第三部 エピローグ


 高校二年生にもなると、進路の選択という義務が実感を持って近づいてくる。大学で自分がなにを勉強したいのか、その後でどんな仕事につきたいのかも分からぬまま、ただ勉強だけはしていた。学校での成績は、いいほうなのだと思う。いつものように学校の課題を済ませて、軽く試験の対策を済ませたあとで、私は本を読みながらぼーっとしていた。小説の中で雨が降っているのと同じように、外では優しくない雨音が鳴り続けている。


 家のチャイムが鳴ったのは、そんな夜八時のことだった。父も母も仕事が立て込んでいるらしく、まだ帰ってきていない。本を置いてベッドから立ち上がり、そろそろと玄関へ向かう。この時間の来客は珍しいな。宅配なら雨の中申し訳がなかった。鍵を二つ外して、そっと開く。


 そこに立っていたのは、雨に濡れた結城比奈だった。


「比奈……?」


 彼女はなにかをぐっと堪えるように弱々しく唇を噛んで、ぽたぽたと落ちる雨粒を見つめていた。制服のまま、傘もささず、ここに来たの?


「比奈、わかんないけど、とりあえず、中入って」

「ねえ、濡れるの、気にする?」


 いつになく弱々しい、下手したら取り零してしまいそうな声を聞いて、私は彼女の言わんことを理解した。そっと抱き寄せると、しっとりとした感覚が私を包む。結城比奈の体に暖かさはなく、頼りなさげに、震えていた。



 比奈をお風呂に入れて、彼女の制服を干し、代わりになる服を用意している間に、両親が帰ってきた。最近の食卓での会話がなければ、大事なことを言うことさえ緊張していたかもしれないけれど、比奈が雨に濡れてやってきたことをすんなりと言うことができた。


 やがて結城比奈がお風呂から出てくると、申し訳なさそうに微笑んで、私を見た。そうしたかと思えば、今度は真面目な顔で、両親に頭を下げる。


「すみません、突然押しかけて」

「いえいえ、とりあえず座ってください」


 彼女の様子に、両親も少し身構えるようだった。比奈は父に言われたとおり、食卓での私の席に座った。父も母もいつも通りに座り、私は少し離れたところで立っている。


「どうかしたの?」


「……実は」母が聞くと、比奈は少し言いにくそうにした。「――祖母が、亡くなりまして」


 母は表情を変えなかった。変えてはならないと思ったからだろう。私と比奈は小学生の頃からの関わりだけれど、母とおばあちゃんはあのお泊まりの一件以来顔を合わせていない。比奈は俯きがちに、ゆっくりと話し始める。


 ここ数週間の間に、健康だったはずのおばあちゃんの様態は急激に変わり、入院を余儀なくされた。彼女はそう話始めた。結果として、おばあちゃんとは別れを惜しむ間もなかったこと。おばあちゃんの遺産ももはや多くは残っていないこと。残っているそれも、入院費や様々な出費で消えてしまうこと。親戚の家は何処も遠く、また、受け入れてもらうにしても時間がかかること。


 どれも、なにかおぞましく生々しい話だと思えて、自分のここにいるのが、ひどく場違いな気がした。結城比奈の口から、固く四角い現実的な言葉が零れてくる。


「まだ、なんの整理もついていません。必要なことも、心の整理も。病院で祖母を看取ってから、一人でいるのがつらくて……ご迷惑かとは思いましたが、ここに」

「それは――全然、構いませんよ。気の済むまでいてくれれば」

「親戚の家が引き取ってくれるまでここにいてくれてもいいですよ」


 父と母と、比奈の間で話が進んでいく。私はそれを聞いていて、焦りの気持ちが口から飛び出るのを抑えられなかった。


「ち、ちょっと待ってよ」

「なに? 咲良」

「親戚のお家って、どこも遠いんでしょ? 学校はどうするの? 大学は?」


 母が頷く。


「そうかもね。お姉ちゃんの部屋も空いているし、卒業するまでいてくれたっていいし」


 私と母のこの申し出に、比奈は首を横に振った。


「そこまでしていただくわけにはいきません。卒業まで、まだ半年以上もありますし、そんなに長い間、家族でもない私がお世話になるといのは、私の気持ちが許してくれません。……咲良ちゃんだって、大学に行くんでしょう? お金が必要なはずです」

