日無怪奇譚

@hinagiku7ruri

あなたを忘れない

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小学校を卒業してから三年が経った。

卒業とともに隣町の明里へと引っ越したので、中学校でも一緒という人は誰もいなかった。

当時のクラスメイトとは結局一度も再会することなく、私は高校生になった。

昔から人の輪に入っていくのが苦手だったけれど、幸い小学生の頃も少しだけ友達を作ることができた。

ただ、いくら友達でも、長い間会えなければだんだんとその記憶の輪郭がぼやけてくる。

写真でも見ないかぎり、その人の顔も、声も、思い出も、正確に思い出せなくなっていく。

最後に会ってから三年。

あの頃の友達も、クラスメイトも、少しだけその記憶の輪郭がぼやけてしまっていた。

でも、その中で一人だけ。

写真を見なくても鮮明に思い出せる人がいる。


1


木々に囲まれた石畳の道を歩いていた。

進む先には木でできた鳥居。

辺りの木がザワザワと風でざわめいている。

近くでしている筈の音がなんだか妙に遠く聞こえる気がして、心の中でぼんやりと首を傾げた。

・・・・・・なんでだろう・・・・・・?

そう思っているうちに鳥居を潜(くぐ)り、私は我に返った。


・・・・・・あれっ!?

ここ・・・・・・どこ・・・・・・!?

なにがなんだか分からなくて、思わず私は辺りをキョロキョロとしてしまう。

全く見覚えのない場所。

しかも、どうしてここにいるのか思い出せない。

かろうじて思い出せるのは、鳥居を潜(くぐ)る直前のことだけ。

ただ、その前に何をしていたのかははっきりと覚えている。

私は今日、どうしても隣町の暮森(くれもり)に行きたい理由があって、今住んでいる明里(あけさと)の町から向かっていた。その理由もしっかり頭にある。

けれども、その後からここに至るまでの経緯を、どうやっても思い出せそうになかった。

とりあえず・・・・・・ここがどこか確認しなきゃ・・・・・・。

私は現在地を調べるために携帯を取り出した。

・・・・・・画面がつかない。

電池が切れたのか、どれだけ電源ボタンを押しても、まるで反応しない。

こんな時に・・・・・・。

泣きそうになりながら、鳥居の方を見る。

鳥居を潜(くぐ)ったってことは、そちらから来たはずなのに、直前の記憶しかないせいで、全然実感がない。もう一度鳥居を潜って戻ったとしても、知っている場所に出られないかもしれない。そう思うと、なんだか戻る気になれない。

反対側を見る。

この先は開けているみたいで、建物らしきものも見えた。鳥居があるってことは、ここは神社なんだろうか。

誰かいたら、ここがどこなのか教えてもらえるかもしれない。そうしたら、知っている場所まで戻ることもできる。

私はこのまま石畳の道を進むことにした。


少し進むと開けた場所に出た。

石畳の先にはお参りできる建物があるので、ここは神社で間違いなさそうだった。

境内はしんと静まりかえっていて、あちこちに木や花が植えられているためか、空気も町中よりずっと澄んでいると感じる。さらに、まるで神社の奥を目指すように少しずつ降りてきた太陽が、私の正面から境内を紅く染め上げているのもあって、すごく神々しい雰囲気の場所だと思った。

なんだか緊張してしまう。

音を立てたら怒られそうな気がしたので、私はなるべく静かに境内を進んだ。

境内にはお花や木がたくさん植えられていて、綺麗にお手入れされている。

お参りできる建物を迂回して敷地の奥に進むと、大きな花壇があった。

そしてそこには、深い青色の日傘をさして、お花のお手入れをしている人がいた。お手入れのためにしゃがんでいて、日傘の陰で隠れてしまっているため、その人の顔や体格まではよく見えない。

私は日傘の持ち主に近づき、声をかけた。


「あの・・・・・・」

「・・・・・・」


日傘の持ち主がこちらを向く。

持ち上がった日傘の下から、綺麗な白い髪と眠たげな目が覗いた。

私と同じ年頃の女の子。

袴が紺色の珍しい巫女装束を着ている。

女の子は私の姿を確認すると、白いお花の髪飾りを揺らして立ち上がった。


「・・・・・・何だよお前。迷子か?」


ま、迷子・・・・・・。

可愛らしく落ち着いた声でそう問われ、私は思わず項垂れそうになる。

でも、確かにその通りだった。

私は女の子に頷いて事情を説明する。


「私、明里(あけさと)の町から暮森(くれもり)に向かってたはずなんですけど、気がついたらここに・・・・・・」

「そうかい。でもまあ、安心しろ。ここはその暮森で、町外れにある日無神社(ひなじんじゃ)だ」

「日無神社・・・・・・!?」


ここが日無神社だと聞いて、私は愕然とした。

日無神社は暮森の町外れにある神社で、暮森や明里に住む人たちの間で広く知られている。

ただ、その日無神社の位置が私を混乱させていた。


「えっ、でも日無神社って明里と反対側じゃ・・・・・・!?」

「そうだな。あと、『どうしてここに?』って聞かれても、私は知らないからな。お前が勝手に来たんだし」


つい聞こうと思ってしまったことを先にばっさりと切られて、私は項垂れた。


「そうなんですけど、私にも本当に分からなくて・・・・・・」

「思い出したいなら、後で勝手にやってくれ」


どうして私は日無神社にいるのか。

今は何も分からなくても、女の子の言う通り、後で何か思い出せるかもしれない。

目的が果たせたら、その後でゆっくり思い出そう・・・・・・。

項垂れながらそう思っていると、女の子が引き続き口を開いた。


「それよりも、暮森に来た目的はちゃんと覚えてるんだろうな?」

「は、はい。それはしっかり覚えてます」


女の子の思いがけない言葉に、私はパッと顔を上げた。

それだけは、何があっても忘れない。


「私は・・・・・・どうしてももう一度会いたい人がいて、この暮森の町に向かっていたので・・・・・・」

「・・・・・・そいつに会える当てはあるのか?」


私が目的を話すと、女の子はわずかに考える素振りを見せ、私に尋ねた。

痛いところを突かれて、私はうっと唸りそうになる。


「それは・・・・・・正直どうしようかと・・・・・・」


目的ばかりに気がいって、そのあたりのことは深く考えてなかった。

情けないと思いながら、私は正直に伝えた。


「そうだろうな」

「えっ?」


女の子の反応は呆れたものではなくて、どこか神妙なものだった。

あまりにも意外な反応に、思わず声が漏れた。


「だからって、このままここに居られても迷惑だしな」


率直にそう言われて、私はまた項垂れそうになった。

けれど、そんな私に構わず、女の子はそのまま言葉を付け足した。


「なんか分かるかもしれないし、もう少し詳しく話してみろ」

「・・・・・・! は、はい。ありがとうございます」


「出ていけ」と言われるものだと思っていた私は、一瞬反応が遅れてしまった。

しかし、それからすぐに言われたことを理解する。

少し遅れてお礼を言うと、女の子はやれやれと息をついた。


私が女の子に”吉野“と名乗ると、女の子も“雨夜(あまや)”と名乗った。

雨夜さんに私は、暮森(くれもり)へやって来た目的をあらためて簡潔に話した。

元々は暮森に住んでいて、小学校卒業とともに隣町の明里(あけさと)へ引っ越したこと。そして、それから三年が経った今でも、忘れられない人がいることを。


「それが、小学六年の頃のクラスメイトってわけか」

「はい」


雨夜さんの確認に頷く。

話の間、雨夜さんは静かに耳を傾けてくれていた。


「どんなやつだ?」


会いたいと願う、その人のことを思い浮かべる。


「優しい男の子でした。困っている人がいたら、いつの間にかやってきて、そっと助けてくれるような。そもそも、誰も困らないようにいつも気を配ってくれてましたし」


一番に思い浮かぶのは、男の子の優しい笑顔。

男の子の笑顔には、その優しい人柄が表れていた。


「随分と親切なやつだな」


呆れ半分、感心半分な様子の雨夜さんに再び頷く。

その男の子は確かに、半ば呆れられてもおかしくないほどに優しかった。


「本当に・・・・・・優しくて、思い出すと・・・・・・泣きたくなるくらい・・・・・・」


男の子のことを思い返すたびに胸が温かくなる。

温かくなりすぎて、今みたいに涙が溢れそうになることもあるけれど。

泣きそうなった私に、雨夜さんは何か言おうとして、なぜか固まった。


「・・・・・・で、そいつの特徴は?」


でも、すぐに元の調子に戻り、再び男の子について私に尋ねた。

なんだったんだろうと思いながら、私は当時の男の子の姿を思い返す。


「えっと・・・・・・背はちょっと小柄で、顔も声も男の子と思えないくらい可愛らしくて、一目見ただけで優しいのが分かるような子でした」

「・・・・・・」

「三年前の話なので、今は違うかもしれませんが・・・・・・」


男の子の特徴は今でもはっきりと覚えている。

けれど、最後に会ってから三年。男の子は声変わりするし、背だってよく伸びる年頃。

あの頃と特徴が大きく変わっていたら、会いたい人だって分からないかもしれない。

そんなことを思い、不安になっていると、雨夜さんが口を開いた。


「・・・・・・ああ、それなら安心しろ」


思いがけない言葉だった。

ただの励ましじゃなく、何か根拠があるような一言。

私は思わず「えっ?」と聞き返した。


「その男子の名前、“鏑木ユキ”だろ?」

「・・・・・・!?」


驚きすぎて言葉が出ない。

雨夜さんが口にしたのは、紛れもなく私がどうしても会いたい男の子の名前。

何度も必死に頷いていると、やっと声が出るようになった。


「そ、そうです! でも、どうして・・・・・・!?」

「私もよく知ってるやつだからな」


雨夜さんの答えは、またしても思いがけないものだった。

さっきから驚き続けているせいでだんだん頭が働かなくなってきた。

けど、鏑木君をよく知っているってことは・・・・・・!


