第1号車 どこまでも流れる星の大河
どこまでも広がる空を見上げる。ずっと遠くまで延々と続いていそうな空に端というものはあるのだろうか、空の天井から地平線の彼方に流れる白銀の大河も終わりがあるのだろうか。ソファにもたれかかりながらロンドは空を見上げていた。
そんなことを考えていると、ノックの音が響く。ロンドは姿勢を正してから応じる。すると、失礼します、という声の後、扉が開く。帽子を脱いで一礼した車掌が微笑を浮かべながらこちらに歩み寄る。
「こんばんは。切符の確認を」
白銀の髪に紺色の帽子を被り直した車掌は穏やかな声で申し出る。
「はい。こちらかな?」
ロンドは切符を車掌に見せる。紺色の紙に銀色の文字で列車名と出発時刻、号車番号が書かれているものだ。切符と同じ色合いの制服の車掌は切符に穴を開けるとロンドに返す。
「ありがとうございます」
白銀の髪の車掌は夜空を思わせる紺色の瞳を細める。瞳と同じ紺色の制服は皺ひとつない。
「先ほどのアナウンスは車掌さんかい?」
「いいえ」
「ああ、やはり。声が違ったから」
マイクを通したから、という理由だとしてもアナウンスの声は車掌の声よりも高かった。声変わり前の少年のような声だった。車掌のテノールの声はしっとりとして落ち着いている。
「今日は別の者がアナウンスの担当でして」
「なるほど」
そういうものなのか。この列車ではそうなのかもしれない、とロンドは顎髭を撫でながら思う。
「ふむ。夜想列車は夜に走る列車……。夜走列車や夜行列車ではないのだね」
「ええ。ロンド様なら、ピンとくるのではないでしょうか」
ロンドは車掌の言葉に眉尻を上げる。
「なぜ私の名前を?」
車掌に名乗ってもいなければ、切符に名前が記載されているわけでもない。それなのに車掌は自分の名前を呼んだ。
「お客様のお名前を把握するのも車掌としての私の役目ですから」
訝しげにしているロンドに対し、車掌は淡い微笑を崩さない。
「ね?」
夜の冷たさよりも、昼の温かさを思わせる笑みだ。柔らかな笑みは春の温もりに綻ぶ花のようだ。
「それもそうか」
ロンドは警戒を解く。一両につき、乗客は一名。一両丸々一人で使えるとなると、豪華列車。その車掌ともなれば、乗客のことを知っていてもおかしくはない。七両編成の列車なのだから、乗客は七名。七人ぐらいなら名前を把握していても当然のことか。
「それで、私ならピンとくるというのは?」
列車の名前の話だ。車掌はロンドなら、と言っていた。
「夜想列車の名前の由来。ピアニストの貴方がわからないだなんてこと、ありませんよね」
ロンドは軽く目を瞠った後、小さく笑う。名前だけでなく、職業まで把握されているとは。
夜想列車と聞いてすぐに思い浮かんだ言葉はただひとつ。それも、一人の音楽を嗜む人間としても知っている言葉だ。
「
「おっしゃる通りです」
ロンドは窓の外に広がる空を見上げる。空に横たわる星の大河が一際目立ち、その周りの星々も青や白の輝きを放っている。その星の輝きは車掌の白銀の髪を思わせる。彼の髪は客室の橙色の光をキラキラと弾いている。
「この列車を命名した人物は音楽が好きなのだろうか」
「夜想曲が名前の由来と聞いています。夜を想う時間を過ごしてほしいという願いのもと、名づけられた列車ですから」
「夜を想う時間、か……。私は、夜というとしっとりとした曲を弾いたり聴きたくなる質でね」
ロンドは目を閉じる。脳裏にいくつもの旋律が浮かぶ。白と黒の鍵盤を指が撫でるような情景がひどく落ち着く。
「どのような曲がありますか?」
「そうだな……。それこそ、そのまま夜想曲もいいし、小夜曲もいい。が、そのときの気分で即興で弾くのも好きだ」
ロンドは鼻歌で旋律を歌う。即興で作る曲だ。空を流れる白銀の帯を想い優雅だが、どこか壮大な音色が脳裏に流れる。頭の中で音符を五線譜に落とし込みながら、無意識に指が動く。
