30. Missing link 〜先見視〜 #3(ロイ)

「何でだよ。和平条約だ『盟約』だって言ったところで、守られなきゃ何の意味もねえだろ!」

「何と言われようと、私は反対だよ」

 珍しくきっぱりと言ったその秀麗な顔を睨み付けながら、彼は怒りを込めて机に拳を叩きつけた。だが、相手はこたえた風もなく、ただ彼の手が痛んだだけだった。


 人間と精霊たちの間で和平条約が結ばれ、大戦は一応の終結を見たが、それでも各地ではまだ争いの火種がくすぶっていた。彼が憤っているのは、最後に残った黒狼こくろうたちの里が一夜にして焼き払われ、ほぼ全滅した、という報告を受けてなお、彼の提案をアストリッドが受け入れようとしないその態度だった。


「『盟約』を違えた者については、既に『狩人』たちがその命を狩ってよいということで話がついている。それだけでもやりすぎだと、私は思うけれどね」

「何がやりすぎなもんか。実際に黒狼が全滅したんだろう? ひとつの種族を丸ごと滅ぼされた状況を見ながら、まだ何をためらうことがあるんだ?」


 争いが続く限り、彼の悪夢は止まない。人々が互いの合意だけでは争いを止めないというのならば、その行動を縛る苛烈な罰が必要だ。

 「盟約」を世界の法則に組み込む。盟約それを破ったものは、その身に刻印を受け、逃れられぬ死の運命を負う。


 それが、彼の提案だった。

「本当に、そんなことが必要だと思うのかい?」

「そこまですれば、さすがに『盟約』を破ろうとする奴はいなくなるだろ?」

 そして、アストリッドはそれを実行するだけの力をもっていることを、彼はもう知っていた。「世界の均衡バランスを司る者」と呼ばれるほどの大きな力。呪いさえなければ、あるいは世界を破壊することさえできるほどに。

 だからこそ、かつて精霊の長老たちはアストリッドを長に定めることで、かせを嵌めようとしたのだろう。それは叶わず、逆に呪いという別の枷が嵌められることになったようだが。

「世界に対しての呪いはあんたが直接誰かを傷つけるわけじゃない。だから、その呪いが発動しても、あんたには返らない。それは、『盟約』を違えた奴に跳ね返るだけだ」

「そんな話をしてるんじゃない。私の身など別にどうなっても構わない。言っただろう、君が世界を愛するように、私も世界を愛している。呪いをかけるなんてもっての他だ」

「わかんねえ奴だな。その世界を守るために必要だって言ってんだろうが!」

「だとしても過剰だ。人は過ちを犯すことだってある。たまたま、誤って銃火器の引き金を引いてしまうことだってあるだろう。あるいは止むに止まれぬ事情で、禁呪を使うことだってあるかもしれない。そういう者たちをどうするつもりだい? 私の呪いは、そんな理由など一切斟酌せずにその命を奪うことになる。そんな馬鹿げたことが本当に必要だとでも? 君は、絶対に後悔する時がくるよ」

「この呪いの抑止力で、ほとんどの奴らがその使用を思い止まることができるなら、そんなわずかな件レアケースは許容範囲だ」


 ぎり、と拳を握り締めてその顔を睨むように見つめる。目の裏に浮かぶのは、かつて大きな亀裂に飲み込まれた、彼の村だ。いまだに彼はその村が炎に包まれる夢を見る。


「俺は、俺の大切なものを守るためなら何だってする。あんたがやらないというのなら、俺がやる」

「君には無理だ」

「できるさ」

 魔女の元であらゆる呪術を学んだ。アストリッドの力には遠く及ばないが、それでも薬の力を借り、彼の命の全てを賭ければ勝算は十分にあると踏んでいた。

「……本当に、そんなことのために命を賭けるつもりかい?」

「あんたにはわからない。あんたは先見視さきみじゃないから、どれほどその未来が恐ろしいか。その未来を変えるためなら、俺は何だって差し出してやるさ」


 その悲劇を知りながら、避けえなかったことへの後悔は、一生この身をき続ける。


 苛烈な眼でそう言った彼に、結局アストリッドは折れた。彼の考案した呪いを、自身の強大な力をもって、それまではただの合意に過ぎなかった『盟約』を世界全体に対する呪いとして再構成した。


 最初の数年こそ、その呪いはあちこちで発動したが、やがてその事実が知れ渡ると、ほとんど発動することもなくなっていった。それに従って、世界のあちこちを焼き尽くすような破壊はなりを潜めたから、彼の目論見はある意味、成功したと言っていい。

 それを見届けてから、アストリッドの元を離れた。その後は、世界各地を薬師として巡った。大戦の爪痕は深く、病んだ大地や汚染された水によって病んだ者たちは数知れず、彼の仕事は多く休む暇もなかった。

 そんな風にして時はあっという間に流れ、精霊たちと人間たちの協力のもと、ある程度の浄化が済み、薬師としての彼の役割もひと段落したところで、とある街に落ち着いたのが二十年ほど前だ。気がつけば、一族の中ではすでに亡きヨルンに次いで長く生きている。あとはのんびりと余生を過ごす、そんなつもりだったのに。