「あの・・・・・・! どこに行ったら、鏑木君に会えますか・・・・・・!? 私・・・・・・どうしても、もう一度鏑木君にお礼を言いたいんです!」

「お礼?」


「まずは落ち着け」と雨夜さんから冷静に言われ、頭を冷やす。

そこでやっと、自分が雨夜さんの肩を掴みそうな勢いだったことに気がついた。

そうだ、まずは落ち着いて話をしないと・・・・・・。

続きを話す前に、私はひとつ息をついた。


2


春が終わりを迎えようとしていた時期のある日。

私は授業中に体調を崩してしまった。

その日の朝、なんとなく体調がすっきりしない気がしたものの、それ以上は特に気にすることもなく家を出た。

なんだか気分が悪い。

そう思い始めたのは、一時間目の授業が始まった頃。

二時間目、三時間目と時間が経つにつれて体がだるくなり、だんだんとノートを取るのがしんどくなってくる。

そして、四時間目が始まった頃にはもう席に着いているのも辛くなっていた。

我慢せずに保健室へ行けばよかった・・・・・・。

そんなふうに後悔していると、鏑木君が手を上げて先生に声をかけた。

「どうした?」と尋ねる先生に、鏑木君は、私の体調が悪そうなので保健室に連れて行きたいと伝えた。

先生が驚いた顔でこちらを見る。

私もこの一瞬だけ気分の悪さを忘れて、先生と同じ顔をしていたに違いない。

鏑木君は一番前の席で、私の席はその三席後ろだった。

鏑木君は一度も後ろを向いていない。

なのに、どうして私の状態が分かったんだろう。

すぐに先生が私のもとにやってくる。

私の体調を確認すると、先生はそのまま鏑木君に私を連れて行くように頼んだ。

鏑木君は「はい」と頷くと、私の元へやってきて、私の身体を支えてくれた。

教室を出る前、保健委員の子が首を傾げていたのが少しだけ印象に残っている。

鏑木君、一番前にいるのに、なんでいつも後ろの子の体調が分かるんだろう。

あの時、保健委員の子はそう思っていたに違いない。

私も不思議でならなかった。


教室を出た後、最初は鏑木君に支えられて歩けていた。

しかし、その間にも体調は悪くなり、すぐに動くことすらままならなくなった。

もう動けない。

そう思うよりも先に、鏑木君が私を背負ってくれた。

鏑木君の動きが先ほどまでと比べ物にならないくらい速くなる。

けれども、私の身体は全く揺れない。

急いでいても、背負われた私が揺れないように気を配ってくれているのが分かって、涙が出そうになった。


そこから保健室まではあっという間だった。

鏑木君が私を背負ったまま扉をノックする。「どうぞ」と聞こえたので中へ入ると、保健室の先生がこちらを見た。

保健室の先生はすぐに状況を察して、鏑木君に私をベッドまで運ぶように促す。

私は安心して気を緩めてしまった。

吐き気が一気に込み上げてくる。

しまった・・・・・・と思った時にはもう遅かった。

なんとか堪えようとしたけれど、どうにもならなかった。

私はその場で嘔吐してしまった。

吐き気が収まった後、呆然としてしまう。

でも・・・・・・すぐに、私がたった今何をしてしまったのかを自覚した。

目の前には、洗面器を持ったまま暗い顔をしている保健室の先生。

さらに目の前には、私を背負ったまま、私の吐いたもので汚れてしまっている鏑木君。

私は鏑木君に背負われたまま嘔吐してしまっていた。

自覚した瞬間、頭の中が真っ白になった。


「大丈夫?」


謝る言葉さえ上手く口に出せない。

そんな私に、鏑木君がひどく心配した様子で尋ねた。

鏑木君の服も頭も私のせいで汚れてしまっている。

けれど、鏑木君は気にも留めていないようだった。

保健室のベッドに降ろしてもらった後、私はなんとか頷いた。


「すぐに降ろしてあげられなくて、ごめんね」


すると、鏑木君は本当に申し訳なさそうに言った。

保健室の先生がタオルを持ってくると、鏑木君はそれを手に取って、私の汚れた口元をそっと拭った。

さらには、私の汚れた服を心配している。

しかし、保健室の先生から「後は私に任せておけ」と言われると、鏑木君は安心したように笑った。

そこで私はついに泣いてしまった。

鏑木君は一瞬慌てていたけど、すぐに「大丈夫だよ」と優しく声をかけてくれた。

私は謝ってお礼を言おうとしたけれど、ぼろぼろと泣いているせいで、なかなか言葉にならない。

それでもどうにか謝ってお礼を言うと、鏑木君は優しく穏やかに頷いた。

そして、私が吐いて汚した場所を瞬く間に掃除すると、そのまま保健室を後にした。

鏑木君に謝ることはできたものの、それでもやっぱりあまりに申し訳ない気持ちになる。

また泣いてしまいそうになっていると、保健室の先生が見かねたように口を開いた。


「鏑木に申し訳なく思うなら、しっかり休んで元気になれ」


その方が鏑木も喜ぶ、と。

鏑木君は私が嘔吐したせいで汚れてしまったのに、結局最後まで気にせず、私のことを心配してくれていた。

だからきっと、先生の言う通りだ。

この後、私は学校を早退して、鏑木君と保健室の先生に感謝しながらゆっくりと家で休んだ。

幸い、次の日には体調が良くなっていた。

鏑木君が喜んでくれるだろうか。

そう思いながら登校すると、教室にはすでに鏑木君の姿があった。

教室に入ると鏑木君がこちらを向いた。

そして、元気になった私を見て、鏑木君は嬉しそうに微笑んだ。


3


あの時のことはこの先もずっと忘れない。

忘れたくない。

散々迷惑かけたのに、鏑木君が優しすぎて、最後にはぼろぼろと泣いてしまった。

情けなくて。けれども、どうしようないほど温かくて。

話しているうちに、あの時の気持ちまで鮮明に蘇ってくる。


「見事に平常運転だな」


最後まで話を聞き終えると、雨夜さんは軽く息をつきながら穏やかに笑った。

はい、と頷く。

雨夜さんの言う通り、鏑木君はこんな風にいつもみんなに優しかった。

こうして平常運転だって言われるくらいに、鏑木君にとってはきっと普通のことなんだろう。

でも、こうやって思い返す度に、私は涙が出そうになる。


「それで、もう一度ユキにお礼言いたいっていうのは、このことか」

「そのことも含めて、鏑木君には何度も助けてもらったので・・・・・・」

「じゃあ、ユキとは結構交流あったのか?」

「いえ・・・・・・数えるほどしか・・・・・・」


それに、その機会のほとんどが、鏑木君が私を助けてくれた時に訪れたもの。

もっと、鏑木君といろんな話をしてみたかった。

だけど、臆病な私は、結局自分から鏑木君とあまり話せなかった。

いつか・・・・・・。

そう思っていたら、隣町の明里(あけさと)へ引っ越すことになった。

『いつか』は、私にはやってこなかった。

雨夜さんは「そうだろうな」と静かに返し、さらに続ける。


「『いつか』っていうのは、そう思ってるだけじゃやってこないからな」

「はい・・・・・・そんな当たり前のことを思い知りました」


呆れることも、蔑むこともなく、雨夜さんはただ冷静に事実を告げる。

当たり前のことなのに、その時まで実感が持てなかった。私はそう頷く。


最後くらい、ちゃんと挨拶したかった。

ありがとうって、もう一度言いたかった。

今でも、鏑木君のことを思い返す度に後悔している。

悔やんだってもう遅い。

私にはもう二度と『いつか』はやってこない。


「引っ越した後、私はそんな思いに捕らわれて、結局何もしなかったんです」


今思えば、理由をつけて諦めていただけ。


「・・・・・・なら、なんで今、ユキに会いに来た?」


雨夜さんがじっと私を見つめながら尋ねる。

自分でちゃんと分かっているのか?

