第40話 彼女は台風の目(5)
夕暮れ時になると校舎は夕日を浴びて、茜色に染め渡る。僕の通う高校が一番綺麗に色づく瞬間だ。
この高校には夜間照明設備が無いため、校庭で活動する運動部はそろそろ帰り支度を始める頃だろう。
僕は弓道部横の自転車置き場に自転車を止め、武道場を覗き込んだ。
「弓道部は・・・もう終わったのかな。」
美桜先輩に状況を伝えなければと思っていたのだが、弓道場に人の姿は見えず、諦めざるを得ない状況だった。
まるで「咲希ちゃんはまかせろ!」とでも言わんばかりの勢いで後を追ったのに、結局は連れ戻すことはできず、さらに怒らせてしまった結末を報告するよりは、美桜先輩に会えないという現状の方が少しは気が楽のような気がした。
咲希ちゃんも「今日は帰ります」って言ってたから、今頃は自宅で仲直りをしているかもしれないな。
「うわっ、また弓道場を覗いてんの?いい加減にしないと警察に通報されるよ。」
僕が教室に鞄を取りに戻ろうかと思った矢先、後ろからよく知っている声がした。
振り返らなくても分かる。この声は優愛だな。
「一日一回は袴姿の美桜先輩を見ないと、元気が出ないんだよ。」
僕はふざけた調子でそう言うと、肩をすくめながら振り返った。
「何の元気だよ。キモっ。」
運動着にゼッケンを羽織り、バスケットボールを脇に抱えた優愛が笑顔で僕を罵倒する。何か良い事でもあったのだろうか、どことなく優愛は嬉しそうだ。
「いけない。あんまり長く話していると先輩に怒られちゃう。じゃあね、晃。」
校舎に設置された時計を‘‘チラリ’’と見た優愛は、バスケットボールを持ち直して踵を返した。
「ああ、また明日。部活頑張れよ。」
体育館に走る優愛に、僕は軽く手を振った。
美桜先輩は帰ってしまったのだから、これ以上ここにいても無駄だな。
僕は校庭の端を歩き、昇降口へと向かう。
「日菜乃、ゴメン。ボール取ってくれ。」
大和の声が聞こえた。
そういえば陸上部の友達が陸上部とサッカー部は隣同士で練習をしているから、たまにサッカーボールが飛んできて危ないって言ってたな。
体育倉庫の近くにマットを敷いて高跳びの練習をしている日菜乃は、特にサッカーコートに近いから、被害を受ける回数も多い事だろう。
「ナイスパス、日菜乃。ありがとう!」
「あんまりこっちに蹴らないでよね。」
「ボールを弾いたキーパーに言ってくれ。」
昇降口付近で大和と日菜乃のやり取りを不機嫌そうに聞いているのは、俗称『大和親衛隊』の皆様だろう。
謂れのない文句を言われても面白くないので、僕は早めに昇降口に入ることにした。
見慣れた校舎の風景も、時間ごとに別の顔を見せる。
太陽が傾く今の時間は、北側に設置されている廊下や階段には日が当たらず、少し寒々しい。今、誰かに「幽霊が出た」と言われたら信じてしまいそうな雰囲気だ。
早く教室に行って鞄を取ってきてしまおう。
僕は背筋が寒くなるような感覚を覚えて、階段を一気に駆け上がった。
茜色に染まる教室の中、彼女はひとり窓際で佇んでいた。
その姿は幻想的で、まるで高価な美術品を切り取ったかのようだ。
美しい。
そんな言葉が頭によぎり、僕は自分で恥ずかしくなって、頭を振りその言葉を打ち消した。
一ノ瀬瑞希。
それが彼女の名前。
振り向いた彼女の髪に夕日があたり、髪がキラキラと輝いて見えた。
胸の高鳴りを感じた。
さっきまでは普通に話せていたのに、今は顔を見るのも恥ずかしい。
「あれ?なんで瑞希がいるの?」
自分でも声が上ずっているのが分かる。
次の言葉が出てこない。
何か言わないと・・・何か・・・。
「補習か?」
やっとの事で絞り出した言葉が、この一言。我ながら気の利かないことを言っているとガッカリした。
瑞希が窓際から僕の方へと歩み寄る。
同調するように僕の足も動き、二人の距離は手を伸ばせばお互いの体を抱き寄せることができるところまで近づいていた。
瑞希が優しく微笑み、僕の頬へと手を伸ばしてきた。
心なし瑞希の目が潤んでいるように見える。
まさか、これは・・・。
瑞希の手に力が入るのを感じた。
僕は緊張で喉がカラカラだった。
「痛たたたたたたた!」
次の瞬間、僕の頬は瑞希の人差し指と親指で捻り上げられていた。
な、なんで?
「補、習、だ、と?」
瑞希の両目が吊り上がった。
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ!痛いから放して。」
僕は訳もわからず瑞希に謝罪する。
「何処に行っていたのかな?」
腰に両手を当てる瑞希は、明らかに機嫌が悪かった。
「えっと、ごみを捨てに・・・。」
「ほぉ〜。」
ヤバい。この回答は不正解だ。
じゃあ正解は?
・・・美桜先輩に頼まれて?
・・・咲希ちゃんとショッピング?
・・・いっそのこと、勇斗に呼び出された事にするか。
ダメだ。何を言っても不正解な気がする。
僕は脳をフル回転させて、様々なシミュレーションを繰り返すが、そのどれもが良い結末を生むようには思えなかった。
「はぁ、もういいや。」
瑞希が諦めたかのように、溜息交じりでそう言った。
「帰ろうか。自転車の後ろに乗せてくれるんでしょ?」
瑞希が通学用のスポーツバックを肩にかけた。
いったい何だったんだ?もう訳がわなからない。
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