不可視の言霊

四音 早野

不可視の言霊

 この世には悪と卑怯しか蔓延らなくなってしまった。

 止まらない殺人事件。終わらない強盗、恐喝、脅迫。児童、老人、女性を中心とした弱者への暴力。鳴り止まないパトカーのサイレン。

 耳を澄ませば聞こえてくる誰かの悲鳴。

 ……それも全部、あの地震のせいだ。と、彼は思った。実際にそれが起こった日から明らかに全てが変わってしまったからだ。

 首都直下型大地震。

 前々から危惧されていたものより遥かに凌ぐもので、それはついに去年起こってしまったのだ。死者数はおよそ数百万人、重軽傷者数合わせて五千万人超。危惧されていたものの、多くの生命が苦しむことになった。しかし、それよりももっと最悪な状況になってしまった。

 通称『心の荒廃』と呼ばれる、質の悪い神経性疾患。心因性であることには変わりが無いが、治療は不可逆的であり、簡単に言えば復興が永遠に終わらない、むしろ徐々に崩れていく建造物のようなものである。実際、建造物は復興が少しずつだが進んでいる。しかし、人々の心はなかなか立ち直らなかった。

 立ち直らないだけならまだしも、その心の荒廃が進行した人はやがて、様々な事件を起こし始めたのだ。最初は小さなものから、最近は爆弾テロや誘拐なども出てきた。そのせいで今なお希望を持ち続けている人までも、その被害により心の荒廃に囚われてしまうのだ。


「…………で」


 そこで彼は進めていた足を止めた。


「何でたかだかジュースを買いに出ただけなのに、こんなことになるんだかな」


 そう。家から出なければ良かったのだ。水道水は通っているのだから。昼食時に飲み物がないことに気づき、近くの自販機でジュースでも買おうと歩いていた矢先である。

 彼の目の前には値踏みするかのように彼を見つめ、歪んだ笑みを浮かべる小悪党そうな出で立ちの三人の男。


「よう兄ちゃん、ちょっと金恵んでくんない?」


 男の一人がまさに小悪党代表な台詞を口にすると、他の二人も口を挟んできた。


「ホント金無いんだよね、ほら地震のせいでさー」

「そうそう俺ら難民。食うもん何もないんだわ、金も無いけど。駄菓子も買えないんだぜ?」

「じゃあこれでチョコでも買ってください。仲良く分けてくださいね」


 彼は五円玉一枚を男の手に握らせた。そして後ろを向いて足早にその場を立ち去ろうとする。


「五円チョコしか買えねぇじゃねぇか!それを三人で分けるとか鬼畜か!?そうじゃねぇよ有り金全部寄越せって話だろうが馬鹿!早く金出せ!!」


 結局そういう展開になるんじゃないかと思いつつ、彼は一気に駆け出し角を曲がろうとした。だが、その前に


 背中から、衝撃が




 














 目を覚ませば、見知らぬ天井が彼の目に映った。生活感があまり無いが、必要最低限のものは揃っている。そんな印象の部屋だった。しかし、ローテーブルの先のデスクにはティファールの電気ポッドが異様に主張しているのが目に付いた。


「よく眠れたみたいね」


 突き放すような口調の鋭い声が聞こえた。やや低い、若い女の声だ。不機嫌なのだろうか。声のするほうに目を向けると、頬杖をつきながら事務用の椅子に足を組みながら座っている女がいた。

 声は確かに彼のほうへ向けたようだが、視線は彼のほうへ向かうことなく机の上の手元に注がれている。


「名前は?」


 静かな部屋の中でひどく不遜に聞こえる問いではあるが、助けてくれた恩人の問いを無視するわけにもいかないので、彼は名乗った。


鹿禅ろくぜんゆずる……です」

「また仰々しい名前ね」

「よく言われます」


 鹿禅は体を起こして、とりあえず礼を言うことにする。


「助けてくれてありがとうございました。えっと……お名前は?」

「そこの棚に名刺が入っているから取りなさい」

「あ、はい」


 立ち上がっても、何の痛みも感じず、やっぱりあの時の衝撃はへぼいタックルだったのかと思い、棚に向かう。デスクの横に備え付けられた棚の中から、大量に入っている紙片を一枚手に取り、見つめる。

 千船 海鈴≪Chihune Kairi≫

 そのおよそ名刺とはいえないペラペラの紙に書かれたものは、一つの名前だけだった。


「これは……」

「欲しいならあげるわよ」

「はぁ……」


 別段、取り立てて欲しいものではないし、連絡先も書いているわけではないのだが、そのまま元の場所に戻すのもなんだと思った鹿禅はその紙をぐしゃぐしゃにしないようズボンのポケットにしまい込んだ。


