02-05 稀代の天才(4)


 ノックの音がして扉を開けると、カルラが笑顔で手を振っていた。今日は誰の姿で来るんだろうと身構えていたのに拍子抜けだ。


 奥のソファーを勧めると、カルラは横長のソファーの真ん中に座った。私もその隣に腰を下ろす。向かいのソファーも空いているけれど、何か教わるなら一緒に本を眺められる隣の方がいい。


 カルラはちょっと目を丸くしたけれど、すぐにいつもの笑顔になった。


「で、何が知りたいんや?」


 お父様に買ってもらった転移魔法の魔導書を両手で持って、表紙を見せる。カルラがぎょっとしたような顔で本を受け取った。


「転移魔法の理論と実践――って、えらい難しい本読んどるなあ」


「うん、やってみたいって思ったんだけど、全然わからなくて……」


 カルラがうーんと唸りながら、右手で自分の頭をガリガリ掻いた。


「教えたる言うておいて何やけど、堪忍な。うちもこれはわからんわ。転移魔法なんて大層な魔法を使えた奴、これを書いたシリクス一人しか知らんのや」


「カルラ、この本の著者のこと知ってるの!?」


 本の表紙を改めて見てみると、表紙の下に小さく〝シリクス〟と著者名が記載されている。


 さっき食卓で話に上がった以外にも聞いたことのある名前のような気がしたけれど、すぐには思い出せない。誰だっけと考えていたら、カルラが本をローテーブルにそっと置いてから、ソファーの背に体重を預けた。


「お嬢はもう覚えてへんかなあ。ジュリアスのおんや」


「えっ、そうなの?」


 知らなかった。ジュリアスが切れ者だということはゲームの設定で知っていたけれど、親譲りだったとは。


 カルラが天井に目を向ける。けれどその瞳はこの部屋のどこでもない遠くを見ているような気がした。


「せやで。あいつはいろんな意味で天才やった。最近までナターシアを覆っていた結界もな、グリードはんが〝こんなのがあればいいのに〟って言うたのを聞いて、基本的な理論だけは一週間で組み上げたって話や」


 結界の仕組みをよく知らないのでぼんやりとしか理解できないけれど、どうやら相当凄い人のようだ、ということだけはわかる。なにせこの理解不能な本の著者なのだ。凡人の私にはまるで想像もできない世界が頭の中に広がっていたに違いない。


「ただ、集中すると寝食忘れるっつーか他のこと一切をしなくなるっちゅーか、とにかく生き物として駄目になるっちゅーか……」


 生き物として駄目って何だろう、と思いながら続きを待つ。人として駄目だというならまだ想像できそうだけれど、生物として? 呼吸すら忘れるとでもいうのか? ――いや、死ぬなそれは。


「ある日突然、何か凄いことが閃きそうやから一週間くらい研究室に籠もる、って言うて消えたんよ。まあいつものことやから、皆はそうかて送り出したんやけど……一週間を過ぎても登城して来うへんシリクスを心配して、グリードはんが様子を見に行ったときには、もう冷たくなっとったっていう話や」


「……」


 カルラは「な、意味わからん天才やろ?」と言って肩をすくめたけれど、どこか寂しそうに見えた。

 

「グリードはんは、自分がもっと早く様子を見に行っていれば、ってどうせ今でも後悔しとるんやで。シリクスが死んだとき、あの鉄仮面が声上げて泣いとったからな」


 お父様の泣き顔なんてまるで想像ができなくて、私は目を瞬いた。カルラは口元に笑みを浮かべてはいるけれど、やっぱりどこか寂しそうで、私も胸がきゅうっと縮むような気持ちになる。たぶんカルラにとってもお父様にとっても、シリクスという人は大切な存在だったのだろう。


 かける言葉が見つからなくて、テーブルの上の魔導書に目を落とした。


 カルラが続ける。


「そのあとがまた大変でな。シリクスが町の再建計画やら町の間の郵送網の整備やら会計業務やら、小難しいことは全部やってくれとってんけど、残されたメモがどれもこれも意味不明でな。難解なメモを読み解きながら進めなあかんかったから、グリードはんが気の毒なくらい忙殺されとったわ。文句一つ言わんとようやったで……お嬢もそれで何年も放っとかれたんやろ? 災難やったなあ」


 ディアドラの記憶を思い出す。今よりずっと小さい頃、お父様と言えば食事の時に会う以外は執務室に籠もっているかナターシアのどこかに出かけているかのどちらかで、遊んでもらった記憶はない。見かけてもすぐ誰かと仕事の話を始めてしまうから、いつしかディアドラはお父様の姿を探そうともしなくなった。ジュリアスがお父様の仕事の一端を担うようになってからも今更それは変わらなくて。


 ――やっぱり、寂しかったのかな……?


 そうかもしれない、と今度は思う。きっとお父様のことだから、残された仕事を全部真っ当にやろうとしたんだろう。町の住民の様子を見る限り、それは成功して皆に感謝されているのもわかる。けれどそれは、ディアドラにとってだけは、歓迎できるものではなかったのかもしれない。


 もしシリクスという人が今も生きていて、お父様がもっとディアドラと関われていたら、この世界の未来はどうなっていたんだろう? 考えても仕方のないことだけれど、ゲームよりはずっと明るかったんじゃないだろうか?


「ま、しんみりした話はこれでしまいや! お嬢、他に教えて欲しい魔法はあるか?」


 カルラが突然上体をソファーから離して私を見る。


 少し考えてから、土人形の魔法陣のページを教えてもらうことにした。


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