第44話 彼女は台風の目(7)

 家を出て30分後、僕は岬の灯台に到着していた。

「さ、さすがに、30分も、全力で漕ぐのは、つらい。」

 息を切らし、汗だくになりながら、僕は灯台の下に設置してある自転車置き場で自転車から降りると息を整えた。

 着ることの無かったスプリングコートが、自転車のカゴの中で恨めしく僕を見ているように感じる。

 海から岬に向かって吹き上がる強い風が、火照った体に気持ちが良い。この分だと汗はすぐに引いてくれそうだ。

 GPSが発達した現在では、この灯台が実際に航路を示すことはない。この場所は今や観光やデートスポットとしての役割しか担っていないのだ。

 灯台を巻くようにして設置された螺旋階段は、20段に少し届かない程度しかなく、その先に設置された展望台の高さは、二階建ての建物のベランダと同じくらいだ。

「風が結構強いな。」

 前髪を抑えながら、僕は階段を登った。

 油断していると、吹き抜ける突風に手に持ったスプリングコートが飛ばされてしまいそうになる。

 日は随分前に落ちてしまい、岬に押し寄せる波は暗闇に隠れ、その姿を見ることはできない。

 ただ大きな波の音が、闇の中から不気味に聞こえてくるだけだ。

 僕は息を整えながら、灯台の螺旋階段を上がった。

 螺旋階段を上がりきれば、灯台に灯された淡い光を囲うように展望台が姿を現す。

 咲希ちゃんはいるだろうか?

 ここにいなかったら、もう心当たりはない。

 僕は不安を感じながら、最後の段に足をかけると辺りを見回した。

 展望台に人の気配はなく、一見すると誰もいないように見える。

 しかし、灯台の淡い光に照らされ、コンクリートでできた三人がけのベンチの上から伸びるひとつの影を僕は見逃さなかった。

 明るい茶色の髪を垂らしながら、抱えた膝に顔を埋めたチェックの制服の少女・・・咲希ちゃんだ。

 強い風と、打ち寄せる波の音のせいなのか、咲希ちゃんは歩み寄る僕に気づいてはいないようだった。

 寒さのせいなのか、咲希ちゃんの肩は小刻みに震えている。

「咲希ちゃん?」

 小さく声をかけるが、気づく様子はない。

 僕は手に持っていたスプリングコートを広げると、そっと咲希ちゃんの肩にかけた。

 驚いて顔を上げる咲希ちゃん。

「先輩・・・何で?」

 一瞬、咲希ちゃんと目が合ったが、咲希ちゃんは弾かれたように顔を背け、再び抱えた膝に顔を埋めてしまった。

 しかし、咲希ちゃんの両目には光るものがあった事を僕は見逃さなかった。

「何ですか、先輩。やっぱり私と夕日が見たくて追ってきちゃったんですか?」

 抱えていた膝を下におろし、明るい口調で僕に声をかける咲希ちゃん。

 いつもどおりの咲希ちゃんだ。

 ・・・しかし、それが逆に痛々しい。

「残念でした!ちょっと間に合わなかったみたいですね。」

「そうだね。少し遅くなっちゃったみたいだ。」

 僕は静かに咲希ちゃんの横に腰掛けた。

「本当に、ゴメン。」

 咲希ちゃんの目から、一筋の雫が流れた。

「あれ?どうしたんだろ?ゴミかな、何だか目にゴミが入っちゃったみたい。」

 咲希ちゃんは慌てて両手で目を擦るが、とめどなく流れる涙はいつまで経っても止まってくれそうもなかった。

「ゆっくりでいい。何があったのか、話してくれる?」

 僕はなるべく穏やかな声でそれだけ言うと、そのまま目を瞑って咲希ちゃんの言葉を待った。

「別に・・・。」

 どれくらいの時間が経った頃だろうか。膝を抱えた咲希ちゃんがゆっくり口を開いた。

「別に、特別な事は無かったんですよ。」

 僕から咲希ちゃんの表情は見えない。

「ずっとお姉ちゃんと比べられて、駄目な子だって言われて・・・。」

 僕は黙って耳を傾けた。

「いくら頑張っても、褒められるのはお姉ちゃん。私はお姉ちゃんには敵わない。」

 咲希ちゃんが空を仰いだ。

「構ってほしくて・・・反抗して、髪を染めて、学校をサボって・・・。そしたら余計に親は私には無関心になった。」

 ああ、この子は寂しかったのか。

「そしたらさ、お姉ちゃんが怒るんだよ。原因を作ったお姉ちゃんだけが・・・。そんなの余計に惨めになるじゃん。」

 それは違う。美桜先輩は咲希ちゃんを心配して・・・。

「でも、本当は分かってるんだ。私が子供なだけ。お姉ちゃんは・・・。」

 咲希ちゃんがそこまで言ったとき、螺旋階段の方から咲希ちゃんを呼ぶ声がした。

「お姉・・・ちゃん?どうしてここに?」

 灯台の階段を駆け上がってきたのは、顎から滴り落ちそうなほどの汗を流し、肩で息をする美桜先輩だった。

 美桜先輩は、電話で僕が呟いた『灯台』という言葉を頼りに、ここまでたどり着いたのであろう。

 一度だけ深呼吸をして呼吸を整えると、僕達の正面まで歩を進める美桜先輩。

 次の瞬間、鋭い音が辺りに木霊して、咲希ちゃんの顔が左側に弾けた。

「あんたはどれだけ迷惑をかければ気が済むの!」

 目の前で起きた光景に唖然とする僕。衝撃的な出来事に一瞬何が起こったのか理解できずにいた。

「先輩、いきなり叩かなくても・・・。」

 我に返り、二人の間に割って入る僕。

「速水君、ご迷惑をおかけしました。でも部外者は黙ってて。」

 武道場のフェンス越しで見ていた、冷静で優しい美桜先輩とかけ離れた態度に、僕は一瞬怯んでしまう。

「た、確かに僕は部外者かもしれませんが、暴力は見過ごせません。まずは咲希ちゃんの話を聞いてあげて下さい。」

 この姉妹に必要なのは、お互いを理解することだ。

 「ふたりには悲しいすれ違いがある」そう感じた僕は言葉に詰まりながらも、美桜先輩に会話をするように訴えた。

 根はとても優しいふたりだ。話し合えばきっと分かり合えるはず。 

 二人の間に沈黙が流れた。

 風が吹き荒れ、波の音がひどく大きな音を立てる。

「・・・もういい。」

 沈黙に耐えきれなかったのか、口元を抑えながら咲希ちゃんは駆け出してしまった。

「咲希ちゃん、ちょっと待って!」

 僕の静止を振り切り、螺旋階段を駆け下りる咲希ちゃん。

 美桜先輩は、咲希ちゃんを叩いた右手を見つめ、動けないでいる。

「美桜先輩、何してるんですか!咲希ちゃんを追わないと!」

 失礼を承知で、僕は美桜先輩の右の手首を引っ張ったが、美桜先輩は動かない。

「速水君、ごめんなさい。私じゃダメみたい。妹を・・・咲希をお願いします。」

 深々と頭を下げる美桜先輩。

 本当は美桜先輩が追いかけるのが良いのだろうが、今は迷っている時間はない。

 僕は咲希ちゃんを追って走り出した。

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