呪われた君と、祝福のエシュト。

水風鈴

プロローグ ーあのときー

1

 ーー両手に、鉛のように重いものを携えている。それは何か。……そう。剣。つるぎ、だった。


「……ぁ……」


 知らず知らずに声が漏れる。……いや、息と表現した方が正しいだろうか。燃えるほど熱い息を吐き出しながら、しかし全身からは血の気が引いていく。同時に、温かい赤色の液体が全身に降りかかる。よく知っている、生臭い匂いだった。

 自分は、宵闇のように鈍く光る刃を持つ剣を突き刺した。刺していた。……何に? 何か。そうだ。


「ーー……っ!」


 刺した人を。目の前にいる、誰かを。ーー彼女の名前を、呼んでいた。



*  *  *



 夢を見た気がした。ねっとりと気持ちの悪い感覚がまとわりつき、喉奥から吐き気が湧き上がる。ーー嫌な夢、恐らく断じて良いものだっただろう。


「……う……」


 最悪な目覚めに呻き声を上げつつ、少年はベッドから上体を起こす。朝日が窓から差し込み、寝起きの眼を焼くように刺激した。


「ルウク。そろそろ起きなさい」

「もう起きてる……」


 母の呼ぶ声がドア越しに聴こえる。それに気だるげな声で返すと、ゆるゆるとした動作で自室から出た。


「ほら、顔を洗ってきなさい。今日はエリシアが来るんだから、いつまでもぼーっとしてちゃ格好つかないでしょ」

「わかってる。わかってる……」


 言われるままに洗面所へ向かい、顔を洗う。水は氷のように冷たく、否応なしに眠気が覚めていく。そして同時に、僅かに頭の中で残り、くすぶっていた悪夢の残りカスも洗い流されていった。


(なんの夢だったっけ)


 忘れた。最終的に、嫌な夢だったなぁ、という感想だけをルウクは抱いたのだった。



 その後は、母の作った朝食を終えると、ルウクは鏡台の前に座らされた。母はルウクの髪を櫛で優しく梳かしていく。海のように青く、まるで鬣のように強い癖のついた髪。それは生まれつきで、母いわく父によく似ているという。


「母さん」

「なに?」

「母さんって、おじさんのことが好きなの?」

「……ルウク」


 ルウクの父は、物心つくより前に亡くなっている。そのため、ルウクは父親の顔を知らない。

 だからだろうか。ルウクの髪を撫でながら父のことを懐かしむ母の姿を見ると、何とも言えない気持ちになる。ルウクから見た母は、とても寂しそうで、あまり幸せそうには見えなかった。


「だって、おじさんと話してるときは楽しそうだし。けっこん、したいのかなぁって」


 おじさん、とは友人であるエリシアの父親だ。半年ほど前に、エリシアと二人で引っ越して来た。妻は既に亡くしているらしい。

 そのためか、ルウクがエリシアと仲良くなったのを切っ掛けに、親たちが仲睦まじく話している姿もよく見られるようになったのだ。


「おれもエリシアも、べつに良いよ。兄妹になったら、今よりずっといっぱい遊べそうだし。それに、」

「ルウク。そんな簡単なことじゃないのよ」

「……そうなの?」

「そう」


 たぶん、母はおじさんのことが好きで。だから、一緒にいたら今より幸せなんじゃないか。そうルウクは考えたのだが、どうやら母は喜ばしく思わなかったらしい。鏡越しに見える母の表情は暗く、ルウクの言葉に傷ついているように見えた。


「気を遣わせてごめんなさい。お母さんは、おじさんと一緒になるつもりは無いわ。それはきっと、おじさんも同じだと思う」

「……」


 ルウクに見られていることに気が付いたのか。母は困ったような曖昧な笑みを浮かべて、ルウクの髪を梳く動きを僅かに速めた。


「あなたもエリシアも、そんなことは考えなくていいの。これからは、そういう話はしないこと。いいわね?」

「……うん。わかった」

「よし、良い子ね。……あっ。エリシアが来たみたいね。ルウク、迎えに行きなさい」

「うん」


 訪問者を報せる鐘が聴こえ、ルウクは玄関まで早足で向かう。


「エリシアー?」

「……っく。ぅ、うぅ……」


 ドア越しに呼んでみれば、返ってきたのはエリシアのしゃくりあげる声だった。慌ててドアを開けると、そこにいたのは何かを胸に抱えたエリシアの姿。長い銀色の髪が俯いている彼女の表情を見えなくしていたが、震える肩や地面に落ちる涙で泣いているのは容易に察した。