人々が眠る時間帯である夜。子守唄のように静かに、だが、大きな空を表すのなら弱々しくならないように。全体的にピアノからメゾピアノぐらいに抑えたくなる。ゆったりと流れる曲は穏やかな大河のように。そして、星々の輝きを表すようにキラキラと細かい音をいれるのもいい。
「……」
ロンドは瞳を開ける。流れていく景色の向こう、星の大河は変わらず横たわっている。先の見えない大河は頭上から地平線に向かって流れているのだろうか。
「今の曲は即興ですか?」
「ああ。我ながら、いい曲ができた」
ロンドは満足したように笑う。ピアノでなくても他の楽器、例えばフルートやピッコロで奏でられたらまた趣の違う曲になりそうだ。弱めのタンギングで吹かれた旋律を想像する。それでいて、可愛らしく高音が奏でられたら最高だ。ギターなら、弦にそっと触れるようにポロポロと弾いてほしい。
「素敵な曲ですね」
車掌も笑う。鼻歌で紡がれた旋律は子守唄のようだった。優雅で和やかな旋律は眠れない夜に聴きたくなる。
「もし、よろしければピアノを弾きませんか?」
「ピアノを? だが、この列車にピアノは」
あるのか、と尋ねようとしたときだった。ポーンと音が鳴る。ドの音だ。その音の発信源は自分の後ろだ。振り返ると、そこにはアップライトピアノが一台置かれていた。
「どうして……」
乗車したときはもちろん、先ほどまでなかったはずだ。何せ、この客室にはテーブルとソファ、灯ぐらいしかない、ガランとした殺風景な場所だ。そんな客室に現れた黒いボディのピアノは、橙色の柔らかな灯に照らされ、つやつやとした質感を際立たせている。
車掌の手袋をした手がピアノのふたを撫でる。白い手袋と黒のボディが鍵盤の二色を思わせる。
「列車なので揺れますが、どうでしょう?」
「いつの間にピアノを?」
そもそも乗車してから誰かに会うのは車掌が初めてだ。これだけ大きな物を誰にも気づかれずに運ぶことは不可能だ。扉が開いた気配もない。本当に何もないところから、ぽん、と現れたとしか言いようがない。
「こちらは夜想列車です。お客様に素敵な夜を想う時を過ごしていただくためなら、ピアノもご用意します。ただ、グランドピアノでないことはお許しくださいね。さすがにちょっと、場所を取りますし」
「はあ……。しかし、誰が運んだと言うのだ?」
「それは内緒です」
車掌は人差し指を立てて口元にあてる。車掌の悪戯っ子のような笑みにロンドは苦笑する。これは教えてもらえそうにない。
車掌がピアノのふたを開けると見慣れた白と黒のコントラストが広がる。八十八の鍵盤が顔を覗かせるとロンドはどこか安心する。どこからともなく現れたピアノだが、見知った鍵盤が落ち着く。
ロンドは席を立ち、鍵盤を覗き込む。
「これは……」
落ち着くのも当然だ。なぜなら、このピアノは幼い頃から家にあったものだ。子どもの頃はこのピアノを使っていた。中央の鍵盤の近くの鍵穴が何よりの証拠だ。金の装飾の一部が剥がれた鍵穴は間違いなく自分のピアノだ。
「懐かしいですか?」
「あ、ああ……。しかし、このピアノがなぜここに?」
「さあ、なぜでしょうか?」
車掌は知っているような素振りを見せるも、答える気はないという様子だ。変わらず、ニコニコと笑っているだけだ。
「……まあ、この列車に乗った時点で何が起きても不思議ではないのかもな」
「ご理解いただけて助かります」
さあ、と車掌は白い手袋をした手で椅子を引く。ロンドは小さく肩をすくめて椅子に座る。人差し指でドの音を弾くと調律された音が車内に響く。両手を鍵盤に乗せ、指を動かす。
ドミファソラソファミ、レファソラシラソファ……
軽くハノンを弾き、指の調子を確認する。
「まあ、こんなものか」
調子は悪くない。滑らかに動く自分の指をじっと見つめたロンドは小さく息を吐く。昔に比べ、皺の増えた手だ。歳をとったものだが、指は思う通りに動く。
ロンドは車掌を見上げる。夜空色の瞳を輝かせている彼はロンドを見つめている。
「リクエストは?」
車掌の瞳の中の星が輝きを増す。
「では、先ほどの鼻歌の曲を。鼻歌ももちろん素敵でしたが、音がいくつも重なるとさらに素敵になると思います」
