第3話 優しい音色


「おいそこッ!! ピアニッシモだっつってんだろが!!」

「いーやここは絶対フォルテッシモだ!!」


 旧音楽室に男女の怒声が響き渡る。


 夏那を試験に合格させる事を決意したあの日、七海達は課題曲の分析から始めた。どうすれば自分らしく演奏できるのか、あーでもないこーでもないと言い合う。


 二ヶ月後に控えている実技試験は、ふつうの試験とちがい、自分の表現で演奏するというもの。つまり、楽器の扱いの良し悪しではなく、自身の理解力と想像力、創作力を評価される。ゆえに、性格の陰と陽な組み合わせの七海たちは、いままさに方向性の違いでかち合っていた。


「ここは作者が周りに理解してもらえず悲しみに暮れて弱ってるシーンだろうが!!」

「違うわアホ!! ここは作者が理解して貰えなくても先に進もうと前を向く所なんだよ!!」


 夏那はガルガル言いながら吠える。


 ここ数日、ふたりはずっとこんな感じで言い合いをしていた。夏那のピアノは七海が聴いてまぁ聴けるくらいの腕になってきたため、試験用の課題曲を目下、練習中だった。

 課題曲は有名な曲から音楽魔法のためだけに作られた曲など、様々な楽譜が用意されていた。その中からひとつを選び、まずは楽譜を読むことから始めている。しかし、ふたりは意見がことごとく食い違っていた。


「もーっこれじゃ試験に間に合わねーよ!」

「っそれはお前が俺に従わねーからだろ! 俺の言うこと聞けよ!!」


 言ってからしまったと思った。この言い方じゃ今までの自分と一緒だ。自分の口から出たセリフに唖然とした。


「……やめた」

「は?」


 夏那はいきなりそう言い切った。


 やめた? やめる? 何を?

 ――この練習を?


「おまえ、何言って……」

「今日はもうこの曲終わり。別のやろ。歌いたい!」


 そう言って夏那は机に散らばった楽譜を片付け始めた。七海はびっくりして、心臓の鼓動を早めていた。

 夏那のやめるという言葉にひどく動揺した自分がいたことに驚く。それと同時に、辞めるのがこの練習のことではないことに安堵した。


「七海、どした?顔色悪いぞ?」

「な、んでもねぇ」


 夏那は不思議そうに首を傾げながら、手に持った紙を机に広げる。紙を見ると、それは七海が初めて見る楽譜だった。


「んだこれ、見たことねぇ楽譜だ」

「そりゃあこれは私が作った曲だからな!」

「お前、楽譜読めねぇのに曲つくれんのか?」

「読めないんじゃない、苦手なだけなのだよ七海クン」


 七海は夏那に気づかれないように息を吐いた。


(良かった。いつも通りの会話だ)


 夏那はさっきの七海の傲慢ともとれる発言を全く気にしてないようだ。

 

 改めて夏那の作ったという曲の楽譜を見る。音符の書かれた手書きの五線譜の下には歌詞が書かれている。曲名は空欄。何も書いていない。


「それなぁ、歌詞もメロディーもすぐ浮かんだのに名前だけはどうしても今思い付かなくてさぁ」

「そうなのか」

「そーなの! そいで、七海ピアノ弾いて!!」

「なんで俺が、」

「私が七海のピアノ好きだから!!」


 七海は言葉に詰まった。夏那は恥ずかしげもなく七海へ賞賛と好意を向けて来る。今だって酷い事を言った七海に対してこんなにも素直に"好き"が言える。結局は七海が折れて夏那に尽くすのがここ最近の流れになっていた。


「一回だけだぞ。このあとちゃんと練習するからな」

「おう、わかってるって」


 夏那はニヒヒと満面の笑みを向けた。七海は彼女の顔を見て、俺はこいつの笑った顔に弱いのかもしれないと密かに思った。


 楽譜をさっと流し見て曲のイメージを思い浮かべる。音楽魔法はイメージが重要だ。演奏者の感情に音が引っ張られる。故に、どんな曲なのかをしっかり掴む。


「……いける」

「ん!」


 七海は夏那に合図を送り、ピアノを弾く。


 夏那の歌声が辺りに満ち、ピアノの音と重なる。七海のピアノの音に寄り添うように、優しく手を引かれる様に、メロディーが流れていく。


 もっと弾いていたい、もっと聞いていたい。今までに無い高揚感と酩酊感が七海を支配する。誰とも音を合わせる事がなくなった七海の音を、夏那は歌声で引っ張り上げてくれる。


 夏那の作った曲は春の様に温かで、無性に泣きたくなる様な、ひどく優しい曲だった。


 夏那は七海にとってすごい奴だった。他人の心にこんなにも刺さる音色を簡単に出せてしまう。そして、やっぱり七海は、楽器が弾けないだけで夏那を否定する奴らが許せなかった。それと同時に、可哀想に思う。


 夏那はこんなにすごい奴なのに。

 夏那の歌声を聞いたことが無いなんて。

 なんて可哀想な奴らだ。


 七海はもっと弾いていたかったが、曲は無情にも終わりをむかえる。

 弾き終わったあとの、あの酩酊感の余韻に浸る。夏那との二重奏は七海の足りないものを埋めてくれる。それはまるで、今まで欠けていたパズルのピースがかっちりはまった様な感じがしていた。

 七海は、誰にも合わせる事が出来なかったのは、夏那を探していたからかもしれないと本気で思った。


「なんか、すげーな」

「おう……」

「私、もう七海としか二重奏できなくなりそう。絶対他の奴じゃ満足できない……」

「………っ!!」


 彼女の賞賛はたまに暴力だ。七海は赤くなった顔を背けながら夏那をぶっ叩いた。

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