純粋な疑問じゃなく、そう問われている気がした。

雨夜さんの意図は分からない。

それでも、正直に答えた。


「自分でも今更だって思います。それでも・・・・・・なぜか、今行かなかったらもう二度と叶わない気がしたんです」


どうしてなのか分からない。

けれども、そのことが確信のように頭にあった。


「それで、居ても立っても居られなくなったわけか」

「はい・・・・・・」


私が頷くと、雨夜さんはそれ以上何も言わなかった。

自分でも漠然とした理由だと思う。

それでも、雨夜さんは納得したみたいだった。


だんだんと辺りが薄暗くなってきた。

空を見る。

雨夜さんの背後で、お日様が空を赤く染めながら山の向こうへその姿を消そうとしていた。

もうすぐ、私の背後から夜がやってくる。


「はあ・・・・・・やっと夜が来たか」


お日様が完全に沈んだ後、雨夜さんがはやれやれと息をつきながら日傘を閉じた。

さっきまで眠たげな表情で、ひどく気怠そうだったのに、お日様が沈んだ途端、まるで何かから解放されたように、どこか生き生きとした様子になっている。


「・・・・・・夜、好きなんですか?」

「ああ。好きだし、夜型だからな。あと、日の光が体に合わないんだよ」


空が明るいうちは、地獄にいるような気分になる。

お日様が沈んだ場所を睨みながら、雨夜さんはそう苦々しく言った。

夜が来るまで日傘をさしていたし、何か日の光に当たれない事情があるのかもしれない。

ただ、夜が好きだっていう気持ちなら、私にも分かった。


「私も、夜が好きです」


小学生の頃は、夜が苦手だった。

幽霊とか、お化けとか、そういう恐ろしいものに出逢ったら・・・・・・って思うと、怖くてしょうがなかった。

怖いのは正直今でも変わらない。

そんな私が、いつの間にか夜の訪れを心の片隅で待ち望むようになっていた。

そのことに気がついたのは、中学生になってからしばらく経ってからのことだった。


「最初はどうしてか分からなかったんですけど、今はもうその理由が分かります」

「・・・・・・それも、ユキが関係してるのか?」


雨夜さんに尋ねられて、頷く。


「もう一つ、どうしても忘れたくない出来事があるんです」


それは、私の中で鏑木君を鮮明にしている、もう一つの出来事。

決して夜とは切り離せない。鏑木君自身がそうであるように。

だから私は、夜の訪れを待ち望んでいる。

夜が来ればまた、鏑木君に会える気がして。

保健室に連れて行ってくれた時よりもずっと・・・・・・泣きたくなるほどに優しい、あの夜の鏑木君に。


4


私が鏑木君に保健室へ連れて行ってもらった日から、一ヶ月と少し経った。


「うわっ、なんかテントがぐらついてる!」

「おっと。今のうちに左側のペグを斜めに打ち直して」

「お、おうっ」

「タマネギが上手く切れない・・・・・・」

「皮を剥いたら、縦半分に切って、芯を取って、さっき半分に切った面を下にして——」

「鏑木! ジャガイモの皮剥くの手伝ってくれ!」

「はい、できたよ」

「早っ!?」


テントを張ったり、外で夕御飯のカレーライスを作ったりするのはやっぱりちょっと難しかった記憶がある。

それでも、鏑木君が丁寧に教えてくれたので、みんなで楽しくできた。

野外学習中は基本的に同じクラスで五、六人の班を作り、活動していた。

隣のクラスと合わせて、全部で十班。

鏑木君は全部の班へ手伝いに行っていた。

みんなで夕御飯を食べていると、徐々に空が暗くなっていった。

巨大な焚き火が辺りを照らしだした。

そして、その日最後のイベントの時間がやってきた。


その日の夜は肝試しをすることになっていた。

男の子と女の子で組になり、決められたコースを通って、その途中に用意された景品を持って帰ってくるというものだった。

肝試し・・・・・・怖いよ・・・・・・。

誰と一緒になるんだろう・・・・・・。

せめて、鏑木君と一緒だったらいいのに・・・・・・。

そう思って、つい鏑木君の方を見た。

鏑木君は珍しく浮かない顔をしている。

ひょっとして、鏑木君も怖いのかな?

そんなことを思っていると、鏑木君の側にいた子が同じことを尋ねた。


「鏑木君、ひょっとして怖いの?」「・・・・・・ある意味。肝試しで僕と一緒になったら迷惑かけるだろうし・・・・・・」


鏑木君は困ったように笑って頷いた後、本当に申し訳なさそうに答えた。

側にいた子は首を傾げた。

鏑木君が誰かに迷惑かけるところを上手く想像できない。

なんでそう思うんだろう?

この時はまだ、その理由が分からなかった。


「・・・・・・やった! 綾乃君!」

「あっ、いいなあ」

「やばい・・・・・・俺、誰と一緒になるだろ・・・・・・?」

「ドキドキするよなー」


肝試しの組は女の子が出席番号順にくじをひく形で決められた。

私より先にくじを引いた子たちが喜んだり不満そうにしていたりする。

男の子たちは女の子がくじを引くのをどこかそわそわしたように見守っている。

やがて、私の番がやってきた。

どうか、鏑木君と一緒になれますように・・・・・・!

そう祈りながらくじを引く。

すると、そこには鏑木君の名前が書かれていた。

嬉しいのとホッとしたのとで少しだけ涙が出そうになった。


「あっ、鏑木君と一緒になったの!?」

「吉野さん、いいなあ」

「鏑木君と一緒かあ。羨ましい・・・・・・」


何人かの女の子となぜか男の子が羨ましそうにしている。

女の子はともかく、なんで男の子まで羨ましそうなんだろう。


「あの・・・・・・鏑木君、私たち、一緒の組になったよ」

「うん。よろしくね、吉野さん」


私が鏑木君に同じ組になったことを伝えると、鏑木君は穏やかに笑った。

肝試しの順番もくじを引いて決まった。

私たちの組は最後になった。

組と順番がすべて決まった後、送り出す役の先生だけが残り、脅かし役の先生たちは次々とその場を後にした。


しばらくすると、肝試しが始まった。


「よ、よし、行くか」

「う、うん」


送り出す役の先生に最初の組から順番に送り出され、その場を後にしていく。

その後、出発した組は遅くてもだいたい10分ほど、早ければ5分ほどで戻ってきた。


「いや、なんだよあれ。めちゃくちゃびっくりしたんだけど」

「怖かったよね・・・・・・」

「でも、景品があるところまで行っちゃえば安心だよね」

「あそこからはさすがに楽勝だろ」


戻ってきた組の話によると、前半は先生たちによる仕掛けもあって、やっぱり怖いみたいだった。

ただ、景品がある場所から先は明かりなども用意してあって、そこまで行くともう安心できるらしい。

あまり怖くないと思うかもしれないけど、私はそれでも不安だった。

先の組がまた一組、一組と出発し、やがて私たちの番が来た。


「じゃあ、行こうか」


隣にいた鏑木君が、私の方を向いて穏やかに言った。

いつも通りの穏やかな声と表情。

これから肝試しに行くとは思えない。

私までこれから行くのは肝試しだというのを一瞬だけ忘れそうになった。


「・・・・・・うん」


鏑木君に頷いた後、私たちは並んで歩き出した。


5


暗い林の中の道を歩いていた。

林の中からは虫や夜鳥の声がたくさん聞こえてくる。

人がよく歩いてそうな道だったのであまりデコボコしてないけれど、暗いので気を抜くとたまにある石や窪みで転ぶかもしれない。

しっかりと道を懐中電灯で照らしながら歩いた。

こういう時、手元に明かりがあるとちょっとだけ気持ちが楽になる。

なにより今は、鏑木君が側にいる。

私は歩くのが遅い方だった。

反対に鏑木君は歩くのが速い・・・・・・というかすごく滑らかで、気を抜くとすぐに見失ってしまう。

それなのに鏑木君は私に合わせて歩いてくれている。

鏑木君は時々夜の空を見て、表情を緩ませていた。

その日は、月に雲がかかり、ぼんやりとしかその姿を見られない。

星も隠れてしまっているのか、ほとんど光が見当たらない。

静かな夜空だった。


「こういう道を歩くのには、ちょっと向いてないかも」


私がつられて空を見ていると、鏑木君が穏やかに微笑みながら言った。

本当にただ夜空を楽しみながら散歩しているみたいだった。

私も、肝試ししていることを忘れそうになる。

肝試しが始まる前はあんなに怖かったのに。

・・・・・・そういえば、鏑木君はなんで浮かない顔をしていたんだろう。

鏑木君は何が怖かったのか、どうして迷惑をかけると思っていたのか、余計に分からなくなった。

聞いてみたい・・・・・・と思って鏑木君を見た時、その奥で何かが揺らめくのが見えた。

「ひっ・・・・・・!?」と私が悲鳴を上げる間もなく、何かが一瞬近くの木の辺りで揺らめいたかと思うと・・・・・・。


ぺチャッ。


湿った音が鏑木君の側で短く響いた。


「ひっ」


私は思わず小さく悲鳴を上げてしまった。

鏑木君が手元を見る。

一瞬呆気に取られたような表情になった後、そのまま鏑木君は穏やかに苦笑した。


「今の・・・・・・何の音だったの・・・・・・?」

「これだよ」


私は何の音だったのか恐る恐る鏑木君に尋ねると、鏑木君は穏やかに苦笑したまま手に持っている物を見せてくれた。

・・・・・・こんにゃく?

さらによく見てみると、糸のようなものが繋がっていて、近くの木の上まで続いていた。

これって・・・・・・。

そう思っていると、糸の先から釣り竿を持った脅かし役の先生が姿を見せた。


「よく捕れたな・・・・・・」


こんにゃくを返した鏑木君に、脅かし役の先生は呆れたように言った。

話によると、先生は気づいた様子のない鏑木君に狙いを絞って釣り竿のこんにゃくを素早く揺らして当てようとした。

でも、当たる前に鏑木君がこんにゃくを掴み取ったらしい。


「でも・・・・・・肝試しって本当にこんにゃく使ったりするんですね・・・・・・」


感心半分、驚き半分な私の感想に先生が苦笑する。


「自分でも『今時こんなのほんとにやってるやついないし、これで驚くやつもいないだろ』って思ってたけど、これが案外成功したんだよなあ。鏑木には見事に完敗したけど」


先生の言葉に、鏑木君は困ったように笑った。


「ま、気をつけて行けよ」


先生に見送られながら、私たちはその場を後にした。


この先でも他の先生たちから脅かされた。

次のところでは、突然ヒュードロドロと不気味な音が聞こえてきたかと思うと、木陰からおかめのお面を被った先生が勢いよく飛び出してきた。


「ナットォーーーーーーー!!」

「ひいっ!?」

「・・・・・・」

「・・・・・・」


音が聞こえてきた時点で怖がっていた私。

音がする辺りから、飛び出してきた先生の方へと静かに視線を移し、何故かきょとんとしている鏑木君。

両極端な反応に固まる先生。


「・・・・・・おかめのお面ってなんか怖くない?」

「暗いところで見ると不気味ですよね」


思わず尋ねる先生に、鏑木君は申し訳なさそうに笑いながら返していた。


さらに次のところでは、なぜか道の真ん中に古いテレビが置いてあって、これに気を取られているうちに、後ろから髪の長い女の人の幽霊の格好をした先生がそっと忍びよってきた。