「わかった」
ロンドは改めて鍵盤に指を乗せる。深く呼吸をしてから左手で低音のオクターヴを丁寧に弾く。列車の振動する音がロンドの耳から消える。隣に立つ車掌の姿も視界から消え、ロンドとピアノだけの世界に入り込む。
静かで優雅な曲を。夜は静かな時間だ。生き物は寝静まり、静寂が世界を包み込む時間だ。
音のない時間。それがロンドにとっての夜だ。そんな時間だからこそ、自分の演奏に深く集中できる。昼間に弾くのも楽しいが、夜に弾くピアノは自然と静かで哀愁のある曲を弾きたくなる。じんわりと身に染みるような曲が思い浮かぶのだ。眠っている家族や隣人の迷惑にならないよう、夜中には弾かないようにしていたが、時たま真夜中に弾きたくなることがあった。
ピアニッシモで始めた曲はたっぷりと余裕を持って奏でていく。レガートを意識して滑らかに音を繋げていく。少しずつクレッションドを意識するも、大きくなりすぎないようにメゾフォルト程度に留める。コロコロとした細かい音や装飾をつけて星の輝きを表現する。伴奏はじんわりと身体に染みわたるように深く、音を響かせる。終わりに向けてテンポを下げ、優雅に締めくくろうと集中する。弾きながらも先ほどの楽譜に音や強弱をつけ加えたりして理想の曲を作っていく。
最後の和音を丁寧に、テヌートを意識して弾く。ピアノピアニッシモで締められた和音の余韻に重なるように列車の振動音が戻る。ガタンゴトン、ガタンゴトン、と列車の走る音にロンドの意識は現実に引き戻される。パチパチと手の叩く音が心地いい。
「素敵な曲でした」
「どうも」
車掌は穏やかに笑っている。ロンドは小さく頭を下げると、手持ち無沙汰な様子で適当な練習曲を奏でる。ゆったりとした曲を弾いたため、次は少しテンポの速い曲だ。有名な二十五の練習曲が集められたものの内、清らかな小川が流れる様子の曲を選んだ。曲の中盤、左手の音から右手の音へと繋がる部分が美しい曲だ。
「少し昔を思い出したよ」
「昔ですか」
ロンドはピアノの黒いボディに映る自分の姿を見る。白髪交じりの頭と目尻の皺に年を取ったと感じる。
「若い頃……それこそ、ピアニストとして活躍していたときのことだ」
「数多の賞を受賞されていた頃ですか?」
「そうだ。あの頃はこんな曲想で弾くことなどなかった」
とにかく情熱的に弾いていた。若さもあったからだと思う。熱を持った弾き方が評価された一方で、感情が溢れすぎていると言われたこともある。若い自分にはよくわからなかったが、年を経て確かに、込めたい思いが溢れてちぐはぐしていたように思えるようになった。
「昔はさっきみたいなしっとりとした曲を弾くのは嫌いでね。それこそ、激しくてテンポの速い曲ばかり好んでいた」
この小川の曲もテンポの速い曲だ。こちらのような曲が若かりし頃のロンドの性に合っていた。
「それでついたあだ名が駆けるピアニスト、でしたか?」
「そうだとも。元々せっかちな人間だったこともあって、良くも悪くもそう言われたものだ」
賞賛されるときも、批判されるときもそう言われたのだ。演奏に対してだけでなく、いつも早足気味で歩いていたことも要因のひとつだとも思う。
「そのように呼ばれるということもあってか、テンポの速い演奏と言えばロンド様と思う人も多かったようですね」
「速く指を動かすのも技術のひとつだ。だが、私としては誤魔化しにも通じてしまうと思う。勢いに任せて音を間違えてしまったり、飛ばしてしまうことなんてある」
ミスはない方がいいに決まっている。完璧に仕上げてコンクールやコンサートに臨むが、時々間違えてしまう。速い曲であれば、ミスは次の音でかき消してしまおうと思えばできてしまう。
それもある意味技術だが、悪く言えばズルだ。
「気づいたのだよ。確かに速い曲が弾けるということはそれだけの技術がある。だが、ゆっくりとした曲ほど、その演奏者の性格が現れると思うのだ」
