第46話 彼女は台風の目(8)
展望台から続く螺旋階段を駆け降り、岬から続く細い下り坂を全力疾走すると、大通りの手前で咲希ちゃんの後ろ姿を確認することができた。
よかった。何とか見失わずにすんだようだ。
僕のスプリングコートを羽織り、泣きながら走っている咲希ちゃんの姿は、ドラマか何かのワンシーンのようだと、不謹慎ながらも思ってしまう。
「咲希ちゃん、ちょっと待って!」
僕は咲希ちゃんの右手首を掴み、少し強めに引っ張った。
バランスを崩した咲希ちゃんが僕の方へと倒れ込んで来たため、意図せず咲希ちゃんを抱きとめる形になってしまう。
思いもよらぬ展開に、鼓動が高まるのを感じた。
海からの冷たい風が僕達の体を撫でたが、そんな事を気にしている余裕など微塵にも無かった。
と言うより、完全に思考回路がフリーズしていた。
この状況は何なんだ?!
16年間の僕の人生の中で、このような経験は皆無であり、何一つとして対応策を持ち合わせていない。
こんな事なら、女の子との関係について勇斗のように妄想・・・いやシミュレーションをしておくべきだった。
「何か言ったらどうなんですか?」
咲希ちゃんが僕の腕の中で顔を上げた。
ち、近いって!
少しだけ気が強そうな大きな目。
小さく形の整った鼻。
グロスを塗っているのか、艶っぽく光る唇。
目の前にある咲希ちゃんの整った顔から、僕は目を離せないでいた。
「晃先輩には・・・関係ないじゃないですか。」
少しだけ恥ずかしそうに咲希ちゃんが俯く。
長い睫毛に光る涙でさえも、彼女の魅力であるかのような錯覚に僕は陥っていた。
「それは・・・。」
駄目だ。
何か気の利いたことを言おうと思えば思うほど、次の言葉が思いつかない。
そもそも咲希ちゃんを抱きとめているこの状況を、どうすればいいのかさえ分からない。
遠くで聞こえる潮騒が、僕の行動を急かす。
いやいや、潮騒が急かすとかあり得ないから!それは完全に気のせい!焦る僕の気持の表れですからっ!
「それは・・・。」
「それは?」
再び顔を上げる咲希ちゃん。
咲希ちゃんと目が合った。
潤った咲希ちゃんの目が、真っ直ぐに僕を見つめる。
「それは・・・コートを返してもらわないと・・・。」
・・・。
・・・。
・・・。
流れる沈黙。
吹き荒れる海風。
目を伏せる咲希ちゃん。
やっちまった!
これは完全にダメなパターンだ!
タイムリープの能力があったら、間違えなく3分前に戻っている。
自分の恋愛経験値の低さに、頭を抱えたくなった。
程なくして、咲希ちゃんの両肩が小刻みに震えだした。
「くっ、くっ、くっ。」
「咲希ちゃん?」
僕は自分の胸が押し返される感触を覚え、一歩後にさがった。
咲希ちゃんが両手で僕の胸を押したのだ。
「あっはっは。晃先輩、この状況でコートを返せって、マジで無いわぁ。」
咲希ちゃんが体をくの字に曲げ、お腹を抱えて笑いだした。
「そんなに笑わなくたっていいじゃないか。」
「ゴメンゴメン。だって、コートって・・・あっはっは、ダメだ、笑いが止まらない。」
夜の岬に咲希ちゃんの笑い声が響き渡る。
この分だと、しばらくは笑いは止まりそうもない。
「いやぁ、可笑しい!久しぶりにこんなに笑った。」
咲希ちゃんが笑いやんだのは、それから10分は経ったのではないかと思えるほど後だった。
「はい、晃先輩。」
差し出されたスプリングコートを僕は受け取った。
「大事なコート無くさないようにね。・・・くっくっく。」
「もう笑うなよ。」
仏頂面をした僕を見て、咲希ちゃんは必死に笑いを堪える。
「じゃあね、晃先輩。今日はありがと。」
軽く右手を上げ、咲希ちゃんが踵を返した。
「咲希ちゃん、その・・・。」
気の利いた言葉一つかけられない自分に嫌気が差す。
「大丈夫。まっすぐ家に帰ります。」
咲希ちゃんが一度振り返った。
「帰ったら、お姉ちゃんにもちゃんと謝るよ。」
そう言った咲希ちゃんは「うまくできるかどうかは分からないけど」と付け加えた。
「家まで送ろうか?」
「晃先輩、下心が見えますよ。」
「違っ・・・。」
「ウソウソ。バスで帰るから大丈夫です。またね先輩。」
咲希ちゃんはそのまま岬の道を進み、海沿いの大通りへ歩いていった。
僕はというと、直前まで自分の身に起こっていた出来事を思い返していた。
女の子の失踪からの捜索。無事に発見できたと思った矢先の修羅場。
今までの人生、そしてこれからの長い人生においても、今日のような事件に巻き込まれることなど、きっと無い事だろう。
そう思うと少しだけ寂しい気持ちにもなり、僕は自嘲気味に笑った。
「今のは無いわぁ。」
突然、後ろから声がして、僕は弾かれたように振り返った。
「み、美桜先輩?!」
振り返った先にいたのは、細い木の陰に隠れるようにして佇む美桜先輩。
実際は木の幹に対して美桜先輩が太・・・いやいや、美桜先輩に対して木の幹が細すぎるので、全然隠れられてはいないのであるが。
いや、気にするところはそこじゃない!
「見てたんですか?」
「えぇ。」
「どこから?」
「えっと、「晃先輩には、関係ないじゃないですか」あたりから。」
それって、ほぼ最初からですからっ!
「速水君、「コート返して」は無いわぁ。」
眉間に手を当て、大袈裟に頭を振る美桜先輩。
うるさいっ!我ながら情けない対応だったと思ってるよ!
「うそうそ。」
そこまで言うと、美桜先輩は一回深呼吸をしてから姿勢を正し、僕に向かって深く頭を下げた。
「今回の件では、本当にご迷惑をかけました。そしてありがとうございました。」
「やめてください、先輩。」
僕は先輩に頭を上げるように促した。
「でも、咲希ちゃんは真っ直ぐに家に帰るでしょうか?」
「大丈夫だと思うよ。咲希も思うところがあったみたいだし。」
「分かるんですか?」
「そうね、これでもお姉ちゃんだからね。」
美桜先輩の表情は少しだけ清々しく見えた。
「咲希がバスに乗ったら、私もバス停に向かうよ。」
美桜先輩が手に持っていたトートバッグを肩にかけた。
「家まで送りましょうか?」
僕の言葉に軽く首を傾げる美桜先輩。
「やめとく。下心が見えるらしいし。」
美桜先輩が小さく舌を出た。
「先輩まで何を言ってるんですか?!」
思いがけない言葉に、僕は無様なほど狼狽えてしまった。
「じゃあね速水君。また明日。」
「おやすみなさい。」
小さく手を振る美桜先輩に、僕は軽く頭を下げた。
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