「海鈴さん、ありがとうございました」

「三日後」

「は?」

「三日後、またここに来なさい」

「どうしてです?」

「いいから。絶対に来なさい。死ぬわよ」


 その言葉を聞いて、ああこんな感じの上から目線な占い師が昔流行ったなぁ……。と、口に出さず思い出した。


「わかりました」


 目礼だけして、その場を立ち去った。

 最後の最後まで、ちゃんと顔を見れなかったなと思いながら、鹿禅は夕日が差し込む中、家路につく。今度はチンピラ等にも遭遇せず、無事に家の扉を開くことができた。

 建物だけは普通の住宅。ギリギリ地震による崩壊を免れたマンションである。その一室が、彼の住む部屋だ。

 しかし、住んでいるのは彼だけで、家族はいない。両親はおろか、親戚も地震に巻き込まれ、生き残っている者はほとんどいないのだ。

 鹿禅は元々一人暮らしのため、件の地震による電話回線の混乱が落ち着いた頃、ようやく片っ端から安否確認を行ったのだ。

 まずは実家だったが、誰も出ることはなかったため、急遽実家に帰り、鹿禅の実家は跡形もなく倒壊しているのを目の当たりにした。懇意にしていた近所の家族から自分の両親が亡くなっている事もその時知った。

 その家族も多少怪我の痕が見て取れたため、話を聞いてみると、家の外に避難はしたが、屋根の瓦や、看板、電柱なども倒れており、自分は割れたガラスの破片が当たったとのことだった。

 家の外にいてもこれだけの危険があるのに、家の中ならまず助からないだろうというのが、鹿禅の見解だった。


「譲君もよく無事だったね。怪我はしていないか?」

「俺はその時、ちょうど飛行機に乗っていたので。羽田に着いてようやく地震があったことを知りました」


 そう。彼はバイト先の先輩ともに旅行に行っていたため、地震があったことに気付いたのは滑走路の地割れを見てからだった。


「そう…」


 とりあえず119番へ通報し、状況を説明したところ、すぐに向かってくれるとのことだった。近隣家族とともに待っていたが、そこに登場したのが救急車ではなく霊柩車だったのは衝撃的な出来事としていまだに記憶に残っている。

 心の荒廃がすでに蔓延していたため、救急車もパトカーも消防車も足りないからという理由での霊柩車。笑いしか起こらなかったし、その笑っている彼を見て泣いていたのは、昔からの付き合いがあった家族だった。

 その後、両親の死亡届を出した鹿禅は一応ほかの親類にも連絡を取ったが、みな心の荒廃を発症しており、病院や刑務所に収容されていること。連絡した中で無事だったのは鹿禅のみということがわかった。

 そんなほぼ天涯孤独な状態になってから一年が経過したが、唯一の僥倖はいまだに鹿禅本人は心の荒廃にかかっていないということだ。しかし、いつ発症するかは不明なうえに、特効薬という明確なものはなく、発症を防ぐには強い自我だけという曖昧な方法しかない。つまり、時間の問題というわけだ。


「……寝よう」


 そう呟いて、彼は自室のベッドに寝転がり、眠りについた。

 特に事故にも見舞われず絡まれず無事に三日間が過ぎ、三日後鹿禅はなぜか普段働いているコンビニでバイト中だった。


「なあ、鹿禅この後暇か?」

「はい」

「飯食いに行かないか」

「ごちそうさまです」

「おでんのつゆ顔面に飛ばすぞ」

「すみませんでした。ぜひとも半分払わせてください」


 調子のいいことを言って、バイト先の先輩からおでんをすくう時に使うお玉を鹿禅に向けられる。様子からして、完全に海鈴との約束を忘れていた。


「じゃあ、先に上がります。いつものところでいいですか?」

「ああ。俺は後から行くから先に始めててくれ」

「わかりました。お疲れ様です」

「お疲れ」

 

 コンビニを出て、雨の降る中、待ち合わせの店に向かう。

 傘を持ってきて正解だったな。と鹿禅は傘を打つ雨の音を聴きながらそう思った。


 その時、心臓の脈打つ音が一層大きく聞こえ、

 全ての音が止まった。


 鹿禅の目がカッと開いて、少しずつ閉じる。半開きのまま瞳孔が開いたと同時にバシャッ!と音を立てて体が倒れた。

 意識が薄れ、冷たくなっていく体を全身で感じながら、鹿禅はゆっくり思考した。

 

 ―ああ、死ぬのか。俺は。あの人の言う通りだったな…あれ、あの人って誰だっけ…?