ゆっくりとした曲の間違いはわかりやすい。明らかに音の響きが違うとすぐにわかってしまう。たっぷりと余裕を持って弾けるからこそ、弾きながらでも多くを考えることができる。その点、勢いだけでどうにかしようと思えばできてしまうテンポの速い曲はじっくりと考える前に次に進んでしまう。本当はそのようなことはあってはならないのだが、間違いを隠せる技術も時には必要となってしまう。
「それからだよ。私が教える立場になったのは」
ロンドは小さく息をつき、手を止めて夜空を見上げる。白銀の大河がゆったりと流れているように見える。
音楽は技術だけの問題ではない。曲、楽器ともっと向き合いたい。他者と競う音楽は飽きた。ゆっくりと音楽とつき合っていきたい。
駆け抜けるような音楽ではなく、ゆったりと周りを見ることができる音楽を。そう思ったロンドはしばらくしてプロのピアニストを辞め、音楽を教える立場を選んだ。
「生徒が殺到したと聞きましたが」
「厳選したさ。速く弾く技術を、情熱的に弾く技術を身につけようとした者が多かったが、そのような方たちにはお引き取り願った。私が目指したかったのはただ音楽を楽しみたい人を対象としたレッスンだった」
ロンドの指が勝手に動く。キラキラと輝く星の曲の変奏曲だ。有名な変奏曲は何度も弾いた。
「小さな子から私よりも年配の方まで。色々な世代を教えたものだ」
「なぜ、厳選されたのですか?」
「簡単なことだ。駆けるピアニストと呼ばれた私はもう一度学び直したかった。その時に一緒に学ぶ人は駆けるピアニストとしての私ではなく、ロンドという一人の人間と学びたいと思う人がいいと思ったからだ」
あのロンドさんに、と言う人は門前払いにした。駆けるピアニストの技術を欲しがる人々を教え子に取ろうとしなかった。引き下がらない人には数回だけと言ってレッスンをした。そのレッスンの内容はひたすら曲をゆっくり弾かせるというものだった。速いテンポの曲であってもゆっくり、一音ずつ確認させるように弾かせた。そのレッスン内容に納得のいかない人たちは辞めていくことが多かった。その人たちが求めていたのは駆けるピアニストの技術であって、ロンドという人間に教えを請いにきたわけではないと悟った。
速い曲をゆっくりと弾いて曲想や音を丁寧に考えることは必要。ロンドは基本中の基本であると考えているのだが、それが届かなかった。プロやピアニストを目指す若者たちにとってはそんなことはわかっているのだから、もっと別のことを教えろ、と言いたかったのだろう。
対して、ロンドのことを知らない人や音楽初心者、ブランクのある人たちは積極的に迎え入れた。
「基本的なことを学ばせた後はもう自由にさせた。弾きたい曲があるなら、それを練習してもらった。曲を作りたいと言ったら手伝いをした。連弾したいと言われたら指導もしたし、私が弾くこともあった」
変奏曲がひどく馴染む。キラキラと輝くようなこの曲をニコニコと笑いながら聴いていた少年の顔が思い浮かぶ。大きな目をキラキラさせながら、彼は隣に座って聴いていた。
「それこそ、この曲を弾いてくれとレッスン前に必ず言う子どもがいてな。自分で弾かないのかと尋ねると、私が弾く曲がいいのだと言って自分では中々弾かない子だった」
ロンドは苦笑する。やんちゃ坊主でレッスンも途中で飽きてしまう少年だったが、耳がよく何度か聞けば音を覚えて弾けてしまう少年だった。
「その子はどうなりましたか?」
「それが学者になったんだと。大学で数学の教授になったとか。確かに数学のできる子で拍の取り方が上手な子だった」
音符は数字で考えた方がわかりやすい、と彼なりの楽譜の見方をしていた。ロンドにとって興味深い考え方だと思った。
そんな少年はロンドの弾くこの曲の何がそこまで気に入ったのかよくわからない。先生弾いて、と可愛らしくねだる姿を見ると断れなかった。瞳をキラキラと輝かせ、そのときだけは大人しく耳を傾ける子どもだった。機嫌がいいときはずっと歌っていた。
「可愛い生徒さんでしたか」