「ひやあああああああっ!!」

「・・・・・・」


テレビに気を取られていた分、驚きが大きかったために、悲鳴を上げて鏑木君の陰に隠れる私。

鏑木君はやっぱりテレビから先生に視線を移しただけだった。


「・・・・・・」


何も言わずに迫真の演技を続ける先生。

さすがの私も先生だと分かって、だんだん怖さが薄れていく。

やがて先生が静かに項垂れた。

鏑木君はまた申し訳なさそうに笑っていた。


先生たちが出てこなくなった頃、鏑木君はどことなくしんみりした様子だった。

先生たちに脅かされても全然怖がらずに、最後には申し訳なさそうに笑っていた鏑木君を思い出す。

そんなに怖くなかったんだろうか。


「こ、怖くなかったの・・・・・・?」

「うん・・・・・・」


私が尋ねると、鏑木君は少し申し訳なさそうに頷いた。


「こういう時、脅かし役の人や怖いのを楽しみたい人にはちょっとだけ申し訳ないなあって」


あっ・・・・・・。

だから、鏑木君は肝試しが始まる前に浮かない顔をしていたんだ。

一緒になる人が怖いのを楽しみたかったら、その邪魔をして迷惑をかけてしまうかもって。

でも、怖がりな私にとっては本当に心強かった。

鏑木君が怖がらなかったから、私も思ったより怖がらずに済んだ。

もし鏑木君がいなかったら、こんにゃくのところでもう泣いていたかもしれない。

そう伝えようとしたところで、道の先に明かりが見えた。

先に行って戻ってきた組が、景品がある場所からは明かりもあったと言っていたことを思い出す。

明かりのところまで行くと、大きな缶箱が置いてあった。

鏑木君が缶箱の蓋を開ける。

その中には、ちゃんとここまでやってきたという証でもある景品が入っていた。

最後の方の組も選べるように、景品は多めに用意されているみたいだった。


「吉野さん、先に選んで」

「いいの・・・・・・?」

「うん」


私は鏑木君にお礼を言って、あらためて缶箱の中を見る。

缶箱には女の子が好きそうな可愛い小物や、男の子が好きそうな格好いいデザインのバッジなど、色々な物が入っている。

私は小さく可愛いぬいぐるみがついたキーホルダーを選んだ。

鏑木君はお花の絵が綺麗に描かれた栞を選んでいた。

肝試しの目的はこれで達成。

ここから先には明かりがぽつぽつと灯っていて、道を照らしだしていた。

あとはもう、あの明かりの中を進むだけ。

鏑木君とお話ししながら帰るだけでいい。

そう思うと、心が軽くなった。


「・・・・・・」


ふと鏑木君を見ると、鏑木君は明かりに照らされた道の先をじっと見つめていた。

ずっと、ずっと先の方を見ているみたいだった。

しばらくそうしていたかと思うと、鏑木君はやがて悲しい表情を浮かべた。

「どうしたの?」って尋ねる前に、鏑木君がこちらを見る。

そしてなぜか申し訳なさそうに笑うと、「行こうか」と言った。


6


明かりに照らされた道を進んでいた。

相変わらず鏑木君は歩く速さを私に合わせてくれている。

けれど、行きとは違って空を見ずに前だけを見ていた。 

景品があった場所から、鏑木君はずっと何かを気にしているみたいだった。

この先に何かあるんだろうか。

鏑木君に聞く前に、明かりに照らされた道を、その先までじっと見てみる。

・・・・・・何も見えない。

明かりと、それに照らされた道が続いているだけ。

変わったものは何もない。

それとも・・・・・・私には『視えていない』だけ・・・・・・?

一瞬、そんな考えがよぎって、私はすぐに頭を振った。

知らない方がいい。

そう思った私は、聞かないでおくことにした。

代わりに別のことを聞いてみる。


「あの・・・・・・鏑木君」

「どうしたの?」

「さっきの栞のことなんだけど・・・・・・」


景品を選んだ時、鏑木君は缶箱の中からあのお花の栞を見つけると、手に取って顔を綻ばせた。

あまりに嬉しそうだったので、どうしてなのか気になっていた。


「どうしてあんなに嬉しそうだったの?」

「綺麗な絵だったし、好きな花なんだ」


私が尋ねると、鏑木君は優しく微笑んで答えた。

もう一度見せてくれたので、手に取ってあらためて栞を見てみる。

栞に描かれたお花は、真ん中の部分が黄色で、そこから紫色の細い花びらがたくさん放射状に広がっていた。


後で調べてみると、色の名前にもなっているお花で、その花言葉が私の中でなんだか妙に印象に残った。

どうしてなのかは未だに分からない。

この時はまだこのお花のことを知らなかったけれど、鏑木君にぴったりだと直感的に思った。


栞を返そうした時、鏑木君が再び前を向いた。

その目はなぜか憂いを帯びているように見える。


「・・・・・・」

「鏑木君・・・・・・?」

「ごめんね。その栞、少しだけそのまま預かっていて」


鏑木君がそう私に頼んだ後、私の前に進み出る。

どうしたのかと尋ねようとした。


ブブ・・・・・・。


しかし・・・・・・その前に、道を照らしていた明かりが、遠い方から音を立てて揺らぎ始めた。

なんで・・・・・・と思う間も無く道の明かりは今にも消えそうになっている。

私はこの場に光が無くなってしまう怖さから、何か考えるより先に懐中電灯のスイッチを押した。

懐中電灯がほんの一瞬光を灯す。

けれど、その光はすぐにジリッという音とともに消えた。

ガチャガチャと必死にスイッチを押す。

でも、どれだけ押しても、もう光は点かなかった。


——————。


今・・・・・・何か聞こえたような・・・・・・!?

訳が分からなさすぎて頭の中がぐちゃぐちゃになった私は、すがるような思いで鏑木君を見た。

鏑木君は悲しそうに前を見ている。

私は思わず、その視線を辿ってしまった。

この道の先は緩やかに右へと曲がっている。

その手前に、薄く透けてぼやけた何かが見えた。

なんだろう・・・・・・あれ・・・・・・?


———————————————。


やっぱり・・・・・・何か聞こえる気がする・・・・・・。

でも・・・・・・はっきりしない・・・・・・。

怖くてしょうがないはずなのに、はっきりしないことが多すぎて、思わずそちらに意識が向いてしまう。

ぼやけた何かは、なんだかフラつきながらだんだんこっちへ近づいてくる。

それにつれて、だんだんピントが合うように、ぼやけた姿も、よく聞き取れなかった音も、はっきりとその正体が分かるようになってきた。


血の気のない肌の色。

赤黒く染まった胸元。

その胸元をギリギリと押さえる左手。

ガリガリと忌々しげに頭を掻き毟る右手。

肩の辺りまで伸びた髪。

苦しみ呻くような声と赤黒い液体を吐き出す口。

そして、なにか強く恐ろしい感情に染まった目。

どう見ても生きていない・・・・・・女の人。

そうはっきり分かった途端、私は悲鳴を上げた。

思いっきり叫んだつもりだった。


「ううう・・・・・・ああああああああああああああああああああっーーー!!」


けれど、女の人の血を吐くような呻き声にかき消されたのか、私の声は自分の耳に届かなかった。

女の人はフラつきながらも鬼気迫る様子でこちらに近づいてくる。

私は怖さのあまり、ついに腰が抜けてドサッとその場に尻餅をついてしまった。

ほんの一瞬地面の感触を感じた後、あっ・・・・・・と私は凍りついた。

もし、今の音で女の人を刺激してしまったら・・・・・・。

そう思い、泣きそうになりながら女の人を見た。


女の人はこちらを見ていない。

まるで私がここにいないかのように、見向きもせず、鏑木君だけを見据えて、恐ろしい形相で向かってくる。

鏑木君は動かない。

逃げることも、目を逸らすこともしないで、女の人を待っていた。


「があああああっ!!」


やがて、鏑木君の前までやってきた女の人は、そのまま恐ろしい勢いで鏑木君の左肩を掴んだ。


「ひっ・・・・・・!」


思わず私は短い悲鳴を上げてしまった。

あまりに恐ろしくて、涙がボロボロと目から溢れてくる。

目の前が滲んでよく見えなくなった。

女の人の血を吐くような呻き声とともにミシミシと軋むような音が聞こえてくる。

きっと、鏑木君の肩を掴む女の人の指が強く食い込んでいるに違いない。

でも、鏑木君は声も上げず、抵抗している様子もなかった。

ただ、女の人を見ているみたいだった。

目の前が涙で滲んでいるせいで、表情までは分からない。

なんで・・・・・・と思う間も無く、今度はガッと何かを勢いよく鷲掴みにしたような音がした。


「うっ」


直後に鏑木君が苦しそうな声を漏らした。

涙で滲んでよく見えないけど、鏑木君が首を絞められてる・・・・・・!?

