第83話 雨空のあとには(3)

 安物のデジタル体温計の液晶には、37.6℃と表示されていた。

 昨晩から出てきた喉の痛みはどんどん酷くなり、今では声を出すのもきつくなってきている。

 ひっきりなしに咳が出て、悪寒も酷い。

「晃、酷くなるようなら会社に電話かけてくるんだぞ。」

 父さんがドアから顔だけ覗かせて言った。

「分かった・・・。」

「じゃあ、会社に行ってくるからな。」

 そう言ってドアを閉じた父さんは、足早に階段を下り、玄関から外に出ていく。

 いつもよりも出ていく時間が遅い。

 きっとギリギリまで家にいてくれたのだろう。

「朝飯食べて、薬飲まなきゃ。」

 僕は上体を起こして一度ベッドに腰掛けてから、膝を押すようにして立ち上がった。

 途端に襲ってくる酷い目眩。

「ぅおっ、景色が回る。」

 立ち上がると同時に目の前の景色が“ぐにゃり”と歪み、僕は立っていることができずに尻もちを突くようにベッドに腰掛けた。

「完全に風邪ひいたな。」

 原因は分かっている。

 昨日、雨に濡れた状態で、長い時間稲荷神社で雨宿りをしていたからだ。

 風邪をひかないために雨宿りしたのに、結局風邪をひいてるなんて本当に情けない。

「瑞希は大丈夫かな?」

 瑞希は肩から背中にかけてかなり濡れていたはずだ。

 寒いとも言っていたから、僕なんかより酷い風邪をひいている可能性は高い。

 僕は一度目を瞑り、少し落ち着いたのを確認してからゆっくりと目を開けた。

 目の前の景色は未だに回っているが、さっきのように倒れてしまうという事はなさそうだ。

 僕はしばらく回転する景色を眺め、不思議なことに気づいた。

 景色は向かって右から左に回転しているわけだが、一向に後ろの景色が見えてこない。

 まあ、後ろの景色が見えないのは当たり前としても、一方向に景色が回り続けているわけはないから、どこかのタイミングで元に戻っているはずだ。

 僕は瞬きもせずに、回転する景色を凝視した。

 10秒、20秒・・・。

「ヤバい、酔った。気持ち悪い。」

 自宅で船酔いのような状態になるとは、我ながら馬鹿なことをしたと思う。

「変なことやってないで、朝飯を食べて薬を飲もう。」

 確かリビングの引き出しに、市販の風邪薬があったはずだ。軽く朝食を摂ってから薬を飲んで、今日はなにもせずに寝てしまおう。

 相変わらず回転する景色に苦労しながら階段を下りリビングに行くと、父さんが準備してくれたと思われる朝食がテーブルの上に並んでいた。

 いつもトーストと目玉焼きぐらいしか作らない父さんであるが、具合の悪い息子のために朝から頑張って料理をしたらしい。

 テーブルに並んでいたのは、

 唐揚げ、

 ボイルしたウインナー、

 厚焼き玉子、

 ・・・。

 ふぅ。

 分かる。

 父さんが頑張ったのは、非常に良く分かる。

 どれも僕の好物だ。

 でも、具合が悪いときに食べられるメニューじゃない。

 特に唐揚げ。調子が悪いときに揚げ物とか無いから。

 男親って、こんなものなんだろうか。

 せめてお粥でも作ろうと思って、炊飯器の蓋を開けてみたが、中身は空っぽ。

 目眩を感じるのは具合が悪いからなのか、それとも父さんの行動のせいなのか・・・。

「卵焼きだけ食べるか。」

 自分で何かをする気力が失せた僕は、なんとか食べられそうな卵焼きだけ食べて、引き出しから市販の風邪薬を取り出して、口に放り込んだ。

 母さんが生きていた頃は、風邪をひくとしつこく体調を聞かれ鬱陶しいと思っていたが、体調が悪いときに一人になると途端に寂しくなるから不思議だ。

「とりあえず寝るか。」

 調子が悪いときには寝るに限る。

 風邪薬も飲んだのだから、寝て起きれば調子も良くなっているだろう。

 僕はふらつきながらも自分の部屋に戻るとベッドに潜り込み、布団を被った。

 途端に眠気が襲ってきて、夢の中に引き込まれる感覚に襲われる。

 風邪薬の箱には「眠くなる成分は含みません」って書いてあったけど、あれは絶対に嘘だな。

 そう考えながら、僕は深い眠りに落ちていった。


「晃ー!調子はどうだ?」

 勇斗の大声で目を覚ました僕は、状況を整理しようとあたりを見回した。

 ここは、僕の部屋。

 ベッドの横にちょこんと座っているのは瑞希。部屋の入口に立っているのは勇斗で、その後ろには優愛の姿も見える。

 そうだ、僕は珍しく風邪をひいて、学校を休んだのだった。

 窓の外がオレンジ色に染まっている。どうやら一日中寝ていたらしい。

 調子は・・・悪くない。

 きっと朝に飲んだ薬が効いたのだろう。

「晃君、大丈夫?」

 瑞希が心配そうに顔を覗き込んできた。

「晃が風邪ひくなんて珍しいよね。今年の風邪は馬鹿がひくのかな?」

 優愛がコンビニの袋を持って、僕に手渡してきた。

 中に入っているのは、スポーツドリンクとゼリータイプの栄養補助食品だ。

「私もプリン買ってきて冷蔵庫に入れといたからね。」

 朝から卵焼きしか食べていなかったから、ちょうどお腹が空いている。瑞希と優愛に感謝だな。

「大和と日菜乃も心配してたぞ。変なものでも食べたんだろうって。」

 勇斗が優愛の持ってきたコンビニの袋へ手を伸ばしたが、優愛に睨まれ、すごすごと手を引っ込めた。

「昨日、雨に降られちゃってね。濡れたままでいたら風邪ひいたみたいなんだよ。」

 帰ってからすぐに風呂にでも入れば良かったんだろうけど、面倒くさくて放置したのがいけなかった。

「でも大した事なさそうで良かった。」

 同じ状況であった瑞希が大丈夫だっていうのは、納得いかないけどね。

「じゃあ、俺ら帰るよ。あんまり長居しても申し訳ないし。瑞希ちゃんはどうする?」

 珍しく勇斗が気を使っている。明日、雨がふらなければ良いけど。

「私も帰るよ、夕飯のお買い物もあるし。じゃあ晃君、ゆっくり休んでね。」

 瑞希がスカートのプリーツを整えながら立ち上がった。

「晃、また明日な。」

「明日はちゃんと学校に来なさいよ。」

 3人が立ち去った後の僕の部屋はやけに静かだ。

「いつも通りのはずなのにな。」

 調子が悪いく弱気になっているのか、今日は一人でいるのが少し寂しい。

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