「おいおい……いきなりどうしたんだよ」

「うっ……うぅ。だって、だって、ぇ。ルウク、今日、誕生日……なのに。なのに、わたし……」

「それと何が関係あるんだよ?」

「ひっ、く。これ、……」

「……あ」


 エリシアは、抱えていたものをルウクに見せた。そこに有ったのは、全体的に反り返っている、リボンが巻かれた小さな箱だった。ところどころ、不自然な折れ目がついている。


「はやく、ルウクにおめでとうって言いたくて……走って、たら……そしたら、っ……」

「転んだんだな。お前、ドジだからなぁ……」

「ごめっ、ごめん、なさい。せっかく、おとうさんと一緒、お菓子、つくった……のに。ぜんぶ、ダメっ……」

「あああ、そんなに泣くなよ! へーきだって、へーき……!」


 とにかく、中を確かめてみないと分からない。ここは母に助けを求めよう。エリシアを宥めながら、ルウクは彼女の手を引いて家の中に招き寄せる。


「べつに良いよ。お菓子がダメになっちゃっても」

「でも、でも」


 泣き虫な少女に、ルウクは言い聞かせるように自分の気持ちを伝えていく。


「誕生日、祝おうとしてくれたのは嬉しいし。それに、エリシアに泣かれてる方がーー」


 その瞬間。音が消え、ぐにゃりと視界が歪んだ。霧に覆われるように、何も見えなくなっていく。


 そして。唐突に、その情景を切り裂くようなーー閃光が見えた。

 クローゼットの戸の隙間。暗がりに隠れていた少年にとって、その眩さは眼を突き刺すような痛みを伴った。反射的に目を閉じる。

 次いで、耳をつんざくほどの轟音。地が割れるような衝撃とともに、彼の身体は大きく跳ねた。

 揺れて、揺さぶられ、やがて倒れる。それらは一瞬のことだった。少年は、何を知覚できるでもない。ただ、翻弄される他なかった。


「……う……っ、」


 意識を取り戻したとき。その場は、とても静かだった。鼓膜を刺激するのは、涼やかな風の音だけ。……妙な胸騒ぎがした。


「……ぁ、ぐ……」


 痛い。痛い。いたいーー。

 大きな瓦礫が自分にのしかかっている。いつしか降り出していた雨が、少年の腹から流れる赤い液体と混じり合い泉を作り出していた。


「かぁ、さ……」


 どこにも力が入らない。必死に伸ばそうとした腕は、ただ地面を撫でるだけ。


「エリ……シア」


 誰も答えない。誰の声も聴こえない。気配も、ない。

 少年は痛みにえづきながら、無意識の内に感じた。

 ーーここには、自分しかいないのだ、と。


「…………」


 視界がぼやける。それが、頭の上の瓦礫から流れてきた雨のせいなのか。彼の瞳から溢れ出すもののせいなのか。そんなこと、少年にはどちらでも良いことだった。



 ーー唐突に、意識が戻った。

 うっすらと目を開ける。暗く滲んだ視界には、確かに誰かの姿が映った。


「……よく、この惨状で生き残りがいたものだ」


 女性の声。しかし、それは少年の母ではない。聞いたこともない人物のものだった。


「……か、ぁさ」

「悪いが、私は君の母ではないよ」


 母さんは、と聞く前に返される。

 瓦礫が退けられている。その上、さっきまで全身を満たしていた痛みも和らいでいた。

 しかし、少年はそんなことは気付かない。ただ、身体が動くことを幸いに、女性へと問いかける。


「ここ……どこ……」

「君の町だ」

「かあさん、は」

「……わからない」

「エリシアは……」

「……」


 女性は、一瞬だけ目を伏せた、気がした。


「……まだ身体が重いだろう。今は休むといい」


 起き上がろうとする少年を制し、女性は言った。優しくも、有無を言わせない声音だった。

 しかし、助かったことに安堵したのか。それとも体力の限界だったのか。少年の瞼は自然と落ちて、眠りの世界に落ちていく。


「起きたら、現実が待っている。それまで……おやすみ」


 女性の言葉を聞き終わる前に、少年の意識は完全に閉じた。

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