④ オペラ座の怪人の呪い
お稽古が終わって、劇団のみんなといっしょにレッスン室の外のロビーで汗を拭いていると、
「レイン」
車いすに乗ったダイヤちゃんがやってきた。
ダイヤちゃんは、レインと並ぶこの劇団の看板女優。
もともと『雨に唄えば』のキャシー役も、ダイヤちゃんがやるはずだった。
ところが不運にも、劇団の練習帰り、馬車にぶつかって足を怪我してしまい、舞台 に立てなくなった。休業中の今も、時々劇場に応援にやってくるんだ。
あたしが受けたのは、ダイヤちゃんの代わりにキャシーを演じる子をさがすためのオーディションだったのだ。
「また来たのか。今はちゃんと休まないとだめだろ」
レインはダイヤちゃんの車いすをみんなのソファの近くにまで押した。
お姉ちゃんから借りて読んだ雑誌『シアター』によると、二人はカップルで、ケガをしたダイヤちゃんをレインが献身的に世話をしてるんだって。
微笑みあう二人はなるほど、お似合いだ。
看板女優なだけあって、ダイヤちゃんは、びっくりするほどきれいな子。淡い茶色 の髪はまっすぐに背中に伸びてて、真夏の空みたいな色の目はぱっちりしてて、顔は すんごくちっちゃい。レースの肩掛けがよく似合ってる。
ふいに、その膝の上で、きらりとなにかが光った。
ハンカチを取り出した拍子に、ダイヤちゃんのレースのバッグから、キーホルダー のようなものが顔を出したんだ。
まん丸い、すきとおった、宝石のようなトップ。
光の加減によって青になったりピンクになったりする。
きれい……。
「あっ」
ストラップがバッグの外に出てることに気づいたダイヤちゃんがぱっとしまった。
「それ、すごくきれいだね」
「なんでもないの、ただのスマホのストラップ。安物なのよ」
今まで別のレッスン室で自主練していたらしく、あたしの向かいのソファで給水していたヴィヴィちゃんが言った。
「あら、ダイヤ。大ヒットしたミュージカルの小道具を安物はないんじゃなぁい?」
「ヴァイオレット……」
「チュチュちゃん、ダイヤはね、前回の公演で主役をやったの。これはそのときに使った小道具を、ご褒美に監督にもらったものなのよ。ガラス球を舞台上で幻想的な泡に見立てたの」
「へぇ」
それはすごい!
「なんの公演だったの?」
そうさしむけたさきのダイヤちゃんはなぜかうつむいて、代わりに答えたのはのりのりのヴィヴィちゃんだった。
「『リトルマーメイド』。人魚姫になったダイヤの歌、拍手が鳴りやまなくてすんごかったんだから! あの公演からわが劇団のファンになったお客さんもおおぜいいるのよ」
「ヴァイオレット! もういいの。終わったことだし」
急に大きい声を出したダイヤちゃんに、みんなが静まり返る。
「ダイヤちゃんならきっとすてきな人魚姫だね」
足を怪我しちゃった今はお休み中だけど。
「元気になったら、あたしにも聴かせてくれる?」
「え、えぇ……」
すばらしいことのはずなのに、ダイヤちゃんはこっちを見てくれなくて。
あんまりうれしくなさそう。
レインの真剣な声が、その場に響く。
「あのとき見てくれた人たちの感動を裏切らないためにも、今回の公演も絶対に成功させなくちゃいけない」
さっきとは違う意味で、あたしたちは静かになった。
沈黙を破ったのはヴィヴィちゃんだ。
「……でも、アタシの立ち位置のろうといい、スマホの音楽といい、滑り出しからトラブル続きねぇ。まさか。ほんとに、オペラ座の怪人の呪い……?」
「ヴィヴィ。やめろ。チュチュの前だ」
レインにとめられ、はっとしてヴィヴィちゃんは口を塞ぐ。
でも、聞こえちゃった。
「呪いって……?」
つぶやくと、レインも、ダイヤちゃんもうつむいてしまう。
知らないの、あたしだけ?
ため息をついて、ヴィヴィちゃんが顔をあげた。
「こうなったらしかたないわよ。新人のチュチュちゃんにも知らせておいたほうがいいわ」
ヴィヴィちゃんはいつになく険しい顔をあたしのほうに向けた。
「ハー・プリンセス劇場がオペラ座の怪人に呪われてるってうわさがあるの。ポップドロップにも、『雨に唄えば』のキャシー役オーディションを開けば、不幸が訪れるっていう手紙が届いたりしていてね」
細い両腕をかきだいて、ダイヤちゃんが車いすの後ろを振り返る。
「不吉だわ。レイン。わたし怖い」
じっと黙って、あたしは考えていた。
そういえば。
オーディションの朝お姉ちゃんのお店にきたバーナード夫人も、そんなこと言ってた。
ハー・プリンセス劇場にはオペラ座の怪人が住みついてるって。
「今まで黙っててごめんなさいね。チュチュちゃんに話したら、怖がるんじゃないかと思って、ナイショにしていたの」
ヴィヴィちゃんの気遣わしげな言葉にも、あたしはなにも言えなかった。
みんな、知らないうちに気をつかってくれてたんだ。
ヴィヴィちゃんをろうで転ばせたり。
ダンスナンバーをぜんぜんそぐわない歌にすりかえてレッスンを混乱させたり。
それもこれもみんな、怪人の呪いのせいだっていうの?
思わずきゅっと唇をむすぶ。
ヴィヴィちゃんが腕をさすってくれる。
喉の奥から、きっぱりした声が出る。
「チュチュ、だいじょうぶか」
レインの心配そうな声に、うなずく。
あたしはたしかに今震えてる。
でもこれは恐怖からじゃない。
「ごめん。あたし今、すごく怒ってるんだ」
まだお稽古がはじまって数週間だけど、それでもわかる。
劇団員のみんなは真剣だ。
お客さんに感動を。
その想いで、学校が終わったあとの時間のほとんどを使ってがんばってる。
それをいたづらで壊そうとするなんて。
「あたし、こんなのに負けたくない。みんなで作ってきたミュージカルだもん。ぜったい、成功させる」
ほっとしたように、ヴィヴィちゃんが笑う。
「さっすがチュチュちゃん」
レインは意外そうに目を見開いて、そして皮肉に微笑んだ。
「ふん。すこしは主役としての自覚がでてきたみたいだな」
「よーっし、みんなでがんばろう!」
えいえいおーっと、腕をかかげるあたしたち。
もうさっきまでのいやな気持はなかった。
みんながひとつになるこの感じ。
これこそミュージカルのだいごみだよね。
あたしたちは、明日のお稽古の打ち合わせにうつった。
車いすに座ったダイヤちゃんが一人、自分の膝を見て黙っていたのには気づかなかった。
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