2. 血の水蛇
ディル、と名乗ったあの若者は、不思議と迷いなく森の中を歩いていく。男たちはさすがに不審に思ったのか、少し迷うようだったが、それでも欲望が勝るのか、その後を追い続けている。やがて泉が見えてきたとき、その脇に立つ影を見て、男たちが下卑た声を上げた。
「よう、お嬢ちゃん。俺たちを待っててくれたのかい?」
耳障りなその声に、だが若者はひどく落ち着いて静かな声で応える。
「何の用ですか?」
「なあに、少し一緒に楽しまねえかと思ってよ」
吐き気がするほどわかりやすい。相手も同様に感じたのか、呆れたように低く笑った。並の女なら怯えて身動きも取れなくなっていそうだが、どうもそういう様子には見えない。踏み込む
「私は、女じゃないよ」
「まあ、それはそれで構わねえさ」
懐から短剣を取り出してちらつかせながら、舌舐めずりせんばかりにそう言った声に、若者が深いため息をつくのが聞こえた。
「街になんて、寄るものじゃないな」
抵抗を示さないその様子に、男の一人が腕をつかんでその場に押し倒した。びり、と布の裂ける音と共に白い胸元が露わになる。
「何だ、やっぱり女じゃないか」
乱雑に胸元に手を差し入れニヤニヤと笑う。どうしてだか、若者は抵抗しようとしない。
「兄貴、俺はこっちな」
言いながら、もう一人の男が下肢に手を伸ばした。だが、下履に手を突っ込んだ男が、驚いたように声を上げる。
「な、なあ、こいつ女じゃない……?」
それでも、もう一人の男は欲望も露に白く細い首にむしゃぶりついたまま、下卑た声を上げる。
「別に珍しいことじゃねえ。その先を触ってみな、ちゃんと女のもあるはずだ」
さすがに止めようと踏み込みかけた時、若者がきらりと光る何かを手にするのが見えた。それは、男の一人が取り落としていた短剣だった。
あんなもので戦うつもりだろうか。同じことを思ったのだろう、男たちが嘲るように笑う。
「そんなもので俺たちとやり合うつもりか? やめとけよ。大人しくしてりゃ、優しくしてやるからよ」
その言葉に、若者がもう一度ため息を吐くのが聞こえた。うんざりしたように眉根を寄せて、自分を襲う男たちにもさほど関心がないように見える。まるで、全てを諦めているかのように。
「本当に、独創性のない」
どうするつもりかと見守っていると、若者は意外な行動に出た。その短剣で、自分の左腕を斬りつけたのだ。闇の中でさえ白く浮かび上がるその細い手首よりやや上のあたりから、鮮血が流れ出す。
「お前、何して……」
驚いて身を起こし、怪訝そうな声を上げた男たちには構わず、そのまま側の泉にその腕を浸けた。血が泉に広がる。
「もう、ちょっと疲れたな」
小さな呟きがその口から漏れた瞬間、泉の水が何かの生き物のように持ち上がった。それは複数の頭を持つ蛇のような形を取り、唖然としている男たちの首を締め上げる。水の蛇はぐるりとその身をよじらせると、その首を掴んだまま宙吊りにして、容赦無く締め上げた。男たちはバタバタと身動きをするが、なす術もない。その顔色はどんどんどす黒く変わっていく。
あまりの光景に、彼は漏れそうになる声を必死に堪えた。若者はただ呻き声を上げる男たちを静かな眼で見つめている。やがて、わずかに赤く染まった水の蛇は男たちを泉へと引きずり込み、そして、何も聞こえなくなった。引きずり込まれた男たちは浮いてくる気配もない。背筋が冷えたが、あまりに静謐な若者の姿にどうしてだかその場を動けなかった。
呆然と見つめる彼の前で、若者は腕を泉から引き上げると、その場に崩れ落ちた。草の上で横になったその体は、無残に裂かれた服から白い胸元が露になっている。その白さとは対照的に、左腕からは月明かりでもはっきりとわかるほどに鮮やかな鮮血が流れ続けている。
「もう、疲れたよ」
誰にともなく呟く声が聞こえる。
「迎えにきてくれるって言ったのに」
弱々しくなっていく声に、彼はようやく覚悟を決めて足を踏み出した。
だが、突然、大きな黒い影が飛び出し、彼を押し倒した。
「な……っ」
その声に、若者もこちらに視線を向ける。
「あなたは……」
だが、彼はそれどころではなかった。自分の上にのしかかっているそれを見て、背筋が凍る思いがした。大きな身体に漆黒の毛並み、尖った耳。鋭い牙と黄金に燃える炎のような瞳。
「
もはやこの世界でさえ、伝説にしか棲まないと言われる獣だった。魔力は持たないが、その牙と爪は鋭く、俊敏さはどんな獣も敵わない。一度狙いを定められたら、獣人でさえ逃れられぬというその獣は、今は彼の胸をその足で押さえつけ、睨みつけている。
「まさか、お前、あの時の?」
驚いたような声が上がる。黒い獣は彼をその足で押さえつけたまま、声の方を見やる。そろりと彼もそちらに視線を向けると、若者は大きく目を見開いていた。それから、ひとつため息をついて、黒いその獣に向かって話しかける。
「その人は大丈夫だ。離してあげて」
黒い獣は若者と彼を交互に見つめたのち、ゆっくりと彼の上から降りた。それから牙を剥いて唸って見せる。
「ロイ」
離れた場所から彼を呼ぶ声に目を向ければ、ひどく穏やかな表情が見えた。
「私は大丈夫なので、もう行ってください」
「だけど、あんた、その腕……」
「大丈夫です」
その腕からは少なくない量の血が流れている。それでも、若者はどうしてか幸せそうに微笑んでいる。
死ぬつもりか、と喉元まで出かかった言葉は、だが、獣の唸り声でかき消された。さっさと消えろと言わんばかりのその声に、それでもためらっていると、銀の髪の若者は静かに頷く。
「今日はありがとうございました。久しぶりに人とゆっくり話せて楽しかったです」
その顔に浮かぶ笑みは儚く見えるのに、夜空を映す瞳はそれ以上の干渉をはっきりと拒んでいた。
どうしようもない焦燥を抱えて拳を握りしめたが、結局彼はただ、立ち去るしかなかった。
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