「僕たちは、正直に言えば、結城さん一人くらいなら大丈夫なんだよ。おねえちゃん――うちの長女も自立しているし、問題ない。なあ、母さん」


 母がこくりと頷く。けれど比奈は、また横に振った。


「どうしても、行ってしまうんですか」


 父が優しい声色で問う。比奈は私のことを控えめに見てから、今度はゆっくりと頷いた。


「それは変わりません。今日はわがままを言いに来ました。受け入れ先が決まるまで、ご迷惑をおかけしますが、いさせてください。けど、その後のことは、もう決めてあるんです」


 父が納得したように息をつく。


 いや、いやいや……。


 姉が地方に出るという話を両親としていた時のことを思い出す。あの時も私は蚊帳の外で、置いてけぼりだった。私には到底力の及ばない領域の話が進んでいる、だから私はそこに関われない。でもそれはもう手放しに許せることじゃなかった。


「いや、そんな。ねえ、お父さんもお母さんもいいでしょ? もし比奈をうちに置いて金銭的に困るなら、私が進学やめて働いたっていいし、別に高校やめたっていいよ」


 私がなにかをするのに、結城比奈という存在以外に必要なことがあるだろうか。比奈が目の前から消えるのなら、私は別に何を失ったっていい。


「どうせ、何の思い入れもないもん。でも、比奈は違うでしょ? 高校入るために、どんなにがんばったの? 大学だって行きたいって言ってたじゃん。それなのに、本当なら家に置いてあげられるのに、努力を無駄にする必要なんて――」

「咲良、やめなさい」

「やめなさいってなにが? 進学をやめればいいの?」

「違う。わがままをやめなさいと言っているんだ」


 父の優しい声色が消える。


「わがまま……?」

「お前の言っていることだ、咲良。そんなことは、結城さんが一番よく分かっているんだよ。それでもしっかり考えて、こうすると決めた。お前がいまやっているのは、結城さんの気持ちを踏みにじるのと同じなんだよ」


 父を睨みつけて、比奈の方へ向き直る。


「だって、話してくれたよね。比奈、大学行って色んな人の役に立つって! 諦めるの? ここにいれば、諦めなくていいのに?」

「向こうに行っても、叶えられるかもしれない」

「叶えられないかもしれないじゃん! こんな状態で考えることが正しいことなんて有り得ない、冷静になって考えることじゃんか!」


「やめなさいと言っているんだ!」父の怒声が飛び、喉の奥がぐっとつかえた。父が声を荒らげるのは初めてだった。「お前が結城さんのために高校をやめたり、進学をやめたりしたら、一番傷つくのは結城さんだってどうして分からないんだ!」


「どうして分からないか……? だって……そんなの……」


 おかしい。どうしてここにいたら傷付くの。どうして一緒にいようって言ったら傷付くの。


 ここにいたって、別に誰も何も言わないのに。どこかの、よく知らない親戚の家に行くより、よっぽどいいはずなのに。私よりそっちを選んだ比奈の、その気持ちを考えろっていうのか。分からない、なんにも。どうしてそんな結論が出てきたのか、まったく。ここにいれば、二人でいられる。ここにいれば、夢を追いかけられる。ここにいさえすれば!


 でも、向こうではそのどれもができないのに。


「お父さんも、お母さんも、比奈を置いてあげられるなんて言って、本当はいられたら困るんでしょう。だからそんなこと言うんでしょ。普通だったら、説得してうちに置いてあげるはずだもん。なんで、こんな……っ!」


 居た堪れなくなって唇を噛んだ。きっとどれだけ私が不平を訴えようと、両親も、結城比奈も、改めはしないのだろう。本当に泣きたいのは彼女だろうに、私は部屋に駆け込んで声を殺して泣いた。


 愛、そういうのが本当にあって、神様とか、そういうのが本当にいて、私たちを見ているのなら、一体なにを思っているのだろう。なんのためにいるのだろう。なぜ、なんの取り柄もない、目標もない私に何事もできるような環境を与えて、本当にそれが必要な、努力家で、人に好かれてあって、笑顔が素敵な女の子から、全てを奪うのか。


