さよならグリコ

たかなつぐ

第1話 名も知らぬあの子

 人は群れたがる生き物だ。数が多ければそれだけ多くのコロニーが生まれ、蟻のごとく群れをなし、それぞれが好きなところへ向かっていく。


 ショッピング、カラオケ、映画館、喫茶店。人混みの喧騒からはヘドロみたいな音声が垂れ流されて、鼓膜を不快に震わせてはまた生まれていく。


 イヤホン越しだとしても、不快感は完全には消えてくれない。

 駅のバス停で待つ間、僕はジッと拳を握りしめて歯を食いしばる。聞きたくもない声も、音も、ピンと張り詰めた鼓膜に遮られて、入ってこない気がする。

『自分は無機物なのだ』と、そうすることで自分に暗示を掛けているようだった。


 僕は一人でいい。昔からそうだ。

 

 小学三年生まで田舎に住んでいた頃もそう。放課後数少ない小学生たちがやることと言ったら、チャンバラごっこに鬼ごっこ。魚釣りにコマ回し、あとは『口なし権兵衛』をからかうことくらい。


 今思えば昭和のような遊びばかり。でもそれくらい、あの場所には娯楽がなかった。

 今で言うテレビゲームとか、そんな情報も入ってこない。周囲から孤立したコミュニティ。


 口なし権兵衛とは、僕の小学生時のあだ名だ。めったに喋らないことからそう名付けたのだろうが、別に僕は喋れないわけではない。

ただ、彼らとしゃべる時間があるのなら、本を読んでいたかった。川のせせらぎに耳を澄ませ、鳥の炉端会議を覗き見て、休日には柔らかな芝生で昼寝をする。


 その時間を邪魔されたくなかっただけで、僕にも話をする相手はいた。──名前も知らない、女の子。

 美人で長い黒髪で、口元にほくろのある。パッチリとした瞳の子だった。


 田舎を出てからもう八年目になろうとしている。彼女のことをもっと知りたかったが、結局名前も聞きそびれてしまったので探すに探せず。


 二年前に亡くなった祖母が病に伏した際尋ねても、「そんな者は知らんなぁ」とその一言だけ。


 ──バスが来るまであと五分。

 しかしどうにもこの五分が耐え難いので、僕はいつもこの時間、現実逃避することにしている。

 頭にある映写機を灯す、スクリーンは網膜。……ほら、あの風景が見えてきた。


 継ぎ接ぎだらけの半袖短パンを着てたあの子。せっかく綺麗な顔立ちなのにすすか泥か、いつも何かしらで黒く汚れている。


『ねぇ、〈グリコ〉ってあそび、知ってる?』


 川辺でぼんやり座っていた僕に、彼女が初めて話しかけてきた言葉だ。


『じゃんけんしてね、勝ったら前にすすめるの。グーで勝ったらグリコで、パーで勝ったらパイナップル。チョキで勝ったらチョコレートなの』


 ……当時その説明では要領を得なかったが、実際やってみたらすぐに理解できた。


 彼女が言うグリコというのは、言葉の文字数のことだったのだ。グーで勝てば三歩、それ以外ならば六歩。

 ゴール地点を決めておいて、勝ち負けを繰り返し最初にその場所へ到達した方の勝ち、というルール。


 ……言ってみれば、彼女は少し純粋すぎた。


 僕が最初にパーを出せば、彼女は次の手でチョキを出す。僕が出した前の手に勝つ手を出すことが多かったので、大体の勝負で僕が勝った。


 その癖を、わざわざ彼女に教えはしなかった。勝っても負けても彼女は心底楽しそうに笑った。僕も勝敗なんてどうでもよくて、ただ彼女とひたすらじゃんけんぽんを繰り返すその時間が、ずっと続けばいい。頭の中にあるのは、ただそれだけ。


 ゴールは決まって、彼女の家へ通じる小道の前に建てられた、小さな祠だった。

 どうにか長く一緒にいられないかと、終わりが近づくにつれ小股で歩いた。彼女の足取りも重くなっていく。終いに二人共グーを出して時間を稼いでいたら、最後までゴールに辿り着けずに日が暮れたこともある。


 その時は帰りが遅くなって、しこたま婆さんに叱られたんだっけ。


「……あれは」


 何かの前触れのように、僕は瞼を開けた。小雨の降るバス停横の公衆電話へ、自ずと視線が吸い込まれる。


 二駅先にある高校の制服姿だった。紺のブレザーに、同じく紺と赤のチェック柄が入った、グレーのスカート。

 女子高生が受話器を握り、何やら淡々とした表情で誰かと話しかけている。その横顔に、僕は懐かしい面影を感じずにはいられなかった。


 電話を終えて、彼女が電話ボックスから出てきた時、予感は確信に変わった。

 もう顔は黒く煤けてなどいないが、彼女の左の口元には、確かに小さなほくろがある。もう何度映写したか分からない、あのつぶらな瞳の面影も。


 気づけば走り出していた。もうバスはすぐそこまで来ている。次の便までまた待つことになるかもしれない。そうすればまた、あの五分間を味わうことになる。

 それでも良いと思った。今彼女に話しかけない後悔に比べれば、耳にヘドロでも生ゴミでも、流し込まれる方がマシなのだと。そう思えるくらいに僕は、力を振り絞って彼女のもとへ駆け寄った。


「……あ、あのっ! 『──村』って場所、聞き覚えありませんか?」


 彼女は二度、目を見開いた。

 一度目は声をかけられて、振り向いた時。そして二度目は、僕の口から村の名前を聞いた直後。

 

「……グリコの、男の子?」


 今度は僕が、目を見開く番だった。

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