯では昔から自治会というコミュニティがあり、僕の家も祖母の代から自治会に加入していた。昔は、正月に餅つき大会をやったり、夏休みの時期は毎朝ラジオ体操をやったりと、何かとイベントを組んで横の繋がりを大切にしていたものだけど、世代交代が著しい今となっては回覧板で情報共有をする程度が関の山だった。

 満子から受け取った回覧板に目を通し、押印欄に判をつく。特に重要な連絡事項は無かったので、すぐに隣の山崎さん宅へと持っていった。一人で行こうとしたら、彼女も「行きたい」と言い出したので一緒に玄関を出ることにした。アシスタントになってからスルッと僕の家に住み始めた彼女の近所付き合いスキルは素晴らしく、いつの間にか僕たちは夫婦という思い込まれようで周りから親しまれていた。


 隣の山崎さんは五年前に越してきた四人家族で、家主の敏夫さんとは歳も近く雑談を始めても苦にならないほどの信頼を築き上げている。満子も奥さんの京子さんと仲良しで、時々ランチや買い物を一緒に楽しんだりもしていた。


「こんにちはー! 回覧でーす!」

「はーい! あ、みっちゃん(満子の愛称)だー!」

「こんにちは、茜ちゃん。ママはお出かけ?」

「うん。今ねぇ、お花のお稽古に行ってるよ」


 僕と満子は顔を見合わせた。あぁ、あのお花の先生のところね……口には出せない事情の京子さんとお花の先生。人の恋愛はそれぞれだよねと、暗黙の了解で敏夫さんへは言わないよう心掛けていた。痴情のもつれには、足も手も口も突っ込まないのが鉄則だろう。ここは、サラッと回覧板を茜ちゃんに渡して退散だ。


「これ、パパとママに渡してね」

「はーい! あ、ねぇねぇ。ちょっと、みっちゃんにお話したいことがあるんだけど……聞いて欲しいな」

「うん? 何かな? 平ちゃん、ちょっと聞いてあげようか」

「あぁ……そうだねぇ。僕も一緒に聞いて大丈夫な話なのかい?」

「どうしようかなー。女同士のコイバナなんだけどなぁ」


 茜ちゃんって、まだ小学校五年生くらいだったような気がしたけど……今時の小学生はコイバナもするのか。女同士と言われちゃあ、僕はお邪魔でしかないよね。満子もしょうがないねという表情でウィンクしてきたので、とりあえず「それじゃあ、僕は先に帰ってるよ。ガールズトークで盛り上がってくれ」と言ってその場を去った。


 一時間後、満子が戻ってきた。

 僕の方から「どうだった?」と聞くのも野暮なので何も聞かずに「おかえり」とだけ言ったけど、満子は少し上気した顔で「ちょっと聞いてよ!」とベッドルームへ僕を誘った――。


 普通に話を聞けるような冷静さを保てないほど満子の顔が色っぽく上気していたもんだから、ついつい一戦を交えてしまった。その後「ふぅっ」と心を落ち着かせてからピロートークを挟んで、ようやく茜ちゃんとのガールズトークで話した内容に話題を移した。


「ほぉ、それは面白いねぇ。実際に、そういった感情って芽生えるもんなんだね」

「でしょう! ちょっと『ビュブリスの涙』っぽいよね! 茜ちゃんのために、何か手伝ってあげたいくらいだわ」


 話の内容は、かいつまんで言うと茜ちゃんがお兄ちゃんの翔太くんに恋をしているということだった。それも、けっこう病的に。翔太君は高校一年生で、年を重ねるごとにイケメンへと変貌しているらしい。小学生の茜ちゃんからすれば、どんどん自分から離れてしまいそうなお兄ちゃんに寂しさと切なさを感じ、居ても立ってもいられないほど心がざわついているのだそう。誰かに寝取られる前に、自分がお兄ちゃんを支配するんだと意気込んているみたいだった。意気込み方のベクトルが少し違うような気もするけど、茜ちゃんの本気度は強いみたいだ。

 ちなみに、満子の言ってた『ビュブリスの涙』は、ちょうど昨夜に観ていた韓流映画のタイトルだ。映画のようにお互いが兄と妹だと気づかないまま恋に落ちていく二人ではないけど、観たばかりの映画なだけについついイメージが重なってしまう。ついでに言うと、ビュブリスはギリシア神話に登場する人物で、兄であるカウノスに恋をするが想いはことごとく拒絶され、挙句の果てに疲れ果て倒れてしまうという悲劇の妹だ。


「そうは言ってもなぁ、近親相姦はタブーだろう。正式な依頼だったら、話はべつだけどね」

「正式なって……依頼なら受けるの? 小学生の女の子から報酬をもらう気?」

「そんなことは、できればしたくないけどね。っていうか、実の兄と恋人同士になりたいという依頼そのものがおかしいだろう? だから、なんやかんやで断るけどさ」

「そこが平ちゃんらしいって言えばらしいけど……少しの間でいいから、茜ちゃんの想いも成就させてあげたいなぁ」


 僕の右腕を枕にしながら、目に入った腋毛を抜こうとする満子。ちょっと前までは胸毛を抜かれていたけど、すっかりキレイになったので今では腋毛に指を出すことが多くなった。胸毛よりも腋毛の方が痛いんですけど……でも、叫ばずに耐えてこそ男だろう。


「しょうがないな。ちょっとだけ、いい夢でも見せてあげるか」

「えっ? 平ちゃん、何する気なの?」

「何でも屋としてのスキルを使おうと思う。催眠術だ」


 僕は催眠術にけている。とはいえ、催眠術には「かかりやすい」人と「かかりにくい」人がいるのは周知の事実だ。しかし、茜ちゃんはまだ小学生なので、純粋な心を失っていない今なら無条件でかかってくれるだろう。