そう思った瞬間、とっさに手で自分の目を覆った。

さっきから涙で目の前がよく見えていない。

それでも、もう・・・・・・見てられない。


「ぐがああああああああああっ!!」


血を吐くような呻き声。

鏑木君の肩が軋む音。

そしてギリギリと首を絞める音が聞こえる。

耳も塞ぎたかった。

鏑木君の声は聞こえない。

一瞬、嫌な想像が頭によぎる。

嫌な想像を追い出そうと、頭を振りかけた。その瞬間、聞こえていた音が全部急速に聞こえなくなっていった。

どうしてなのか気になって、私は涙を拭いながら恐る恐る目を開けた。


「——————」


女の人は鏑木君の肩と首を掴んだまま、目を見開き、鏑木君を見ていた。

強く恐ろしい気持ちで染まった目が、向けるべき矛先を見失いかけて、揺らいでいるように見える。

その目の前で、鏑木君が涙を流していた。

まるで、黒く燃え盛るような気持ちのせいで泣き方を忘れてしまった女の人の代わりに泣いているかのように。

あまりにもその表情が悲しくて、見ている私まで今度は悲しみから涙が溢れそうになった。

涙を堪えながら見守っていると、だんだんと鏑木君を掴んでいる女の人の力が緩んできた。

首を絞めていた左手はやがてダラリと下がり、肩を掴んでいた右手も今は鏑木君の服の袖を握っていた。

黒く燃え盛るような気持ちが、あと一歩のところで消えずに悲しく揺らめいている。そんな風に見えた。

すると、鏑木君が女の人の胸元を赤暗く染めている傷にそっと触れた。

そしてそのまま、集中するように目を閉じた。


「ぐ・・・・・・うう・・・・・・」


傷に触られたせいか、女の人の表情がまた険しくなる。

けれどそれが、黒く燃え盛るような気持ちの最後の残り火だった。


「・・・・・・」


険しくなった表情はもう一度燃え盛ることなく、やがて消えてしまったように静かな表情になった。

鏑木君も女の人も動かなくなる。

でも、それからまもなく、鏑木君がまた悲しい表情を浮かべた。

それを見た女の人が、今度こそ泣き方を思い出したように、悲しい表情を浮かべて、静かに涙を流し始めた。

さっき、鏑木君が流したような、あまりにも悲しい涙。

それから少し経った後、鏑木君がそっと女の人の傷から手を離した。

するとすぐに、女の人は鏑木君に詰め寄り、口を開いた。


「『視えた』でしょ・・・・・・? 『そいつ』が・・・・・・『そいつ』がっ・・・・・・私を殺したっ・・・・・・! 会ったこともない・・・・・・ただ、道を聞かれて答えただけなのにっ・・・・・・! 殺されて・・・・・・運ばれて・・・・・・埋められたっ・・・・・・!!」


女の人が泣きながら堰を切ったように訴える。

鏑木君は悲しく、それでいて優しい面持ちで静かに聞いていた。

言いたいことを全部吐き出すように言い切ると、女の人はそのまま鏑木君の服の胸の部分を両手で握りしめて、声を上げて泣き続けた。

鏑木君は服を掴んでいる女の人の両手に自分の手を添えて、泣き続ける女の人を静かに見守った。

そこでまた、目の前が涙でひどく滲んだ。

私の目からもこれまでに流したことのないような深く悲しい涙が溢れてくる。

そのせいで何も見えなかったけど、鏑木君が女の人にそっと寄り添っている光景が頭に浮かんだ。

しばらくすると、また静かになった。


「もう、大丈夫・・・・・・?」


鏑木君が優しく尋ねると、頷く気配があった。

私はまだ目の前が涙で滲んで見えない。

それでも、柔らかく微笑む鏑木君の顔が思い浮かんだ。


「家に帰りたい・・・・・・。家族にはもう・・・・・・『私』のことは視えないと思うけど、それでも・・・・・・身体と一緒に・・・・・・」


見ず知らずの男の子に願うことじゃない。

けれども・・・・・・どうしても帰りたい。

そんな思いがこもった、女の人の悲痛な願い。


「必ず」


いつものように優しく。

それでいてはっきりと。

必ず叶える、という意志を込めて鏑木君は答えた。


「ありがとう」


最後に聞こえたのは、ほんのちょっと震えていたけど、この上なく安らかな声だった。

涙を拭いて、女の人を見る。

女の人は、目に涙を浮かべながら、安らかに笑っていた。

そして、その笑顔のまま、透けて消えていった。

鏑木君は決して目を離さず、優しく見送っていた。

女の人の姿が完全に消えてしまっても、鏑木君はその場所から目を離さない。

やがて鏑木君は、静かに目を閉じて、手を合わせた。

祈っている。

優しく、誠実に。

深く。深く。

この頃の私は、『亡くなった者のために祈る』ということの意味を、本当には分かってなかったのかもしれない。

そうしたい、と自然に思えることがまだあまりなかった。

後から思えば、この時がその『自然に思えること』だったんだろう。

だから、あの女の人のために、優しく誠実に祈る鏑木君を見て、なんだか私まで救われたような気持ちになった。

私も手を合わせたかった。

けれど、短い時間に怖いこと、悲しいことが流れ込んでくるようにやってきたせいか、身体が震えて上手く動かせなかった。


「ごめんね、怖い思いをさせて」


祈り終えた鏑木君が、未だに腰を抜かしたままの私に合わせてしゃがみ、頭を下げて謝った。

確かに最初はとんでもなく怖かった。

でもそれは、鏑木君のせいじゃない。

私がそう返すと、鏑木君は首を横に振った。


「さっき、初めて霊を視たんじゃない?」


その通りだった。

幽霊を視たのはこれが生まれて初めて。

驚きながら鏑木君に頷いた。


「僕の近くにいると、そういうのが視えてしまうから」


鏑木君が申し訳なさそうに、少しだけ話してくれた。


「霊が僕の側にいると、普段霊が視えない人でも、その姿が視えたり、声が聞こえたりしてしまうんだよ」


その話を聞いて、あっと思い出す。

確かに・・・・・・私には、あの女の人が近づいてくるまで、その姿も声もはっきり捉えられなかった。

そしてもう一つ、思い至った。

休み時間、鏑木君は自分から誰かに話しかけない。

気がつけば姿が見えなくなっていることも多かった。

自分が側にいれば、幽霊が視えて、周りの人を怖がらせてしまう。

きっと、そう思って。


——肝試しで僕と一緒になったら迷惑かけるだろうし・・・・・・。


この肝試しの前に、鏑木君が浮かない顔でそう言っていた理由。

怖がらなくて、脅かし役の人や怖いのを楽しみたい人に申し訳ないから。

でも、それ以上に・・・・・・自分が一緒だと、本物の幽霊が視えて、怖がらせてしまう。それが何より申し訳なかったんだと思った。

「辛くないの?」って聞きたかった。

だけど、これまでの鏑木君を見ていれば、聞かなくても分かる。

辛いなんて、これっぽっちも思ってない。

だから代わりに、あの女の人がどうなったのか尋ねた。


「少しだけ眠ってる」


鏑木君は少しだけ悲しそうに、それでも穏やかに答えた。

どういうことなんだろう。

天国にはまだ行けてないんだろうか。


「あの人はまず、家に帰らないと」


どこにも行けない。

私の疑問に、鏑木君が悲しげに答えた。

きっと、あの女の人もそれが分かっていたから、鏑木君に『家に帰りたい』って願った。

出会ったばかりの男の子に願うことじゃないって思いながら。

けれども、この男の子なら叶えてくれるって信じて。


「もう、大丈夫だね」


鏑木君が優しく微笑んで言った。

なんのことだろう?

