最後のお客さん
野口マッハ剛(ごう)
喫茶店
この喫茶店は今日で閉店だ。高齢化による店じまいはこの町じゃ珍しくもない。ここの珈琲がいくら美味しかろうと、経営する人間が年老いては続けるのが難しくなってくる。今日はいったいどれだけのお客さんが来るのかと、経営者である男性のTは最終日もマスターを勤める。勤続は二十年。かれこれTが五十代で会社勤めを辞めて、この喫茶店を開業した。思えば、地域と共に歩んだ二十年だ。Tは胸の内で、もう心残りがないと思う。あとは余生を静かに過ごしたいと願っている。
さて、最終日の開店時間である午前の十一時。Tが店の玄関を開けた。待ってましたと言わんばかりに、常連客である近所に住む仲のよい友人の男性が入ってきた。
「Tちゃん、いつもの珈琲!」
「最後ぐらいは、もっと高いのを頼んどくれよ」
店内に二人の笑い声が響く。
ちなみに、この喫茶店のレイアウトはTのちょっとしたこだわりがあった。カウンター席に座って正面の上、絵画が五つあり、席もちょうど五つ。何が描かれているかというと、四つは喜怒哀楽を表現した抽象的な絵である。残りの一つは、顔を両手で隠している絵だ。
それらをカウンター席に座って眺める男性客。
特に普段は気にする抽象画でもないのだが、せっかくの最終日なので男性客はTに理由を聞いてみた。
「これか? もう二十年前の絵だからなあ、すっかり忘れたよ」
それ以上、深くは聞かないことにする男性。
「それにしても、Tちゃんの淹れる珈琲も今日で終わりかと思うと、明日からはなんの珈琲を飲めばいいのかね」
「よく言うよ。今淹れている珈琲の豆の種類もわからないくせに」
「お? 言ったな?」
「はい、お待ちどうさん」
店内にも珈琲の香りが漂う。
男性客はホット珈琲を飲み干すとこう言った。
「週末の競馬はどうする?」
「行けたら連絡するよ」
Tも珈琲を飲んでいる。
「あいよ。ごちそうさん」
男性客が店を出た。
最終日である今日の閉店時間まで、まだ時間はたっぷりとあった。静かに珈琲カップを下げるT。それからテーブル席に目線が行く。このテーブル席二つにもこだわりがあった。でも、もう二十年前の話である。
Tはそのあとのお客さんにも珈琲を淹れる。ふと思うのだ。この二十年間は幸せだったのかと。Tは来るはずのない、ある女性客を待っている。二十年間、何でもないと自分に言い聞かせた。Tにとって忘れることの出来ない女性を。
すっかり時間が経ち、日が暮れ始める。
Tは思えば今日で喫茶店を閉めるのを忘れてお客さんに珈琲を淹れていた。もう誰も来ないだろうと、煙草に火をつける。煙が店内を漂う。
この五つの絵画もテーブルも、全てはとある女性客から買ったものである。その女性客は今日来なかった。名前を忘れているT。もう二十年前の記憶だ。その女性客と言うのも、個人でギャラリーを開いていた人であった。
もう顔も思い出せない、年齢が同じくらいで、離婚していたTからすれば、今考えると年甲斐もなく一目惚れだったような。
記憶の糸がTの頭からするすると消えてゆく。
この煙草の煙と同じように消えてゆく。
気付けば閉店の時間を過ぎていた。普段なら急いで店を閉めるのに、最終日である今日だけは違った。
Tは灰皿に煙草を消す。
少しだけ物思いに耽る。もしもあの女性が来てくれたのなら。
しかし、来なかった。
「さて、閉めるか」
その時である。一人の若そうな女性が店の中に入ってきた。
「もう閉店だよ?」
Tは優しく教えた。けれども、その若そうな女性の顔の面影にどこか見覚えがある。
「あ、すみません。私は、そこに飾ってある絵画を描いた母の娘です」
「えっ」
Tは驚いた。まさかのまさかだ。
「そうだったのか、今はどうしているんだね?」
すると、うつむく女性がこう告げる。
「母は最近にこの世を去りました。最後にこう言っていました。もしも私がこんな状態じゃなければ、この喫茶店へ行きたかったと。今日は私が母の代わりにこの絵を預かって来ました。受け取ってください」
そう言って女性はカバンから小さな絵を取り出しTに見せた。
それはTの似顔絵だった。二十年前のTの横顔だった。
「母は生前にこう私に言っていました。もしもTさんと若い頃に出会っていたなら、と。私の母は、Tさんのことが好きだったようでした」
Tはもう何も言うことが出来なかった。
この二十年は幸せだったのだ。
そして、一目惚れの女性はもうこの世に居ない。
「それでは、私は帰ります。お元気で」
店内に一人残されたTは誰にも見せなかった涙を一粒だけこぼした。
その涙は、T自身の似顔絵に落ちた。
最後のお客さん 野口マッハ剛(ごう) @nogutigo
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