第8話 満ち足りた淫魔は闇に溶ける

「んふっ……」


 死に至るまで精を吸われたブルーノは、意識を失うように力が抜けて倒れてしまう。

 唯一救いがあるとすれば、彼は最後に願いを叶え、幸福な死に顔を晒していることであろうか。


 ブルーノの体を見下ろしながら、親指で彼と触れていた唇をなぞる。


「ご馳走様。美味しかったわよ。本当なら抱いてあげたいところだけれど、だぁめ。我らが淫魔女王を差し置いて、私如きを美しい姫君なんて宣ってしまう可愛らしくも愚かしい貴方は、接吻で我慢しなさいねぇ?」


 むくろに話しかけるにしては、あまりに穏やかな笑いを浮かべるルスランは、ブルーノに抱いていたいくばくかの興味も失せたのか、ゲーベンたちへと体を向けた。


「さて、残った貴方たちだけれど」


 淫魔のを目にした三人は人の形をした怪物の、月のごとき美しさと妖しさを兼ね備える瞳に見据えられ、緊張と恐怖で体を竦ませる。


「うふふ。そう警戒しないで?」


 彼らの態度がおかしかったのか、貴人の令嬢のように楚々と笑うと、クラージュへと金色の瞳を向け、


「目的の味見は果たしたし、食事も美味しかったわ。なにより」


 ゆっくりと横に動かすと、ゲーベンを超え、ルスランを真っ直ぐに見つめ返すリーナでピタリと止まる。


「面白いモノが見れたもの」


 そう言って、淫魔は艶やかに笑う。


「今日は満足したわ」


 満足した。その言葉に偽りはないのだろう。

 先ほどまでどのようなことをしても開かなかった鎧戸が、ルスランのほっそりとした艶めかしい手によってあっけなく開く。

 結界を解いた。

 そう言いたいのだろう。いつの間にか陽が暮れ始めていたのか、雲間から差し込む天使の梯子のように、暁に輝く黄昏時の陽光がルスランの肢体を妖しく照らす。


 住人たちを弄び、食事と称して本気で惚れていた男を吸い殺す。

 いかにも魔族らしい、身勝手極まる悪意の所業。


「っ……。ここまでやって帰すと思ってるのか?」

「あらぁ? 私を前にしてとっても勇敢。食べてしまいたいぐらい」


 弄ばれるだけ弄ばれたゲーベンからしたら、殺意を抱くほどに憤慨ものの行いだ。

 魔族に相対する恐怖を憤怒で上書きし、去ろうとするルスランを睨み付ける。


「うふふ。けど、ねぇ? お連れの殿方は膝が震えているみたいだけれど、私に剣を向けられるのかしらぁ?」

「クラージュ?」


 ルスランの言葉に誘導されてゲーベンがクラージュを見れば、彼は息を荒げ、尋常ではない量の汗を垂れ流し、蒼白な表情で地に膝をついていた。


「……っ。はぁ……はぁ……」

「ふふふふふふふっ! お顔が真っ青。そうよね、貴方はそうなるわよね」


 大楯を転がし、槍に縋るように支えとする、暗がりを恐れる幼子のような有様のクラージュに、得心がいったようにルスランは笑う。

 

「おいっ! クラージュ、どうした!?」

「はぁっ……すま、ない。僕はっ……戦え、ないっ!」


 明らかに様子のおかしなクラージュが息も絶え絶えに紡いだ言葉は、戦いの拒絶。

 体調不良か、それとも淫魔によるなにかしらの毒か。

 頼りにしていた友が膝を折ったことに目を剥き、ゲーベンはギリッと歯を食いしばる。


「お前がなにかしたのか?」

「あら? 心外ね。私はなにもしていないわ」


 唯一前線を張れる戦闘職の脱落。

 残る二人は強化魔法しか使えない魔法使いと、魔力を盛大に使ったばかりの見習い神官だ。

 弓は得意とリーナは口にしていたが、狭い通路でこうも間合いが近くては、魔族相手に期待するには心もとないか。 


「けど、うふふふ。この状況でなお強気な態度を崩さないのは悪くないわ」

「――っ!!」


 壮絶な表情で鋭く睨むゲーベンの目を容易く受け止めて嫣然と笑う。

 八方塞がりの状況の中、心折れることなく己に反抗の意志を放ち続ける気骨ある男にそそられたのか、一度黒き翼をはためかせた時には、気付けばゲーベンの眼前に現れ、抱き着くように顔を寄せていた。


「ゲーベンさん!?」

「ちょっと摘まみ食いしちゃおうかし……?」


 咄嗟に体は動かず、男の本能を引き出す生暖かく甘い吐息に、ゲーベンの背がぞくりと跳ねた。

 突き飛ばすこともできず、ルージュに濡れる蠱惑的な唇を拒絶する間もなく、唇を奪われかけたゲーベンであったが、僅か紙一枚の隙間を残し、ルスランの動きがピタリと止まる。


