スターシップ・ドランカーズ(下)宇宙編
笹野 高行
第七章 潜入
第34話 空に浮かぶ影
首相官邸・屋上――
日曜日の夕刻だった。吠えるような群衆の声が、折からの南風に乗って繰り返し運ばれてきた。普段なら警備の警察官以外に
「不思議な光景ですな」と、老人は言った。東大名誉教授の井出だった。「あり得ないもの、幻としか思えないものと、泥臭い俗世の声が同居している――。現実を越えた光景です」
「世界の終わりの始まりを、見ているのかもしれません」と、そばにいた初老の男が言った。内閣官房長官の武藤だった。彼は白い長袖シャツの第二ボタンまでを外し、袖をまくり上げて、片手を腰に当てたまま空を見上げていた。
梅雨明け間近の白く霞んだ青空には、生まれてこの方、誰も見たことのない影が、見下ろすように浮かんでいた。その姿は、水色のバックボードに白いパステルで描いた横断歩道のようであり、天頂近くに達する頃には枠を省いた
異形の影を見つめて、井出は言った。
「あの若者たちは、今頃どうしているのでしょうね」
「若者たち…… 宇宙へ行った、あの二人でしょうか?」 訊くまでもないことだったが、武藤は訊いた。
「あそこにいるのでしょうか」と、つぶやくように井出は問うた。
武藤は首を横に振った。特に意志表示がしたかったわけではない。むしろ無意識のうちに、無力感が滲み出てしまったと言ってよかった。
「これは、私のような立場の者が口にして良いことではないのですが……」と前置きして、息も苦しげに彼は言った。「国家というものが、これほどまでに無力とは、これまで考えたこともありませんでした。様々な方法で接触を試みていますが、私たちは彼らから、全く相手にされていないのです」
「それは長官、米国も中ロも同じこと。国連でさえ、ただ立ちすくむのみです。しかし、私たちには、誇れることがひとつあります」
「誇れることですか?」
「ええ。勇敢にも敵の懐に飛び込んでいった若者たちが、他ならぬこの国の若者だったということです。この国という見方が
「そうですな。命がけでしょう。先ほども、宇宙空間で戦闘とおぼしき発光現象が見られたと報告がありました。もしかすると、向こうも、我々が想像する以上に厳しい状況なのかもしれません。手荒な扱いを、受けていなければよいのですが……」
「無事を祈りましょう」と、井出は言った。
「そうですね。地球の運命は、今や彼らの行動にかかっていると……」
「ここにいらしたのですか」と、声がした。ふたりは振り向いた。官房副長官の
「なんだね?」と、武藤は訊いた。
「それが、ちょっと厄介な事案がいくつか……」と言いかけて、佐伯は口ごもった。武藤は、井出を気にする佐伯に、構わない、と目で合図を送った。
息を整えながら、佐伯は言った。
「まず、気象庁から至急。赤道付近です。潮位が急に上がってきていると……」
「潮位? 海水か?」
「はい。ハワイの太平洋津波センターから速報が入っています」
「台風か何かじゃないのか?」
「いいえ。東大の、宇宙物理学の研究チームですが、数日前から
「佐伯君」と、武藤は遮った。そして、念を押すように言った。「まず、我々以外の場所では、めったなことを言わないでもらいたい。専門家の先生方や、関係各方面に事実を確認して、総理に発表を決めてもらう。我々が話すのはそれからだ」
「すみません……」 佐伯は、脂ぎった額を手で拭った。そして、井出の方にも目をやって言った。
「
「早いな」と言って、武藤は唸った。
「宇宙人たちの意図を、世界はすでに気づいていますよ」と、井出は言った。先の国際会議の内容が、厳しい箝口令にもかかわらず漏れ広がったことに加え、りょうもうブルワリーに各国のデスクが置かれたことで、情報は信憑性を得て世界に拡散していた。
「それともうひとつ……」と、佐伯が言った。
「今度は何かね?」
「今回の件と関係があるかはわかりません。エネルギー庁から、今しがた……。国内の原発が緊急停止しています。それも、ほぼ同時に、稼働中の原発全て、だそうです」
武藤と井出は、驚きの色を見せた。
「事故か?」
「それが、事故といえば事故ですが、どこも安全に停止したとのことです。ただし、西日本の広範囲で停電が発生とのこと。今のところ、原因はわかっていません……」
「今動いている所は、どこか?」
「高浜、
「福島? 福一か? 福一がどうかしたか?」
「それが……」と言って、佐伯は空を指さした。南の空に浮かぶ白い影に目をやって、彼は言った。「福島第一原発の上空に、マンタが現れたそうです。あれと同類かも知れませんが……」
「マンタ? イトマキエイですか?」と、いぶかしげに井出が訊いた。
「いえ~、それが、宇宙船のようだと……」
「なんでそれを早く言わん……」 慌てて武藤は体を翻した。
福島第一原子力発電所――
大地を
槌音はやがて、突き上げるような地響きを伴うようになった。廃屋となった発電施設の壁が崩れ落ちて、辺りに砂埃が舞い上がる。場内に鳴り響いていた警報音も、力尽きたように沈黙した。
近傍でロケ中だった地元のテレビクルーが、発電所を見通せる近くの高台に駆けつけた。だがその頃すでに、作業員は全員、発電所敷地からの退避を終えた後だった。地元局のカメラマンは、言葉を失ったまま車から降り、そしてカメラを構えた。テレビカメラのモニターに映し出されたのは、二隻の船体を並べた
男性レポーターの悲鳴にも似たレポートが始まった。そのマイクにも不気味な槌音は鳴り響いた。作業員たちを乗せたバスや社有車が、取り付け道路を次々と走り抜けてゆく。待避指示が、避難命令に変わったのだった。
そしてそれは、突然始まった。まるでミカンの皮が剥かれるように、地表一帯が切り取られ、
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