3. 薬師と黒狼

 柔らかなシーツと、こちらを怯えさせるほどの強い金の眼差し。自分を抱き寄せる不器用な力任せの抱擁と、目眩がするような、甘さと辛さの入り混じったような匂い。

 何度、同じ夢を見ただろうか。初めは目覚めるたびに、胸が締めつけられるような思いをして嗚咽おえつを必死に堪えた。やがて、目覚める前にこれは夢だと自分に言い聞かせることを覚えた。目を開ければそこはただの森か、よくても宿屋の一室で、側には誰もいない。あるのはせいぜい自分の温もりだけ。


 そうやって覚悟をしておけば、目が覚めても落胆せずにいられるようになった。

 だから、今日ももう大丈夫だ。これは夢だとわかっているから。


 ——だが、目を開けると目の前に金の双眸そうぼうがあった。


 ディルは、とっさに手をついて起き上がろうとして、激痛でそのままもう一度倒れ込んだ。

「おいおい、大丈夫か?」

 気づかうような声は少し離れたところから聞こえた。それでは目の前のこの金色は……と改めて見れば、そこにいたのは黒い獣だった。そこそこ大きな寝台に、その巨大な身体を悠々と伸ばしている。

「お前、何してるの?」

 尋ねると、その獣はひとつ大きな欠伸あくびをして、ぺろりとディルの頬を舐めた。それからディルの上にのしかかると、匂いを嗅ぐように首筋に顔を擦りつけてくる。

「くすぐったいよ」

「仲良いな、あんたら」

 呆れたような声に目を向ければ、先日酒場で会ったばかりの男がこちらを見下ろしていた。

「……ロイ?」

「覚えててくれたかい」


 ニヤリと笑うその顔は、明るい日の光の下で見ると、あまり「彼」には似ていなかった。外見は彼よりもいくらか年長だろう。背は高く、がっしりと引き締まった身体は力強い。ほとんど黒に見える暗赤色の髪は短く整えられ、その雰囲気はよく似ているが、その青紫の瞳は柔らかく穏やかで、頬にまばらに残る無精髭を差し引いても遥かに人が良さそうだ。

 それでも飄々ひょうひょうとした中にも強い光を浮かべる瞳と、引き締まった体躯は男らしく、街ゆく女たちの目を惹きそうに思えた。


「俺の顔に何かついてるか?」

 まじまじと見つめていると、昨日と同じような台詞と共に、どこか癖のある笑みを浮かべたまま近づいてくる。

「……もしかして、助けてもらったんでしょうか」

「余計なお世話だってのは、わかってたんだけどな」

 一度は諦めようと思ったのだ、とロイは無精髭の残る顔に奇妙に人好きのする笑みを浮かべながら言葉を継ぐ。

「でも、どうしても気になっちまってな。戻ってみれば、あんたは完全に意識を失ってた。なのに、そいつは俺を見るなり唸りまくってあんたに近寄らせようともしない。包帯と傷薬を見せて、長いこと説得して、ようやくあんたに近づけたってわけだ」

 それから、腕の傷の応急処置をした上で、背負ってここまで運んでくれたらしい。

「すみません……」

「何、根がお節介な性質でな。気分はどうだ?」

「大丈夫です」

 そう答えたが、ロイはそれでも何かを心配するようにその顔を覗き込んでくる。だが、彼がディルの腕に触れようとすると、黒い獣が低く唸り声を上げた。その声に、ロイはうんざりしたようにため息を吐く。

「だから、なんにも悪さする気はねえって。お前も見てただろ? ディル、あんた三日も眠ってたんだぞ」

「そんなに……?」

 実のところ、術を使った後、意識を失うのはよくあることだった。いつも目覚めた時は一人なので、どれくらい倒れていたかを計るのは難しかったが、とはいえ、さすがに三日も倒れていた、ということは今まではなかったように思う。