「私のミツコビジョン・モードスリーみたいものね」

「モードスリー? 満子も催眠術が得意ってことかい? それは初耳だ」

「私だって、平ちゃんがモードスリーを使えるだなんて初耳よ」

「なんでモードスリーなのかな?」

「ミツコビジョンにはね、七つのモードがあるの。それぞれのモードには特徴があって、スリーは人を操る効果があるのよ」


 前にジュゴンの女の子を見つけた時は「モードセブン」と言っていた。きっとセブンは遠くのものを見る能力ってところだろう。残りの五つのモードも気になるところだけど、彼女が持つ催眠術のパワーはどれほどのものなのか……なかなか興味深い。


「そのモードスリーって言うの、興味あるなぁ。今回は、満子が茜ちゃんに催眠術をかけてみるのはどうだい?」

「私? うーん、やってもいいけど。大丈夫かなぁ」

「効くのかどうか心配な感じかい?」

「ううん、私のモードスリーは人を操るために生まれたものなの。あらゆる催眠術をデータ化して一つのセオリーを構築した応用技術だから、その効果は完璧よ。完璧過ぎて、元の状態に戻れるかが不安要素だわ」

「そ、それはそれは……」


 モードセブンといい、ミツコビジョンというのは僕の想像を遥かに超えた凄い能力のようだ。かけた催眠術が解けるかどうか不安だなんて……個人的には羨ましい。やっぱり、その効果のほどを見てみたい欲の方がまさってしまう。


「そのモードスリーは、子供向けに加減をすることはできないのかい?」

「できると思うけど……私って何でも本気出しちゃうから、手加減っていうのが難しいのよね」

「じゃあ、その加減を調整する練習も兼ねてやってみようよ。これは僕からの依頼だと思ってくれてもいい。報酬も出すよ」

「そうねぇ。じゃあ、やってみようかな。報酬は何をくれるの?」

「満子の欲しいものでいいよ」

「ほんと!? 『激甘タッカルビの逆襲』でもいい?」

「お、おぅ……そんなんでいいのかい? 全シリーズ揃えてあげてもいいよ」

「やったぁ! 平ちゃん、大好き!」


 裸であることも忘れて僕の顔に胸を押し付けて喜ぶ満子。本当に彼女の韓流ドラマ好きは筋金入りだ。『激甘タッカルビの逆襲』は、まだ日本では配信されていない長編ドラマで、韓国ではシーズン10がちょうど放映されているという。日本語での字幕や吹替が処理されたものは発売されてないけど、都内にある韓国街ではシーズン9までのDVDが売られている。これで、お互いの安請け合いは成立した――。


 数日後、僕たちは茜ちゃんを近所の市民センターへ誘った。予め取っておいた会議室で、ミツコビジョンのモードスリーを発動させようという算段だった。会議テーブルを部屋の中心に一つだけ置き、それを挟むように椅子を設けて満子と茜ちゃんが向かい合う。僕は部屋の片隅で腕を組みながら壁に寄りかかり、静かに二人の様子を眺めていた。


「茜ちゃん、前に話した翔太くんのことだけど……ちょっとの間だけ、恋が成就するおまじないをかけてあげようか?」

「ほんと!? お兄ちゃんが私のものになるのね! 嬉しい!」

「でも、これだけは忘れないで。恋は恋だから……茜ちゃんが幸せになるには、その恋を卒業して新しく愛せる人を見つけることが大事なの。いつまでも翔太くんを支配しちゃダメだって約束できる?」

「えー! どうして? お兄ちゃんが私のものになれば幸せじゃないの?」

「まだ茜ちゃんは若いから……わからないことも多くて当然だわ。だから私の言ったことを覚えていて欲しいの。ね?」

「うん、わかった! みっちゃんの言う事、ずっと忘れないよ!」

「ありがとう。じゃあ、私の目をジーっと見てくれる?」


 満子は小声で「ミツコビジョン・モードスリー」と唱えた。すると、彼女の目の色がみるみると薄い紫色に変化していく。じっと彼女の目を見つめていた茜ちゃんが「わぁ、キレイ!」と喜んだのも束の間……薄紫の光線が二人を繋ぎ、嬉々として可愛らしかった少女が魂を抜かれた人形のように生気を失っていった。光線を消した満子が立ち上がって、椅子から転げ落ちそうになる茜ちゃんを支えた。

 なんという速さだ! 僕の催眠術は懐中時計を振り子のように揺らして眠りにつかせるオーソドックスなタイプだから、こんなに速く催眠をかけることはできない。目から光線を出すっていう方法も斬新だ。人類でこれができる者は、満子の他にいるのだろうか?


 ぐったりと眠りに落ちた茜ちゃんを会議テーブルの上に寝かせた満子が、何やらボソボソと耳元でささやいている。翔太くんとの恋路に関わる幸せな一ページを吹き込んでいるのだろう。

 人形のように無表情だった茜ちゃんの頬に赤みがさしてきた。次第に笑みもこぼれだし、夢の中で支配している翔太くんとの恋路に満足している様子がうかがえる。今の彼女は、正しく恋に恋する眠り姫といったところだ。


「幸せそうだな」

「そうね。平ちゃんに恋してる私みたい。可愛いわ!」

「ところで、この催眠はどうやったら解けるんだい?」

「茜ちゃんが見ている今の世界に飽きたら、自然と目覚めるはずよ」

「それって……飽きることがなかったら?」

「人間は、全てのものに飽きるようできている。って言うじゃない」

「いや、それはそう言うけど……」


 とりあえずは、茜ちゃんを抱えて山崎家に届けよう。遊んでいるうちに寝ちゃったんだよと両親に伝えて、翌日に目が覚めることを祈るしかなさそうだ――。

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