そう思っていると、鏑木君が立ち上がって私に手を差し伸べた。

その手を取って、私はあっと気づいた。

身体の震えが止まって、上手く動かせる。

震えが止まるまで、待っててくれたんだ。


「・・・・・・元はと言えば、僕のせいだよ?」


私がありがとうって言うと、鏑木君は困ったように笑った。

また、二人で並んで歩き出した。

道の明かりはいつの間にかまた道を照らしている。

なんだか眩しく感じたけど、それでも安心できた。

鏑木君が空を見ていたので、私もつられて空を見る。

月は相変わらずぼんやりしていて、星もあまり見えない。

焚き火の元から肝試しに向かってすぐの、あの穏やかな時間が戻ってきた気がした。

その後、私たちがキャンプ場の焚き火の元に戻るまで、もう何も起こらなかった。


7


次の日、野外学習は無事に終わった。

また、いつも通りの日常。

臆病な私が自分から鏑木君と話せないのも同じ。

あの女の人についても、鏑木君にはついに聞けなかった。

ただ、別の形であの女の人のことを知る機会があった。


それは、野外学習から数日後のこと。

あのキャンプ場の近くの林で女の人の遺体が見つかった、というニュースをテレビで見た。

ニュースが流れた途端、私は思わずテレビに注目してしまう。

この時のニュースによると、女の人は誰かに殺されて、その場所に埋められていた。


それからさらに数ヶ月後。

今度はその女の人を殺した犯人が捕まったというニュースがやっていた。

最初のニュースと同じように、テレビに注目する。


「容疑者は被害者に道を尋ねるフリをして近づき、刃物で殺害。その後、暮森(くれもり)のキャンプ場付近の林に遺体を埋めて遺棄したことが捜査で——」


ニュースを聞いて、私は肝試しの時に会ったあの女の人のことを思い出す。


『会ったこともない。

道を聞かれて答えただけ。

なのに、殺されて、運ばれて、埋められた』


あの女の人は泣きながら鏑木君にそう訴えていた。

その胸元は赤黒く染まっていた。

きっと、あそこを刺されたんだ。


ニュースでは最後に、犯人の動機が明かされていた。


「『誰でもいいから殺したかった』と、容疑者は供述しており——」


あまりにも身勝手な動機。

目の前が赤くなりそうなほど、目の奥が熱くなって、涙が零れそうになった。

溢れかえりそうな悲しみと怒りが胸の中から込み上げてくる。

こんな人のせいで、あの女の人は生きてどころか、亡くなった後まで家に帰れなかった。

だからあの夜、『家に帰りたい』って鏑木君に願った。

家族にはもう幽霊になった自分は視えないだろうけど、それでも身体と一緒に・・・・・・って。

あれからすぐにあの女の人の身体は見つかった。

幽霊になっていたあの女の人は、どうなったのか分からない。

ただ・・・・・・きっと、最後は身体と一緒に家に帰れたに違いない。

犯人が捕まって、仇も取られた。

鏑木君はどこまで関わっていたんだろう。

肝試しの夜、あの女の人の願いに、鏑木君は「必ず」と答えた。

いつものように優しく、それでいてはっきりと、意志を込めて。

その言葉通り、願いは叶えられた。

いつか、鏑木君からも話が聞けるだろうか。


8


長い話になってしまった。

それでも雨夜さんは文句一つ言わず、静かに話を聞いてくれていた。


「なんというか、お前も大概物好きだな」

「えっ?」


私が話し終えると、雨夜さんは少しだけ呆れたように口を開いた。

物好きだと言われ、思わず聞き返してしまう。

どういうことだろう。


「肝試しの前半はしっかり楽しんだみたいだが、後半はお前からすればただのとばっちりだろ。それを忘れたくないって言うんだからな」


確かに、それだけ聞くと物好きかもしれない。

女の人の霊に会った時、最初は本当に怖かった。

でも・・・・・・だからって忘れてしまったら、あの夜に知った大事なことまで忘れてしまいそうな気がする。


「大事なこと?」


私の知らないところでは、理不尽な理由で命を落として・・・・・・悲しんでいる人がいて、その人のために優しく真剣に祈る人がいるんだってことを。


「当たり前のことなのに、あの頃はまだよく分かってませんでした」

「そりゃ、そうだろうよ。身近で不幸でもなかったらな」


雨夜さんの言う通り、私の身近ではそうした不幸は起きていなかった。

もし、あの夜のことがなかったら、そういう大事なことを知らないままだったんじゃないか。

そうした不幸による悲しみも。亡くなった者のために祈るという意味も。実感を持てないまま。


「鏑木君のことだって、きっと何も知らないままだった・・・・・・そう思うと・・・・・・」


今はよっぽど、その方が怖い。

雨夜さんが「そうか」と短く相槌を打つ。

そして、そのまま私に尋ねた。


「・・・・・・じゃあ、なんでユキはあんなに優しいと思う?」

「えっ・・・・・・? ・・・・・・えっと・・・・・・」


思いがけないことを聞かれて、戸惑ってしまう。

私だって不思議でしょうがない。

どうしてなのかって、何度考えただろう。

でも・・・・・・いまだに、私にはその理由が分からない。


「別に答えなくていい。私が本当に聞きたいのは別のことだ」

「は、はい」


私が何も答えられないでいると、雨夜さんは構わず話を進めた。

言葉通り、特に何も気にした様子はない。

本当に聞きたいことってなんだろう。


「お前、なんでユキに会いたいんだ?」


一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。

何かの間違いだろうか。

だけど、雨夜さんの言い間違えとも、私の聞き間違いとも思えない。


「なんで・・・・・・って、あの・・・・・・それは最初に・・・・・・」


さっき以上に戸惑いながら、なんとか答えた。

けど、雨夜さんが忘れているとは思えない。


「『ユキにもう一度お礼が言いたい』って言ってたな。そんなことは覚えてる」

「なら、どうして・・・・・・?」


覚えているときっぱり言われ、さらに困惑してくる。

雨夜さんの真意が分からない。

すると、雨夜さんが再び口を開いた。


「それでお前は満足なのか?」


その一言で、なぜか心がドキリと音を立てた気がした。


「それは・・・・・・」


どうしても、もう一度鏑木君にお礼が言いたかった。

そのために今、鏑木君に会いに来たはずなのに。

私は雨夜さんの質問にはっきりと答えられなかった。


「答えられないなら、別に答えなくていい。私の質問は終わりだ」


そんな私に、憤る様子も、呆れる様子もなく、雨夜さんは質問を終えた。


「・・・・・・」


思わず、俯いてしまう。

なんで・・・・・・答えられなかったんだろう・・・・・・。

どうしても・・・・・・分からない・・・・・・。


「まあ、答えが分からなくて困るようなら、『その時』は空でも見てみるんだな」


雨夜さんの言葉につられるように、私は空を見た。

月が雲でぼんやりとしている。

星もほとんど見られない。

静かな夜空。

まるで、あの肝試しの時の空みたい。


「・・・・・・やっと来たか」


またしても雨夜さんの言葉につられて、再び視線を元に戻した。

雨夜さんは私の背後・・・・・・神社の入り口の方を見ている。

言葉通り、誰か来たんだろうか。


「遅くなってごめんね、サクさん」

「・・・・・・!」


振り向こうかどうか迷っていると、そちらから聞き覚えのある声がした。

私は思わずばっと振り向いた。

そこにいた人を見た瞬間、私の心臓が波打った。


一部がピョコンとはねた少し長めの髪。

一見すると女の子っぽく、優しそうな顔立ち。

私の記憶の中の男の子が、そのまま成長したような姿。


「ああ、10分ほど待ったぞ、ユキ」


不満そうな口振りとは裏腹に、雨夜さんの表情は驚くほど柔らかい。

やってきたのは、鏑木君だった。

最後に会ったのは、小学校を卒業した時。

お礼はもちろん、お別れすら言えなかった。

あれから三年。

やっと・・・・・・やっと会えた。

嬉しくて涙が零れそうになる。


「・・・・・・で、先に連絡した通り、お前に客だ」

「うん」


鏑木君は私を見ると、優しく笑った。

その笑顔は、私の記憶の中の鏑木君のものとなんら変わらない。

・・・・・・そのはずなのに、ほんの一瞬、泣いているように見えた気がした。


「久しぶりだね、吉野さん」


あの頃から声変わりを感じさせない、穏やかで耳にすると不思議と落ち着くような声。

ああ・・・・・・やっぱり鏑木君だ。

ずっと会いたいと願っていた人が今、目の前にいる。

言葉にならない。

ただ、涙が零れそうになる。


「じゃあ、後は任せるぞ」

「うん、ありがとう。吉野さんのこと、知らせてくれて」


鏑木君にお礼を言われると、雨夜さんは表情を曇らせた。


「・・・・・・いつも言ってるだろ。こういう時、お礼なんか言うな」


雨夜さんがひどくしんみりとした様子で、力なく怒る。


「でも、おかげでちゃんと知ることができたから。だから、ありがとう」


でも、そんな雨夜さんに、少しだけ悲しく、それでも優しく笑って、もう一度お礼を言った。


「・・・・・・そんなんだからお前は、『悲しくなるほど優しい』って言われるんだよ」


呆れながらも、優しい口調。

雨夜さんの言葉に、鏑木君は困ったように笑った。

そのまま雨夜さんが立ち去ろうとする。

どういうやりとりだったのか、あまりよく分からない。

気にはなるけど、私もちゃんと雨夜さんにお礼を言わなきゃ。


「あの、雨夜さん・・・・・・!」


本当にありがとう・・・・・・!

そう言い切る前に、雨夜さんが口を開いた。


「お前は余計なこと言ってないで、さっさと目的を果たせ」


雨夜さんは面倒くさそうに言い残すと、そのままこの場を後にした。

鏑木君と二人きりになる。

『さっさと目的を果たせ』という雨夜さんの言葉が私の頭の中でぐるぐると巡っている。

言わなきゃ。

ちゃんと、ありがとうって。

でも、いきなり・・・・・・?

久しぶりに会って、突然お礼を言い出したりしたら・・・・・・。

そんな人、いくらなんでも怖すぎる。

なにか、話さなきゃ・・・・・・。

な、なにを・・・・・・?