「まあ、何度か目を覚ましそうになったことはあったがな。その度に、そいつが寄り添ってくれてたぜ」


 ロイも最初はその獣が寝台に乗ることはさすがに拒否したらしいが、目覚めないディルに献身的に寄り添うその姿にほだされたらしい。

「……おかげで毛だらけだがな」

 口の端を上げて、半ば顔を顰めて笑う顔に辺りを見回せば、確かにディルが寝ている寝台の上も黒い毛があちこちに散らばっている。

「すみません。後で、洗濯を手伝います」

「そうだな。そうしてもらえると助かる」

 気がつけば、左腕に包帯が巻かれているだけでなく、服も着替えさせられ、大きな男物の上衣シャツを羽織るだけになっていた。ということは、彼にのだろうか。見上げた視線の意味に気づいたのか、ロイは少し視線を逸らして指で頬をかく。

「あー、その何だ。あんたの服はぼろぼろになっちまった上に、血で汚れてたし、着替えさせてもらった。そいつも見てたから、誓って変なことはしてねえよ」

 黒い獣の方に目を向ければ、当然だとばかりに鼻を鳴らしている。

「まったく、頼もしい護衛だよ」


 からからと笑ってそう言う表情には屈託がない。ディルはやはりなんだか不思議な気がした。育った街ではこんな風に手を差し伸べてくれる者は、誰もいなかった。皆、自分が生きることで精一杯か、他者の窮状になど興味がない者ばかりだった。


「どうしてここまで?」

 おずおずと尋ねたディルに、ロイはふと表情を改めた。それからディルと黒い獣を交互に眺める。

「まあ、正直に言えば、あんたたちに興味があったんだ」

「興味……?」

「お前さん、その獣が何だか知っているのか?」

「何、と言われても」

 相変わらず首筋と言わず胸と言わず顔を擦りつけてくる獣の頭を撫でながら、首を傾げると、ロイは深いため息をついた。

「いいか、そいつはただのでかい犬じゃない。黒狼こくろうだ」

「黒狼?」

 それはただの黒い狼では、という思いがありありと顔に出たのか、ロイは両肩をすくめて笑う。

「そもそも黒い狼なんて普通はいないだろう。それにでかい」

「まあ、確かに大きいですね」

 だが、大きな獣など珍しいものでもない。この世界には魔力を持つ生き物も多い。それらはなべて大きな体を持っていることが多かった。そう言ったディルに、だがロイは首を横に振る。

「どっこいそいつは魔力を一切もたねえ。恐ろしいのは、そのくせ圧倒的に強いんだ」

「強い?」

「銃弾よりも速く動き、その顎と牙はなんでも噛み砕いちまう。普通、魔力を持たない生き物は、獣人や精霊相手には不利なもんだが、黒狼に限っては精霊たちでさえ道を開けると言われている。なぜなら、ほとんどの魔法が効かないからだ」

「魔法が効かない?」

「ああ。基本的に精霊たちは、魔力を使って敵対するものに攻撃する。風だったり火だったり、まあそんなものだな。ところが黒狼はそういった一切の魔法を寄せつけないんだそうだ」

「へえ」


 そう言われても、魔法をほとんど目にしたことのないディルからすると、それがどうすごいのかはあまり実感がわかなかった。気のない返事をどうとったのか、ロイはひとつため息をつく。

「張り合いのねえ聞き手だなあ」

「……すみません」

「特にこの世界じゃ、魔力の強さが基本的にものを言う。それを寄せつけない黒狼は例外中の例外ってわけだ」

「例外中の例外?」

 思わずまじまじとその黒い獣を見つめると、確かに金の双眸は鋭く、そのしなやかな身体は俊敏に動くだろうと想像はつく。そんな様子はやはり「彼」を彷彿とさせるが、ぱたりと尻尾を振っている姿を見れば、それでも恐ろしげな話はやはりどうにもしっくりこなかった。

「まあ、特別に強力な魔法なら、話は別かもしれないがな」

「特別……ですか」

 問い返したディルに、ロイの穏やかだったはずの青紫の瞳がふと強い光を浮かべた。じっとディルを見つめ、ややして何かを探るような低い声で続ける。


「例えば、あんたが使った『血の禁呪きんじゅ』とかな」


 その言葉に、ディルの心臓がどくんと不規則な鼓動を打った。

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