「可愛い子だったよ。子どもとのレッスンは楽しかった。歌いながら弾く子もいれば、私の演奏に合わせて踊り出す子もいた。大人とのレッスンは感性の違いに気づかされることが多かった。年配の方たちは指が動かないと仰る方が多かったが、粘り強く練習する人が多く、こだわりが強かった。若い人は柔軟な発想の持ち主が多くて、新鮮だった」
ロンドは手を止める。静寂の中、聞こえるのは列車が駆け抜ける音のみ。
「本当に楽しい日々だった」
黒いボディには歳を取った初老の男が映っている。プロのピアニストとして、コンクールで賞を取ることを目的にしていたあの窮屈な日々が嫌だった。プロという枠から抜け出し、一人の音楽を楽しむ人間としての生活は楽しくて幸せだった。
「ピアニストとしての輝かしい生活を捨ててまで手に入れたものとして相応しいものでしたか?」
「失礼な物言いだな」
ロンドは再び指を動かす。星がまた瞬き始める。
両立できたら最高なのだろうが、選択した道に対して不満はない。充実した日々を送れたと自慢できる。
困ったように笑う車掌をピアノのボディ越しに見ながらもロンドは小さく笑う。
「相応しい、か……。そうだな。後悔はなかった」
それぞれの価値観や感性を持つ生徒に囲まれて刺激になった。プロのピアニスト同士、刺激になることはもちろんあったが、苛烈な日々だったのを覚えている。それに比べれば、ピアノ教室時代は穏やかだった。多くの人々と交流を持ち、それぞれが持つ音楽に対する認識を知ることができた。同じ曲を弾いても人によって異なる雰囲気を持つ。それが面白かった。
ロンドは、ところで、と車掌を一瞥する。
「車掌さんは音楽に詳しいのかな?」
「いいえ。楽譜を読むのも線を数えながらで……」
「ピアノのドの音がどこかはわかるかな?」
ロンドは先ほどの仕返しだとでも言うように車掌を見上げる。試すように笑うロンドに車掌は少し口を尖らせる。
「ここです」
車掌は黒鍵がふたつ並ぶ内、左の黒鍵の左下の白鍵に指を乗せ、その鍵盤を打鍵する。その鍵盤からポーンとドの音が鳴る。
「そうだ」
「それぐらいはさすがにわかりますよ」
車掌は頬を膨らませる。二十半ばほどの若い車掌の見た目よりも幼く見える表情に教え子の顔が重なる。からかうと車掌と同じように頬を膨らませて拗ねる少女がいた。彼女は華やかな曲が好きで、とくにワルツを好んだ。子犬が駆け回るようなワルツを上手に弾いていた姿が印象的だ。
「何か楽器をやっていたことは?」
「あまりありませんが……。昔、オルガンを少しだけ」
「オルガンを? では、さっきは失礼なことを聞いたかな?」
「いいえ。触ったことがある程度で……。リードオルガンを本当に少しだけ。曲という曲をちゃんと弾けるわけではありませんので」
ロンドは手を止めて車掌を見上げる。どこか寂しそうな車掌の様子にロンドは鍵盤を撫でる。オルガンに対して、何か思い入れがあるのだろう。
「少し一緒に弾かないか?」
「え? その、ちゃんと弾けるわけではないのですが……」
「そう言ったな。何、君が奏でるメロディに私が伴奏をつける。それでどうだ?」
「いいのですか?」
「いいとも。そういうレッスンをしたこともある」
それこそ、習い始めたばかりの小さな子どもにはピアノを弾くことは楽しいと思ってもらうために、思うように弾かせていた。そのメロディにロンドが伴奏をつけて一緒に弾く楽しさを知ってもらえるよう努めた。一緒に弾くって楽しいですね、と言って時々連弾のレッスンを申し入れる生徒もいた。中には、身近な人を連れて一緒に弾きたいと言う生徒もいた。それはそれでロンドとしても楽しかった。二人の関係を微笑ましく思いながら見ていた。
椅子は、と客室を見渡したロンドの隣に突然椅子が現れる。またどこから出てきたのかと不思議に思いながら、ロンドは車掌に椅子を勧める。
「お手柔らかにお願いします」
「そう言う君も、突然プロ顔負けの腕前を披露しないでくれよ」
「ですから、私はまともに弾けませんって」
車掌は苦笑しながら椅子に座る。右手の手袋を外した車掌はおずおずと鍵盤に手を乗せる。
「さあ、好きなように弾いてくれ。適当に私が伴奏をつける」
「ええ……。あの、きらきら星を弾いてもいいですか?」