頭の中でそんな思いがぐるぐると回る。

鏑木君が今、目の前にいるのに。

言葉が出ない。

思わず、涙が零れた。


「大丈夫だよ」


突然涙を零し始めた私に、鏑木君が一瞬慌てていた。

けれど、すぐに優しく声をかけてくれた。

保健室の時と同じように。

あの頃と変わらない。

優しいままの鏑木君。

安心したら、余計に涙が止まらなくなった。

それでもなんとか、鏑木君に頷く。

しばらくすると、ようやく落ち着いてきた。

鏑木君は私が落ち着くまで静かに待ってくれていた。

一度、息をゆっくり吸い、吐き出す。


「・・・・・・あのね・・・・・・鏑木君に話したいことがあるの」

「うん」


話したいことはたくさんある。

でも、なにから話したらいいか。


「せっかくだから、少し、歩きながら話さない?」


私がまた悩みかけていると、鏑木君がそう穏やかに提案した。


9


木々に囲まれた石畳の道を戻り、神社を後にする。

鳥居を潜(くぐ)っても、今度は何も起きなかった。

そのまま鏑木君に付いてしばらく歩いていく。

すると、やがて私にも見覚えのある風景が広がり始めた。

この辺りは、小学生の頃の通学路だった。

道を照らす街灯の明かりはなぜかチリチリと不安定で、道を照らす役割をあまり果たしていない。

鏑木君はそのことを気にする様子もなく、私に歩く速さを合わせて、夜の空を見ていた。

あの肝試しの時のように、私もつられて夜の空を見る。

月は鏑木君に会う前と変わらずぼんやりとしている。

星もほとんど見えないまま。

あの肝試しの夜のような空が続いている。

私はいつの間にか、この静かな夜空を好きになっていた。

そんなことを考えていると、鏑木君が口を開いた。


「野外学習の肝試しの時も、今日みたいに静かな空だったなあ」


空を見る鏑木君はあの日のように穏やかに微笑んでいる。


「うん・・・・・・そうだったね」


あの時は、まるで夜空を楽しみながら散歩しているみたいだと思った。

今は本当に、夜空を楽しみながらのお散歩。


「肝試しの時、どんな脅かしがあったか覚えてる?」


鏑木君が穏やかに笑いながら私に話を振った。

もちろん覚えている。


「最初は、脅かし役の先生が木の上から釣り竿で釣ったこんにゃくを鏑木君に当てようとしてたね」

「まさか、本当にこんにゃくだとは思わなかったよ」


思い返しながら、鏑木君がしみじみと笑う。


「そういえば・・・・・・鏑木君はどうして当たる前にこんにゃくを捕れたの?」

「あの時、木の辺りで何かが揺れたのが見えてね」

「えっ、鏑木君も見えてたの?」

「うん。それでその何かの動きを窺ってたんだけど、どうも木の上から何かで釣り下げているみたいだったから、これは脅かし役の先生が木の上にいるんだなって思って」

「そ、そこまで分かってたんだ・・・・・・」

「肝試しの時に釣り下げて当てる物って・・・・・・思いながら捕ってみたら、本当にこんにゃくで呆気に取られたよ」

「確かに、ベタだよね・・・・・・」


でも、それくらいの方が先生の言う通り、みんな驚くのかも。

私がそう言うと、鏑木君は「そうだね」とまたしみじみ笑った。


「次は、別の脅かし役の先生がおかめのお面を被って木陰から勢いよく飛び出してきたね・・・・・・。しかも、直前にヒュードロドロって音まで流して・・・・・・」

「あの時にも先生に言ったけど、おかめのお面って、暗いところで見ると不気味だよね」

「うん・・・・・・」


そもそも、暗い林の中の道で突然あんな不気味な音が聞こえてくるだけで怖い。

あんな場所で木陰から何かが勢いよく飛び出してくるだけでも怖い。

その上、おかめのお面なんて被ってたらもう意味が分からない。

力説する私に、鏑木君は再び穏やかに苦笑した。


「でも・・・・・・やっぱり、最後の脅かしが一番怖かったよ・・・・・・」

「道の真ん中に古いテレビが置いてあって・・・・・・」

「そのテレビに気を取られているうちに、また別の脅かし役の先生が髪の長い女の人の幽霊の格好でそっと忍び寄ってきたのが・・・・・・」


当時も思ったけど、一度テレビに気を取られて後ろから脅かされると余計に怖い。


「古いテレビといい、先生の演技といい、拘りが凄かったなあ」


鏑木君は素直に感心している。

今度は私が苦笑する番だった。


それにしても、鏑木君はあの肝試しの時のことを本当によく覚えている。

まるで、昨日のことのように。

私が肝試しのことをよく覚えているのは、あの時の鏑木君のことが忘れられないほど強く印象に残っているからだ。

鏑木君にとっても、あの肝試しの時のことは印象的な出来事だったのだろうか。

前半は普通の肝試し。

本当ならそれで終わるはずだった。

だけど、後半で本物の幽霊に会った。

あまりにも身勝手な動機で殺され、あの場所の近くの林に埋められていた、女の人の幽霊。

そのせいで、黒く燃え盛るような気持ちに囚われて、泣き方さえ忘れてしまっていたあの女の人を、鏑木君は体を張って救った。

家に帰りたいと鏑木君に願い、泣いていたあの女の人のことが忘れられない。

あれからずっと、鏑木君に聞きたかった。


「・・・・・・ねえ、鏑木君。肝試しに時に会った、あの女の人のこと、覚えてる?」

「もちろん、覚えてるよ」

「あれから、あの女の人はどうなったの・・・・・・?」


私があの女の人について尋ねると、鏑木君は自分の口から話していなかったことを謝った。

その上で、鏑木君が話し始める。


「あの女の人の怨みを解(ほど)いた後、僕が彼女の胸元の傷に触れたのを覚えてる?」

「うん・・・・・・覚えてるよ」


涙を流す鏑木君を目の当たりにして、あの女の人の黒く燃え盛る気持ちが治まっていったのを思い出す。

恨みを解(ほど)いたというのは、火を消すように、あの黒く燃え盛るような気持ちを鎮めたということに違いない。


「その時僕は、彼女の傷に残る痛みを解(ほど)いて、彼女が殺された時の記憶を視たんだ」


鏑木君が悲しそうに話を続ける。

幽霊の傷に触れることで、鏑木君には二つのことができるようだった。

一つは、幽霊の傷に残る痛みを解(ほど)くこと。

幽霊が生前から持つ傷には、それを負った時の痛みが残っているらしい。

鏑木君には傷そのものを癒すことはできないものの、傷による痛みを取り除くことはできるという。

もう一つは、傷に残る記憶を読み取ること。

傷に触れることで、鏑木君は幽霊がその傷を負った時の記憶を前後まで映像のように視ることができるみたいだ。

ただし、この記憶は傷を持つ幽霊本人にも視えてしまうらしい。

もし、傷のせいで亡くなっていたら、鏑木君も幽霊もその時の様子を・・・・・・。

幽霊が側にいると、どんな人にもその姿が視えてしまうのと同じ、鏑木君の不思議な力。

けれど、これが本当なら、当時よく分からなかったことも、全て理由が分かる。

それは、鏑木君があの女の人の傷に触れた時のこと。

胸元の傷に触れられると、女の人の表情は険しくなるものの、やがて痛みが引いたような静かな表情になった。

どうして、黒く燃え盛るような気持ちの最後の残り火が消えたのか。

この時にきっと、鏑木君があの女の人の傷から痛みを取り除いた。

さらにまもなく、鏑木君が悲しい表情を浮かべると、それを見た女の人も泣き方を思い出したように涙を流していた。

そして、鏑木君が傷から手を離した後の、あの女の人の言葉。


——『視えた』でしょ・・・・・・?

——『そいつ』が・・・・・・『そいつ』がっ・・・・・・私を殺したっ・・・・・・! ——会ったこともない・・・・・・ただ、道を聞かれて答えただけなのにっ・・・・・・!

——殺されて・・・・・・運ばれて・・・・・・埋められたっ・・・・・・!!


