〇四


 ここで、北川瑞希のことにふれておかなければならない。

 北川瑞希。この春から、私立大和高等学園で出発したばかりの新任の教師である。二年一組を任されている。つまり、川合未来の担任の先生であった。今日は家庭訪問の為、自転車を走らせて川合宅に向かっていた。彼女が向かったのは清川屋台荘ではなくてメゾンタウンの方である。つまり未来の両親に会うためである。

 そして目的地に到着した瑞希は、メゾンタウンの九棟の二○二号室のチャイムを鳴らした。

「はい」と、玄関から出てきたのは未来の母だった。

「お忙しい所、すみません。私は未来君の担任の北川瑞希と言います。宜しくお願いします」

「いつも未来がお世話になっています。どうぞ狭い所ですが中にお入り下さい」

「お言葉に甘えさせて頂きます」と、瑞希は未来の母と一緒にリビングに入った。

 すると、そこにいた未来の父が、瑞希に話しかける。「北川さん、と言いましたね」

「はい、そうですが」と、瑞希は答えた。

「もしかして…あなたのお母さんは北川初子さんでしょうか?」

「そうです。母のことを知っているのでしょうか?」

「はい。私はあなたのお母さんに昔、お世話になりました。私は初子さんの教え子でした川合鴇と言います」

「えっ、そうなのですか」と、瑞希は驚きの声を上げた。

「瑞希さんといいましたね。私は急に転校しましてあなたのお母さんにちゃんと挨拶ができませんでした。今度、私の方からご挨拶に伺いますので、宜しく言っておいて頂けないでしょうか。お願いします」

「わかりました。母もきっと喜ぶと思いますよ」

「ありがとう。…あ、すみません。私の話ばかりになりまして、未来のことでしたね。おい君子、瑞希先生にお茶、頼むぞ」

「あ、そんな、構いませんよ」

 すると、未来の母の君子(旧姓・葛西)は、お盆にお茶を載せて運んできた。

「どうぞ、抹茶ですが、是非お召あがり下さい」と、君子はテーブルの上にお茶を置いた。

「すみません。折角ですので頂きます」と、瑞希は一口、お茶を飲んだ。

「瑞希先生、未来はどうでしょうか。ご迷惑かけてないでしょうか?」と、鴇は心配そうに瑞希に尋ねた。

「心配いりませんよ、お父さん。未来君はしっかりした子ですよ。実は先日、私が担当している演劇部に彼は入りました。毎日、真面目に楽しく稽古しています」

「そうですか、あの子が…。瑞希先生、未来のこと宜しくお願いします」と、鴇は深々と瑞希に頭を下げた。

「あ…そんな、お父さん、頭を上げて下さいよ。未来君のことは、私が最後まで面倒みますから、安心して下さい」

「私からもお願いします」と、君子も瑞希に頭を下げた。

 鴇と君子から深々と頭を下げられ困った表情の瑞希だが、未来が無事に卒業式を迎えられるよう心を決めた。

 瑞希の家は、実は川合家と同じメゾンタウンにあった。四棟の三○四号室である。このことは鴇には別れ際に伝えていた。「いつでもお越しになられても大丈夫ですので」との言葉を加えていた。

 鴇と君子は近いうちに初子を訪ねに来るであろう。そのことを、瑞希は初子に伝えるのであった。

「そう、鴇君がそんなことを…」と、初子は呟いた。

 少し間を置いてから、再び初子は言った。

「瑞希、未来君のこと、しっかりね」

「はい」

「それから瑞希、この間、手紙が来て、またあたしの教え子が、このメゾンタウンに引っ越してくることになっているのよ。その一家の中に未来君と同い年の子がいるの。その子のことも、あなたにお願いすることになると思うわ」

「はい、お母さん」

 そう返事をした瑞希だが…実は深刻な悩みがあった。

 演劇部は廃部寸前だった。彼女が顧問になった時には、部員が一名になっていた。その後、未来が加わり二名になったが、少なくとも後、三名は必要だった。つまり、当初、演劇部の部員は五名いた。そのうちの四名はこの春に卒業した。残された一名の部員の名は平田伊都子という。彼女は、まだ未来と同じ二年生だった。したがって、部長もこの部には存在していなかった。瑞希が顧問と部長の役割をしていた。

(このままでは…)と、瑞希はいつも思いながら、部員になる為のメンバーを探しまわっていた。

 彼女の脳裏には、鴇の「未来のことを宜しくお願いします」との言葉が駆け回り、必死だった。しかし、そんなある日のことだった。それは未来が入部して一ヶ月になった時のことだった。

 瑞希は校長に呼び出され、「演劇部廃部」の宣告を受けた。それに対して瑞希は涙ながら校長に言った。

「校長、お願いします。演劇部廃部を取り下げて下さい。…そのかわり、演劇部は二ヶ月の休部にして下さい」

「何か方法があるのかね」

「はい。私に考えがあります。そして今、懸命に活動に取り組んでいる部員たちのためにも、私に二ヶ月、時間を下さい」と、瑞希は涙を零してはいたが、その瞳は必死だった。

「…わかりました。あなたもお母さんに似て頑固ですね。負けました。二ヶ月待ちましょう」と、校長は言った。

「あ、ありがとうございます」と、瑞希は泣き笑いの顔を上げた。

 そのまま、瑞希は部員たちの待つ体育館に向かった。そして、二ヶ月の休部の件を伝えなければならなかった。

「みんな、ごめんなさい。演劇部はしばらくの間、休部します」と、瑞希は重々しく言った。

(瑞希先生…)と、伊都子と未来は瑞希の涙の跡を見た。

 二人とも何も言えなくなってしまった。そして演劇部は「またこの場所に集おう」と約束して解散した。

 その日の学校の帰り、瑞希は重い足取りでメゾンタウンに。九棟の二〇二号室に向かった。鴇に会うために…。

「瑞希先生、どうしたのですか」と、鴇が玄関に出た。

「演劇部はしばらく休部になりました…」と、少し間を置いてから「ごめんなさい。私の力不足ですね…。未来君のことあんなに約束したのに…本当にごめんなさい」と、瑞希はついに泣きだしてしまった。

「まあ、瑞希先生。ここではなんですから、中の方にお入り下さい」と、鴇は彼女をリビングに連れて行った。

 瑞希は泣きながらではあったが、鴇にこれまでのいきさつを説明した。

「未来のために、ありがとうございます。本当は廃部になるところだったのですね」

「何とか二ヶ月…待ってもらいました」

「私で力になれることがありましたら何でも言って下さい。応援しますよ」

「お父さん…ありがとうございます」

 泣きやんだ瑞希は、二〇二号室を出て、我が家の四棟の三〇四号室に向かった。演劇部の復活の日を信じて。

(未来、お前はあんないい先生をもって幸せだな)と、鴇はベランダで、瑞希を見送りながら思った。

 春から夏に移り変わろうとしていた日の出来事だった。



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