 何の不自由もない生活。父もあり、母もあり、お金もあって、無駄に広い家もあって。勉強ができようと、本が読めようと、私は――そんな生活の中にあって、私は一体なにを得ているだろう。彼女を追いかけるようにして生きてきて、同じように剣道を始めたって何も変わらなかった。同じ高校に通ったって何も変わらなかったではないか。父もなく、母もなく、祖母もなくし、お金がなくて、家はぼろくて、勉強は苦手で、本はほとんど読まなくて、それでも彼女は、無理だと言われた高校にも受かって、誰からも好かれて、私のように嫌われなくて、人のために生きることができて、どんな状況でも笑顔で――彼女は自然に完璧になったのでも、人気になったのでもない。努力の末にそう、なるべくしてなったのだ。それなのに、どうしてこう、突き落とされなければならないのか。


 彼女に降りかかるあらゆる不幸が、すべて私のものだったらいいのに。


 私にある全ての幸せが、彼女のものになったらいいのに。


 真っ暗な部屋でひとしきりそうして泣いて、叫びたくなるのを、必死に堪えた。部屋から出るのも億劫で、私はただ、歯を食いしばって、俯いていた。


「……咲良ちゃん?」


 姉の部屋から、押し殺した声が聞こえる。襖だけで分け隔てられた姉妹の部屋は、小さな声でさえ届く。私とお姉ちゃんはいつも、母に怒られるまでそうして、話をしていた。


「お姉ちゃん……」

「……ごめんね、お姉ちゃんじゃないよ。比奈」

「…………私、わがままで」

「いいの。ねえ、開けていい?」

「だめ、むり」

「……そう、ごめんね。――必要な準備をしたり、荷物をまとめたり、病院にお金払ったり、書類作ったり、受け入れ先を決められたりして、多分、出て行くのは遅くて一ヶ月後になると思う。早くても、二週間」


 二週間でも、一ヶ月でも、同じようなものだった。たかだか十八歳弱の彼女に、たったそれだけの期間で心の整理などできるはずがない。ましてや、いろんな準備に追われるのに。


 私が返事をしないでいると、比奈の動く音がした。


「ううん、やっぱりそっちに行く」

「あっ、待って、だめ」


 泣いて腫らした目を見られるのが嫌だった。


 けれど彼女は襖をそっと開けて、座り込んだ私のところへ来る。


「暑いの、気にする?」


 首を振る。彼女が、覆いかぶさるようにして抱きついてくる。


「私のために泣いてくれてるんだよね」

「違う、私の勝手で泣いてる」

「……そっか。でも、泣いてる理由は同じだと思うよ」


 はっとして顔を上げると、彼女もまた、瞳を潤ませていて、今にも零れ落ちそうな涙を、必死に必死にそこで食い止めようと、唇を噛んでいた。それを隠すように、彼女は私を強く抱き寄せる。


「比奈……」

「ねえ、咲良ちゃん」


 小さく震える声。彼女を抱きしめようとして腕を動かしたけれど、触ったら壊れてしまいそうで、やめた。彼女の声が、耳のすぐそこで空気を震わせる。掠れたような声、床に落ちてしまいそう。


「私と比奈のは、全然違うよ」

「ううん、違わない。人間って、何かしたいのに何もできないときが、一番悔しくて、哀しいんだよ。あたしもそう、咲良ちゃんも。だから、一緒の理由で泣いてるの。――しょうがないことって、この世にはいっぱいあってさ。おばあちゃんが死んじゃったのも、そのうちの一つ、でね。それで、えっと、それで……学校に行けなくなってしまうのも、それは仕方のないことなのね。でも、でもね……、咲良ちゃん、私っ。私、学校、続けたかったな……。卒業まで一緒にいようねって約束した友達になんて言ったらいいかな――、進路のこと本気で相談に乗ってくれた先生になんて言えばいいかな――、近くでいつも私のこと見守ってくれた咲良ちゃんに、なんて言えばいいのかな……っ。やり残したこといっぱいあるよ。咲良ちゃんに言いたいことたくさんあるよ。もっと勉強したかった。咲良ちゃんとお勉強会したいななんて思ってたんだよ。学校帰りに、どっか喫茶店でも寄って、大人の真似事なんかして。――咲良ちゃん、咲良ちゃん……? 耳、塞いでくれる? そう、手を。絶対に、聞いちゃだめだからね。とても、おかしなことを言うの。咲良ちゃん……私――」

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