 今、彼はアストリッドがかつて言った通り、深く後悔する羽目になっている。思えば、あれほど真剣にアストリッドが声を荒げるのを見たのは、後にも先にもあれきりだった。



「ロイ?」

 呼ぶ声に、彼ははっと我に返った。見上げてくる眼差しは昼の空を映して鮮やかに青い。彼の過去についてはもう話してしまった。次は、彼女に迫っている危機を説明しなければならない。

 わかってはいても、それを口にするのは躊躇われた。それは、ディルとあの男が強く運命に結びつけられていることを明らかにすることに他ならない。そして、ディルはきっとそのままあの男の胸に飛び込んでいくだろう。


 首筋にはっきりと残る赤い痕を見れば、あの男の執着心は明らかだ。それが、たとえあらかじめ定められた「運命」によるものだとしても、そして、あの男がずっとそれに迷いを抱き続けていたとしても。それでも獣の姿のまま、あの男はディルの元へたどり着いた。

 残る迷いは、あの男の矜持きょうじが運命を操られることを是としないせいだろう。それでも、彼はディルを諦められなかった。それが操られているせいなのか、あるいはそうやって惹かれ合うことこそが運命で、アストリッドでさえも巻き込まれたにすぎないのかもしれない。


 そう、本当は彼は知っていた。確定した未来などない。彼が視ることのできる未来でさえ、いくつかの可能性の一つに過ぎないのだ。ましてや、あれほど強いその想いが誰かに操られているせいだなどと、気にする必要さえないのだと——そう言ってやればいいのだろうとはわかっていたけれど。


「……あんたのその腕に絡みついている呪いは、俺が考案デザインしたものだ。だから、俺は何としてもその呪いを解かなきゃならない」

「どうして?」

「どうして、って……」

「これは、私が罪を犯したからでしょう? それは仕方のないことだよ。ロイはロイの故郷を守りたかった。世界はこの呪いのおかげで平和になった。なら、この呪いを解いてしまったら、また世界が危機に晒されるかもしれない」

「それは……」

「私は、あの人を守れればそれでよかった。それに、別に長く生きたいとも思わない」


 ——どうせ、誰にも望まれないのなら。


 ゆっくりと身を起こして、こちらを見上げる瞳は静かで、そして昏い。何が彼女をそこまで追い詰めたのかは、もう明らかすぎるほどに明らかだ。


 あの時、アルヴィードと再会したディルが、何の躊躇いもなくその身を銃弾に晒したのを見て、目の前が真っ赤になるほどの激情を覚えた。どれほど彼が心を砕いて彼女の身を守ろうとしても、彼女はあっさりとその身をあの男のために犠牲にしようとした。

 黒い獣に噛みつかれ、その牙の痕を深く刻み込まれても平然としていたように。あの獣とあの男が同じ存在だと気づいてさえいないのに、彼女はずっとそうやって容易に自分の身を差し出してしまう。


 それが、恋心なのか、運命に操られているせいなのかはわからない。少なくとも月水晶に惹きつけられていたことについては意図を感じるが、それにしても彼女を絡め取ろうとする運命と、彼女の想いはおそらくは不可分で、だからこそ彼は苛立ちを感じるのだ。


「俺があんたを救う」

「ロイ……だから」

「あんたは仕方のないことだと言う。でも、そうじゃない。俺は俺の我儘エゴでただ、俺の村を守りたかっただけだ。そのためにはどんな犠牲をもいとわないつもりだった」

 だが、と続ける。その言葉を告げるのが、今が最適な時ではないと分かってはいても。

「俺はあんたを失えない」

 絞り出すようにそう言った彼に、だがディルはただ不思議そうにこちらを見上げてくる。どこまでいっても彼女にとっては彼は保護者でしかないのかもしれない。何度か唇を重ね、あの夜には抱かれてもいいと、そう口にさえしたくせに。


 頬に触れれば、不思議そうにこちらを見返してくる。怯えさせないように、それでも、自分でも思わぬほどに深く刻み込まれてしまったこの想いを、今はもう伝えずにはいられなかった。

「ディル、あんたが好きだ」

 驚いたように目を見開いて、ただ呆然とこちらを見つめてくる深く青い瞳をまっすぐに見つめたまま、ゆっくりと顔を近づける。拒絶されるかと思ったが、その瞳は揺れたまま、じっと動かない。

 顔を傾けて目を閉じ、わずかに開いた唇に、そのまま深く口づける。いつでも逃れられるように、引き寄せることもなくただ頬に手を添えて、繰り返し、何度も。


 目を開けると、まだディルは呆然とこちらを見つめていた。その表情に、彼は苦笑を浮かべる。

「……これが俺の本心だ。あんたがあいつを想っているのも知ってる。だから、返事は必要ない。ただ、何があっても俺はあんたのその呪いを解いてみせる。それだけは信じて、もう簡単に命を投げ出そうとしないと約束してくれ」

 まっすぐにそう告げると、ややしてディルの目元が朱に染まり、やがてこくんと小さく頷いた。そんな仕草に指先が震えて熱を持ったが、滑らかな頬から手を離し、可能な限りいつも通りに笑ってみせる。

「あんたの体が無事なら、このまま抱いちまうところだがな」

「……本気?」

「さあな?」

 くしゃりとその柔らかな銀の頭を撫でて、髪に口づけると、ほっと緊張を解くのが伝わってきた。実のところ、想いを伝えたところで何かが変わるとは、期待していなかった。


 何しろ、彼女と共に在る未来は、視えなかったから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る