二人が悲しんでいた理由も、『視えた』っていう言葉の意味も、今なら分かる。

鏑木君はあの女の人が亡くなった時の記憶を、女の人の傷から視たんだ。

それに、女の人自身も一緒に・・・・・・。

私の目の前で起きていたことなのに、今になってようやく、二人のやりとりの意味をちゃんと理解することができた。


「野外学習の後、僕は彼女から得た記憶を頼りに、彼女の遺体を見つけた」


私も知らない、野外学習の後のこと。

無事にあの女の人の遺体を見つけた後、鏑木君は信頼できる人を通して、警察に通報した。

女の人は殺されて埋められていたことから、その後、殺人遺棄事件として扱われることになった。


「あとはニュースの通りだよ。然るべき捜査がされて、犯人が捕まった」


犯人のあまりにも身勝手な動機を知った時の、悲しみと怒りを忘れない。

ある日突然、身勝手な理由で命を奪われることが、どんなに理不尽で無念なことなのか。

そうやって亡くなった人を目の当たりにして、初めて私は本当の意味で実感した。

確かに、犯人は捕まって、仇は取られた。

けれど、奪われた命は戻らない。

大切なのはきっと、あの女の人の願いが叶ったかどうか。


「あの女の人の願いは叶ったの・・・・・・?」

「うん。彼女の遺体は家族のもとに返されて、彼女の霊もちゃんと家に帰ることができたよ」


家に帰りたい。

たとえ、家族にはもう自分のことが視えなくても、身体と一緒に。

あの女の人の願いは叶ったに違いない。

ニュースを見てから、私はそう信じていた。

それでもずっと、鏑木君の口から聞きたかった。

ああ・・・・・・ちゃんと家に帰れたんだ・・・・・・。

やっと、心の底から実感できる。

また、涙が零れそうになった。


「どうしても、家に帰りたいって願いを叶えたかった」


だから、あの女の人がきちんと家に、家族のもとに帰ることができて、本当によかった。

そう話を締め括ると、鏑木君は優しく微笑んだ。

まるで自分のことのように、心の底から喜んでいる。

そんな鏑木君を見ていると、なぜだか涙が溢れてしまった。

鏑木君が驚いた顔になる。


「本当に・・・・・・どうして鏑木君は、そんなに優しいの・・・・・・?」


涙を拭きなから、私は鏑木君に尋ねる。

思っただけだったはずなのに、気がつけば口に出してしまっていた。

雨夜さんに同じことを尋ねられた時、私は答えることができなかった。

ずっとその理由を知りたかった。


「ううん・・・・・・それは違うよ。僕は優しいんじゃなくて、ただ後悔したくないだけ」


生まれた時から霊感があった。

でも、今みたいな力が最初からあったわけじゃない。

困っている霊が視えても、どうにもできなかった。

危ないからと、視えないふりをするしかなくて、後悔するだけの日々。

幸い、視えないふりをしなくてもいいほどの力を持てる機会に恵まれた。

それに、一度見聞きしたり体験したりしたことは、自分が死ぬまで・・・・・・もしかすると死んだ後も忘れない。そういう体質であることも分かっていた。

おかげで、あの頃に助けられなかった霊の顔も、それを視えないふりをするしかなかった後悔も、この先ずっと消えない。忘れずにすむ。

けれど、もう二度と後悔したくないから。

悲しんでいる霊に、視えないふりをしない。

霊のことも、悲しんでいたことも、忘れない。


「本当に幸いだけど、僕にはそれができるから」


後悔のことを話している時、鏑木君は見たこともないくらい悲しそうだった。

けれど、最後にはそう言って穏やかに微笑んだ。

私は悲しむ幽霊を、あの女の人以外見たことがない。

普通に生きてきたと思う。

そんな私でも、忘れたいことは数えられないほどあった。

たぶん、もう忘れてしまっていることも。

そういうことも鏑木君は死んでも忘れられない。

自分だったらどういう気持ちになるのか、想像もできない。

人は死んでも悲しみを抱えている。

肝試しの時の、あの女の人がそうだったように。

その悲しみを目の当たりにすれば、鏑木君は忘れられない。

それでも鏑木君は、目を逸らさずに向かい合っている。

死んでしまった人のことも、抱えている悲しみも、忘れないって言ってくれる。


前に鏑木君が好きだと言っていた栞のお花のことを思い出した。

栞に描かれていたのは、紫苑の花。

その花言葉を知った時、印象に残った理由がようやく分かった気がする。

『あなたを忘れない』という花言葉は、鏑木君の在り方と同じだった。

それがたとえ、体質によるものでも。

そのために、二度と後悔したくないんだとしても。


「・・・・・・もし、優しくなかったら、きっと最初からそんな風に後悔しないって、私は思うの。だから、やっぱり鏑木君は優しいよ」


そう伝えると、鏑木君はちょっと複雑そうに、それでも笑ってくれた。

・・・・・・話さなきゃ。今度こそ。

そのために私は、鏑木君に会いにきたんだから。


「どうしても・・・・・・鏑木君に話したいことがあるの・・・・・・」

「うん」


少しだけ、声が震えてしまう。

鏑木君が優しく頷いた。


「小学生の頃からずっと・・・・・・こんなふうに、もっと・・・・・・鏑木君と話してみたかった」


でも、臆病な私はその勇気が持てなかった。いつか・・・・・・いつか・・・・・・。

そんなことを思っているうちに、隣町へ引っ越すことになった。

『いつか』は、そう思っているだけの人にはやってこない。

そう思い知っても、結局卒業するまで、自分から鏑木君に話しかけられなかった。


「でも・・・・・・引っ越してからもずっと、鏑木君のことが忘れられなかった・・・・・・」


もう一度、鏑木君に会いたい。

会って、卒業式の時には言えなかったことを伝えたい。

だけど、今さら後悔しても遅い。

そんな言い訳ばかりして、自分から会いに行こうとしなかった。

ただ、後悔するだけの日々が続くだけ。

そう諦めていた。なのに。


「どうしてか分からないけど・・・・・・今、鏑木君に会いに行かなかったら、もう二度と会えない・・・・・・そんな気がして・・・・・・」


居ても立っても居られなくなった。

それで、気がついたら、私は鏑木君に会いに行ってた。

けれど、最後に会ってから三年も経つのに、突然会いにきた私を見て、鏑木君はなんて思うだろうか。

そう思うと、怖くて仕方がなかった。


「だけど・・・・・・久しぶりにあった鏑木君は、あの頃みたいに優しく笑ってくれて・・・・・・」


記憶よりも当然成長していたけど、面影はそのまま。

優しいのも変わってない。


「本当に安心したのと・・・・・・、ちゃんと話さなきゃって気持ちが、頭の中でぐるぐる回って・・・・・・」


何か話さなきゃって思うほど混乱して、何を話せばいいのか分からなくなった。

鏑木君が目の前にいるのに。

あまりに情けなくて、思わず涙が溢れて。

それでも鏑木君は、「大丈夫だよ」と優しく声をかけてくれた。

小学生の頃、保健室で鏑木君に背負われたまま嘔吐して、泣いてしまった時みたいに。

私のせいで鏑木君に迷惑かけたのに、鏑木君があまりに優しくて、涙が溢れるのが止められなかった。


思えば、あの時から。

鏑木君のことを考えている。

思い返さない日はない。

保健室に連れて行ってもらった時のことも。

肝試しの時のことも。

忘れられない。忘れたくない。

だから、もう一度お礼を言いたかった・・・・・・?

ちゃんとお別れをしたかった・・・・・・?

そのために今、鏑木君に会いにきた・・・・・・?

・・・・・・・・・・・・違う。

きっと違う。

でも、あと少しのところで、私の気持ちの輪郭がはっきりとしない。

誰か、教えてほしい。

私のこの気持ちが、なんなのか。


——まあ、答えが分からなくて困るようなら、『その時』は空でも見てみるんだな。


雨夜さんの言葉が頭によぎり、思わず空を見る。

月が、雲の間からちょうど顔を出していた。


・・・・・・・・・・・・ああ、そうだったんだ。


はっきりとした月の姿を見て、私はようやく、自分の気持ちを理解した。

ちゃんと・・・・・・ちゃんと、鏑木君に伝えたい。


「私は・・・・・・鏑木君のことが好き・・・・・・」


だからずっと、鏑木君のことが忘れられなかった。

私のこの感情はきっと、夜空に浮かぶ月への憧れと同じ。

届かないって分かっていても、思い焦がれずには、手を伸ばさずにはいられない。

どうしても、鏑木君に知ってほしかった。

私のこの気持ちを伝えるために、『最期』にもう一度、鏑木君に会いたかった。

そしてどうか、忘れないでいてほしい。

私のことも。この気持ちのことも。


必死で、ちゃんと言えていたかどうか分からない。

それでも、自分の気持ちを最後まで鏑木君に伝えた。


「・・・・・・うん。忘れないよ」


鏑木君はどこか悲しく、それでも優しく頷いた。

もし、私が頼まなかったとしても、鏑木君は見聞きしたことを忘れない。

体質のために、ずっと鏑木君の中に残り続ける。

分かった上、それでも身勝手に願った。

けれども、鏑木君はいつものように優しく。

それでいてはっきりと。

何があっても忘れない、という意志を込めて答えた。


ポタリ。


何かが私の頬を伝って落ちた。

涙じゃない。

頬を触って確認してみる。

指が赤く染まっていた。

血だ。

いつの間にか私は、体のあちこちから血を流していた。

体中が痛み始める。

耐えがたい痛みになる前に、鏑木君が血塗れになった私の額に触れた。

鏑木君が触れている部分から徐々に体中の痛みが引いてゆく。

それに伴い、どうしてこんな状態になっているのか、だんだんと思い出してきた。


そうだ・・・・・・私は今朝、交通事故に遭って・・・・・・。


今朝、寝坊してしまった私は、高校の近くの道路を渡る時、思わず信号を見ないまま飛び出してしまった。

そこに、車がやってきて・・・・・・。

そのまま、目の前が真っ暗になるように、意識が飛んだ。

次に意識が戻った時、私はもう鏑木君のもとへ向かおうとしていた。

自分が死んだことを忘れたまま。

どうして、今行かないともう二度と鏑木君に会えない気がしていたのか。

さっき鏑木君に気持ちを伝える時、『最期』にって言ったのか。

そして、あんなにも『忘れないでほしい』と願ったのはなぜだったのか。

全部・・・・・・思い出した。


悲しさで胸がいっぱいになりそうになる。

それでも、最期にやっと鏑木君に会いに行くことができた。

雨夜さんのおかげでちゃんと鏑木君に会えたし、本当は鏑木君に何を伝えたかったのか、きちんと理解して伝えられた。

何より、鏑木君なら必ず覚えていてくれる。

私のことも。私の気持ちも。

たとえ、見聞きしたことを忘れない体質じゃなかったとしても、必ず。

これでもう・・・・・・心残りは一つだけ。


「もう一つだけ・・・・・・引っ越す前からずっと、鏑木君に言いたいことがあるの」


それは、元々鏑木君に伝えるつもりだったこと。

鏑木君は「うん」と優しく頷いた。


「ありがとう。何度も・・・・・・今も・・・・・・助けてくれて。・・・・・・またね・・・・・・っ」


体調を崩した時も。

肝試しの時も。

今も、私の心残りと痛みを解(ほど)いてくれて。

いつかまた、どこかで鏑木君に会いたい。

そんな思いを込めて。


「・・・・・・うん」


鏑木君はもう一度、優しく頷いた。

お礼とお別れを告げた途端、だんだんと全身の感覚が薄くなりはじめる。

私の姿も消えていっているようだった。

目尻に溜まった涙をそっと拭う。

最期に鏑木君の記憶に残るなら、笑顔で残りたい。

指先が拭った涙で濡れている。

この感覚もすぐに消えてしまうだろう。

涙さえ残らない。

私の姿は消えてしまった。

意識だけがほんの僅かだけ残っている。

鏑木君はまだ、目を離さない。

肝試しの時のように。

やがて、鏑木君は静かに目を閉じた。

そっと、手を合わせる。

祈ってくれている

あの時と同じく。

優しく。

誠実に。

深く。深く。

その姿を見て、この上なく救われた気持ちになった。


「——」


最後にもう一度、「ありがとう」と伝える。

けれどもう、声にならなかった。

聞こえるはずがない。

そのはずなのに、鏑木君は私の方を見た。

そして、悲しく、優しく笑った。

それが私の最後の記憶になった。

あなたが私を忘れずにいてくれるように。

私も、忘れない。

この記憶も。あなたのことも。

意識が消えゆく中、最後にそう願った。


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日無怪奇譚 @hinagiku7ruri

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