「貴方……」


 震えれば触れてしまいそうな距離。

 先んじて鼻先が触れ合う中、ルスランはなにかを思案するように月の瞳を丸くし驚いていた。


「そう……そういうことなのね」

「……っ、なんだ?」

「お楽しみなようでなによりだわぁ」


 そっと、ゲーベンの肩を押すとふわりと飛ぶようにルスランは後退する。


「んふふ。では、さようなら」

「あ、おい!」


 思わぬ心変わりにゲーベンが呆気に取られていると、後ろ髪引かれることなくルスランは現れた時同様、あっけなく闇に溶けるように姿を消してしまう。

 結局なにがしたかったのか。

 あまりの自由奔放っぷりに半ば放心状態となったゲーベンは、はっと現実に帰ってくると悔しげに表情を歪め、歯噛みする。


「くそったれ。逃がしたか」

「え? 逃がしたというより、見逃されたんですよ?」

「見栄ぐらい張らせろ」


 リーナの素直過ぎる感想に、ゲーベンは打ちひしがれる。

 好き勝手弄ばれ、一矢報いることすら叶わなかったのだ。心はにしきではないが、せめて気持ちだけでも虚勢を張りたかったのだ。

 心ないリーナの一言で現実を直視してしまったゲーベンは、悪霊でも憑りついてしまったかのように気持ちが沈んでいる。頭上に雨雲が見えるのは気のせいであろうか。


「うん、まぁ、でも、どうにかなって良かったですね!」

「気軽だなぁ」


 事態をしっかりと認識しておきながら、どこまでもリーナは前向きだ。

 ゲーベンは能天気だと思う一方、その明るい性格を羨ましとも思う。


「えー? そうですかー? だって、魔族が関わっていたわりに、被害は最小限。残念ながら天に召されてしまった方もおりますが、それはそれ。生きる努力と運が足りなかったと諦めていただくしかありませんね」

「世知辛いこと言うな。いやまぁ真理なんだろうが、そこは神官として、信仰が足りなかったから女神がお救いにならなかったとか、そういう運命だったとか言うじゃないのか?」

「? 変なことを仰いますね」


 心底不思議だと、リーナは非常識なことを口にする。


。時にか弱き私たちに神託を下すことはありますが、それだけです」

「……宗教ってのは、救いを求めて祈るものじゃないのか?」

「違います。私たちが祈るのは『私たちを生み出してくれてありがとう』という感謝を捧げるものであって、祈ったから神の奇跡で助けてください、なんて見返りを求めるものでは決してありません」


 

 明るく元気、一見するとお馬鹿に見えるリーナではあるが、神聖魔法を使った時に垣間見せた神聖なる身姿。

 神官、というには清廉に過ぎる。

 まるで神託を受けた神子かのような、荘厳なる気配に圧倒されてゲーベンは我知らず息を呑んだ。


「常識ですよこの程度。田舎娘の私だって知っています!」

「どこの常識だ……邪教かなにかじゃないよな?」

「失礼な!」


 彼女の神聖さは十も保たないのか。

 むきーっと子供のように憤慨するリーナをあしらいながら、ゲーベンは内心で考える。

 ――リーナの言葉は、なにか根拠のような、実感がある。

 東大陸で広く信仰されているクレシオン教よりもずっと。

 生きることに疲れ、無慈悲な現実に心折れた人々が祈る、縋るための偶像神ではない、あたかも己を生んでくれた身近な母を語るかのような言葉。


 先に発した清浄な魔力の奔流。そして、低級の神聖魔法である≪浄化ピュリフィケイション≫によって、魔族の魅了を浄化してみせた埒外の力。

 ――何者なんだろうな、こいつ。

 気にはなりつつも、興味という域には至らず、どうせ関わるのはここまでだとゲーベンはリーナについて考えるのを放棄した。

 ……なお、後日、人懐っこい犬のようにやたら付き纏ってくるようになるのを、当然今のゲーベンには知りようもない。


「お前の宗教についてはどうでもいいや」

「どうでもよくありません! 宗教は布教するものではありませんが、女神フィテリー様がどれだけ偉大な女神様かを一から十まで、装飾華美に語って聞かせましょう!」

「盛るな盛るな」


 宗教を布教しないというのもおかしな話だが、飾る前提で崇める女神を語るのは不敬に当たらないのであろうか。

 しっしと野良犬を追い払うように手を振ると、未だに顔色悪く膝をついているクラージュへと声をかけた。


「ほら、クラージュ。とりあえず、部屋で寝ろ」

「す、すまない……」

「いい、謝んな。魔族相手にしたら誰でもそんなもんだ」

「ち、違うんだ……」


 震える声でクラージュが否定する。

 ゲーベンとて彼の反応を見れば、尋常ならざる状態なのは察しがつく。

 だからといって深い入りするつもりもないのだ。


 ゲーベンはクラージュを友人だと思っているが、彼の根深い部分を暴いて寄り添おうとするほど、深く関わる気はない。

 ――こういう性格が、『胡蝶の夢』を追放された一因かもな。

 非情だと罵られようとも、他人への関心が薄い、表面的な付き合いしか望まないゲーベンにとって、友人であるクラージュの事情であっても興味すら抱かない。


「……詮索する気はねぇよ」

「ゲーベンは、優しいな……」


 言外に関わる気はないという意味であったが、クラージュはそれを優しさと受けとめた。

 本意ではない受け取られ方をしてゲーベンは顔をしかめるが、蒼白な顔で見るからに気分が優れないというのに、クラージュは彼の内心を察してか力なくもしっかりと首を左右に振った。


「ユキとシュティルに頼まれたはいえ、僕を心配してここまで来てくれたのは君の意思だ」

「頼まれなきゃ来ない薄情者だ。だいたい、関係ないだろ、今は」

「関係なくないさ。だって、僕は町に魔族がいるかもしれない、そう聞いただけで怖くて町に出れなくなった臆病者なんだから」


 まるで過去に犯した大罪を懺悔するかのように、クラージュは涙と嗚咽を零しながら、震える声で吐露した。


「僕はね、ゲーベン……魔族が、怖いんだ……っ」

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