第74話 都会に漂う潮の香り

「お前、こんなところでなにしているんだ?」


 ビクニはその声にビクッと反応する。


 恐る恐る振り返ると両腕を組んで自分を見ている有川朝矢の姿があった。


「えっと……。その……、映画を見に来ただけよ」


 ビクニの口調は歯切れが悪い。それもそうだろうと朝矢は思った。なぜなら、彼女がこの場所にいること自体が本来ならありえないからだ。


「お前、もう二度と地上に現れないって制約されたんじゃなかったのか? 」


「えっと、そのおお。アハハ」


 ビクニは笑ってごまかした。


 二度と地上に出ない。


 あの騒動のあとにビクニは自分から海の底に存在する竜宮の国に戻っていった。すると竜宮の長をしている父親にこっぴどく怒られてしまったのだ。


 同時に今後一切地上にあがらないように制約を書かされてしまった。それ以来彼女が地上に姿を表すことはなく、朝矢たちもどうなったのかは知らない。


 その後、あの「時子」という女の孫と結婚したのか。


「時子」はあのまま消えてしまったのか。


 そもそもなぜあんな騒動になってしまい、朝矢たちが巻き込まれるはめになったのかすら曖昧なままに終わってしまったのだ。


「でも、もう帰るわ。美也子の晴れ舞台が見れたし、私としては満足している」


 彼女はそういった。


 会場を出るとその向こうにはビル群がどこまでも続いていた。人の流れが絶え間なく続いているが、だれも朝矢とビクニの存在に目を向けるものなどいない。


 ビクニは歩きだす。その足取りは軽い。


 ただ人の流れに逆らうように東京湾のある方向へと歩いていく。


「あの人はね。私とヤスノリを婚姻させることに必死だったのよ。なぜ? なぜ必死になるかって?」



 人の姿がまばらになり、朝矢は前を歩くビクニの後ろ姿を黙って眺めている。


「単純にヤスノリの幸せを思ってのことね。ヤスノリはそんなに長くなかったから、すこしでも長く生かすために私と契りを結ぼうとした」



 朝矢は彼女の言っていることがよく理解できずに首をかしげるが、口を開くことなく彼女の話を聞く。


「そういうことになっているのよ。私のような生き物と結ばれた人間は延命できるようになる。もしも永遠を手に入れようとすれば、その肉を食らえばいい」


 肉を食らう?


 その言葉には思い当たる節がある。朝矢は本を読むほうではないのだが、「祓い屋」という仕事をしているゆえにそれなりの妖怪といった類いの知識が触り程度にあるにすぎない。


「お前は人魚か?」


「うーん。そんな感じかしら?」


 ビクニはようやく振り返る。


 そのころには潮の香りが感じられ、海風が彼女の長い髪をなびかせている。



「でもね。私は人魚ではないわ。ただの竜宮の民よ。浦島太郎に出てくる乙姫みたいなものかしら」


 太陽が彼女の青い髪を輝かせ、その眩しさに朝矢は目を細める。


「でもね。いくら私の肉を食らったとしてもヤスノリがそれ以上長生きすることはないわ」


「死ぬのか? そいつは」


「そんなこと当たり前よ。命あるものは遅かれ早かれ死ぬわ。それは仕方ないことよ。それにヤスノリは十分に生きた。なにせ人の人生の10倍も生きているのよ。本来ならありえないわ。それを可能にしてしまったのよ」


「なんだよ。それ?」


 朝矢は顔を歪める。


「あのときにヤスノリを生かしたのは母よ。海に入ってきたヤスノリと時子を助けたのも母。なんの気まぐれだったのかはわからないけど、母は時子と幼かったヤスノリにその血肉を与えた。それによって彼らは海でもいきられるようになって、地上よりもずいぶんと時間をかけて年を取るようになった」


 太陽が西に傾いている。もうすぐ日が暮れていく。それでも行き交う車の数が減ることがない。彼女の背後には無数の明かりがまるで星が輝いているように人工的な光が灯っていく。


「もうそろそろいくわ。やっぱり、都会の空気は私にはあわないわね。じゃあ帰るわ。またね。祓い屋さん」



 そういって夕日が沈むのと同時にビクニの姿が薄れていった。


 ビチャン


 彼女が朝矢の前から消えると同時に水がはじけるよつな音がかすかに聞こえてくる。


 朝矢が潮の匂いがする方向へと振り向いくと、ビルの隙間から覗く狭い空にぽつんと星が輝いていた。





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