「きらきら星か? もちろん、弾きたい曲があるのなら、それに合わせよう。途中で変えても構わない」
車掌は緊張した面持ちでひとつ息をつく。紺色の瞳でじっと鍵盤を見つめ、集中している。どの鍵盤がどの音になるのかわかっていても、指が思うように動くかは別だと、昔オルガンに触れたときに思った。
車掌は大丈夫だ、と自分に言い聞かせるようにもう一度深く呼吸をし、意を決して指先に力を込める。
ドドソソララソ
たどたどしい弾き方だ。一音一音確かめるようにゆっくりと弾く車掌に合わせてロンドもゆっくりと弾き始める。車掌のメロディを邪魔しないように、また混乱させないように伴奏はシンプルなものを弾く。
十二小節の短い曲だ。あっという間に曲は終わってしまう。緊張の糸が解れた車掌は深くため息をつくと、隣でロンドが拍手を送る。
「どうだ?」
「緊張しましたが、ロンド様のおかげで素敵な曲になりましたね」
「意外と車掌さんは真面目で誠実な人のようだ」
「ピアノの弾き方から人の性格を見るの、やめていただけませんか?」
車掌がむっとした顔をすると、ロンドはカラカラと笑う。
「悪いね、職業病なもので。音から性格や感情がわかるものでね。でも、正解だろ?」
楽しいときは音が明るく、悲しいときは音が暗くなる。調子が悪いときは普段間違えないようなところでミスをし、機嫌がいいときは指が思うようにスラスラと動く。隠し事をしている小さな子どもはとくにわかりやすく、音が不安定に揺れる。
音色はその人を映す鏡のようなもの。車掌のぎこちない音色は間違えないように緊張した音だ。少し硬い音だったが、丁寧に弾こうという気持ちが表れていた。メロディを担っているにしては大人しい音だった。慣れないことでも誠意を尽くそうとするその音色と主旋律を奏でるにしては控えめな音色からして、真面目で誠実、一歩下がった位置から物事を見つめる青年なのだろうとロンドは予測する。
ロンドがあれやこれや考えている隣で車掌は何も言い返せず、黙っている。それを見て思考の淵から戻ったロンドは豪快に笑う。紳士然としているが、こちらが本性なのかもしれないと車掌は目の前の初老の男を見据える。
「褒めているよ」
「光栄ではありますが、すべてを見透かされそうで少し怖いです」
「それもそうか」
ロンドは無邪気に笑う。
「ああ、こんな夜もいいものだ」
夜にこうやって誰かと弾くのは久しい。
「ありがとう、車掌さん。おかげでいい夜になった」
「夜はまだこれから続きますよ」
車掌はにこやかに笑いながら手袋をする。
「それもそうか。すまないね、まだ切符の確認があるというのに引き留めて」
「いいえ。皆さまが素敵な夜を過ごすために私にできることがあるのならば、協力します」
「それはありがたい。が、他のお客人に迷惑になっていないといいが」
そう言ってロンドは後方を見やる。隣の二号車の客人の青年は少し気難しそうな人物だった。ロンドが話しかけても必要最低限のことしか話さない寡黙というか、愛想のない青年だ。彼は車掌と何か話をするのだろうか。
「あの、最後に一曲、リクエストをしても?」
車掌は控えめに言う。
「うん?」
ロンドは何をリクエストされるのだろう、と気持ちを弾ませる。
車掌は窓の外を見つめると愛しそうに夜空色の瞳を細める。夜空に浮かぶ白銀の帯と同じ輝きが瞳に宿る。
「この列車の由来となった夜想曲を弾いていただけませんか?」
「ほう……。どの夜想曲かな?」
「お任せします」
「それは困った」
ロンドは苦笑するもすぐに鍵盤に手を置く。この夜に相応しい夜を想う曲。ロンドは深呼吸をし、一音目を丁寧に弾く。ピアノの詩人と呼ばれた彼の曲だ。
夜想曲第二十番 遺作
ガタンゴトン、ガタンゴトン、と夜を走る列車に夜を想う曲が静かに響く。天にかかる白銀の橋と同じ髪色の車掌は満天の星を思わせる瞳を閉じてその旋律に耳を傾けた。
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