「……なに死んでるの」


 パシャ、とずぶぬれで泥だらけのジーンズが鹿禅の視覚と聴覚を遮断し、思考を遮った。頭の中で噂したら件の人物が来たことに、鹿禅は感覚で気づいた。


「だから来なさいと言ったでしょう」


 すみません。と言おうとしても、口が動かず声も出ない。

 その時、鹿禅の首が持ち上げられ、海鈴と強制的に目を合わせられた。

 海を思わせる深い蒼と鈴のような金の瞳。

 綺麗ですね、と言おうとしても、やはり声が出ず、しかし辛うじて口が動いた。だがそれは読唇術でも会得してない限りわからないような震えた動きだった。


「貴方は、生きているように見える」


 そう告げると、海鈴は静かに鹿禅の頭を地面に置いた。

 鹿禅の意識はそこで途切れる。


















 雨が盛大に顔や体を濡らしていく冷たさで、鹿禅は目覚めた。


「……寒い」

「寒そうね」


 ん?と顔を上に傾けると、海鈴がしゃがんで、鹿禅を見ていた。傘は、差していない。

 バッと鹿禅は飛び起きる。


「海鈴さんっ!びしょ濡れじゃないですか!」


 慌てて周りを見回す。どうやら自分の傘はどこかに行ってしまったと気づくと、鹿禅は立ち上がり、海鈴の手を引いて立ち上がらせる。


「とにかく雨をしのげる場所……近くに僕のバイト先のコンビニがあるんでそこに行きましょう」

「却下……え?」

「私と最初に会ったあのビルに戻って」

「なんで……?」

「いいから」


 鹿禅は逡巡し、手を引くと、海鈴と最初に会ったビルに向かった。


 ビルの中の海鈴の部屋は薄暗く、少し廃墟のようにも思わせる。

 海鈴はバスタオルを鹿禅に渡すと、自分もバスタオルでぬれた髪を拭き始めた。


「悪いけどうちに冷暖房はないから寒いのは我慢して。シャワーを貸す気はないわ、脱衣所がないから」

「あの……海鈴さん」

「何」

「俺……さっき死にかけていたはずですよね。なんでか」

「そうね」

「じゃあなんで生きているんですかね?」


 そう鹿禅が問いかけると、海鈴は何食わぬ顔で電気ポットを傾け、中身をコップに注ぐ。コーヒーの香りが部屋に漂い始めた。飲みたかったら自分で注ぎなさいと言わんばかりにポットを鹿禅のほうへ向けてテーブルの上に置かれた。


「貴方は三日前に死んだわ。死因は失血死。私が貴方を見つけた時には貴方の背中にナイフが深々と刺さっていて手遅れ。ちなみにその場所から引きずってきたのは私」

「あ……それはありがとうございます」

「驚かないの?」

「いや、驚いてますけど。確かに相手が三人もいたのに、あまりにも傷がなさすぎるなと思って」

「……ふぅん」


 もうひとつのカップに注がれたコーヒーが部屋の中の香りをさらに濃厚にさせる。雨で冷えた体には大層沁みる。口に含むと香ばしい匂いとそれに遜色ない苦みを感じながら鹿禅はじっと海鈴の顔を見つめた。


「今度は何」

「海鈴さんは一体何者なんですか」

「……発動条件は、私が対象を『認識』して対象に望む『言霊』を発すること。効果は三日間。私が認識した価値観以外のものには反応しない。価値観も覆らない。例えば努力もしていない人間が金持ちになるとか」

「え?」

「……魔法が使えるだけの、ただの人間」


 鹿禅は一瞬、時が止まったのかと思った。今、何世紀だっけとも。


「いるとは思わなかった?」

「……ええ。凄いです。もしかして修行したん、でしょう……か?あ、してないんですねすみませんごめんなさい夢見がちな24歳で」


 言った瞬間、海鈴からものすごい馬鹿でかわいそうな人間を見るようななんとも形容しがたい目線をいただいたので急遽発言を取り下げ謝り倒した鹿禅だった。


「貴方って思いのほか頭の中がお花畑なのね。……家系なのよ。そういう、魔術系の。……気味が悪い?」


 このオッドアイも。と、彼女は顔を伏せ、自身の片目に手を当てながら呟く。髪にかかったバスタオルも相まって重い雰囲気が海鈴を包み込む。顔を伏せた海鈴の前に暗い影を落とす。見上げた先にはやわらかい笑顔をたたえた鹿禅がいた。


「いいえ、綺麗です」


 かぶりを振ってから両目がよく見えるように、鹿禅はバスタオルを取り上げ、覗き込む。さっきよく見た、蒼と金。蒼は海のようにも見えるし、よく晴れた雲一つない8月の快晴を思わせた。

 金は荘厳な神社仏閣や、チャペルにあるような深い色の鈴だ。いや、神社仏閣は鐘か?だが宝石店で見るような純金よりも透き通って見えて現実感を遠くさせる。


「名前と一緒の色で、とても」


 そう告げると、海鈴は少しだけ微笑んだ気がした。小さく、気休めでもうれしいわ、と声が鹿禅の耳に入る。眉尻を下げ、鹿禅は海鈴に問うた。


「なんで俺を助けてくれたんですか」

「なんでって、」


「目の前に傷ついた人がいて助けないわけないでしょう。・・・・・・それとも助けてほしくなかったわけ?」


 その答えを聞いて、鹿禅は満足そうに笑みを浮かべる。その表情を見て海鈴は怪訝な顔をし、語気をやや強くしながら「今度は何」と告げる。


「海鈴さんの瞳は綺麗だ。それは僕の名に懸けて譲らない。でも世の中には目には見えない綺麗なものもあるんですよ」


 あなたの、心です。


 その日男は、とある魔法使いと契約をした。契約内容は冷暖房と脱衣所がある浴室がついた居住を提供すること。代わりに命尽きるまで男に命を与えること。そして生涯魔法使いと共にいることだという・・・・・・

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