第10話
なにかの本に書いてあったのをよく覚えている。
小学校は集団行動を学ぶ場であり、中学校は上下関係を学ぶ場であると。高校や大学もそのあとに続いたような気がするけれど、いまの私には関係がなかった。
私は、この文句を身をもって体感しているのだ。つまり――。
「結城先輩に相手してもらって、なんか勘違いしてるんじゃないの?」
こういうことだった。
相手は一人だけではない。数人の同級生の女子に囲まれて、剣道場の更衣室に追い詰められるようにしていた。正面にいる女子が、私の目を突き刺すように見つめている。艶がかった床に反射する夕陽もまた鋭く、私は目を薄める。他の子は黙っているだけだった。挑発的な表情の人もいれば、どこか遠慮がちな人もいる。剣道場の更衣室にいるのに、剣道部ではない子もいた。
「……勘違いってなに?」
「先輩たちに媚び売って、試合出させてもらってるんでしょ?」
この場所での記憶が、これに塗り替えられるのはどうも不満だった。私はこの空間を、結城比奈との夢の場所だと思っているのに。こんなどす黒い嫉妬で塗り固められたら、私はここを愛せなくなってしまう。
「媚を売るもなにも――」
ただ、私はすでに、小学生の時の自分とは違っているのだ。下を向いて唇を噛んで、ただその嵐が去るのを待つほど、弱くはなかった。
「私を試合に出させてくれるのは、先輩たちじゃなくて、堺先生だよ。それに、もし試合に出たいのなら、きちんと練習したらいいのに。矢代さん、この前も練習来てなかったでしょ」
大人数で囲めば萎縮すると思ったのだろう。私がこうして彼女の目を見て言い放ったら、目に見えてうろたえた。
「それとも、先輩たちに構ってほしいの?」
「なに言ってるの。水橋さ、いい加減にしなよ。状況、見えてないわけじゃないでしょ」
「状況? どうなってるの?」
周りの子たちは、私と彼女の会話になにも言うことはない。ただ傍観を決め込んでいる。この、リーダーのように振る舞っている子が、今まさに顔を怒りに赤らめているのだから、助けてあげればいいのにも関わらず、でもその勇気はなかった。
数秒。
そうして、睨み合いが続いて、ふとした瞬間、目の前を素早いものが駆けていって、すぐに私の頬に鋭い痛みが走った。
「こういう状況! 分かってないわけないでしょう? あんたは今、あんたのことが嫌いな人間に囲まれてて、どうしようもないってこと!」
思わず笑いが漏れて、また、私も変わったものだと思った。変わったのだとしたら、結城比奈のおかげだ。私の行動一つ一つに、比奈が生きている。平手など、目に入った砂に比べればなんでもないことを、この人たちは知るよしもないだろう。両親に愛されて、甘いものだけ食べてきた人たちに、私の我慢などはっきりするはずもない。
どれだけ比奈に憧れたって、彼女が私と二人きりの時に見せる表情や態度を、この人たちは知ることもできないのだ。比奈の首筋も鎖骨のすじも、私がただ一人見ることができる。そう考えると、この人たちの行動の、虚しさと言ったらないと思った。
何も言わず、ただその、虚しい女の子の目を見つめる。怒りと、渾身の暴力がなんの意味もなさなかった羞恥とで、真っ赤に染まったその顔と、目を。
「なんなの!」
叫ぶ。私の髪の毛が、力任せに掴まれた。
「なんなの、なんなの! 先輩にちやほやされて、調子乗って、こんな生意気なくそ女に!」
痛くはなかった。生きていれば、もっと痛いことをたくさん知ってる。竹刀で面を食らう方がよっぽどしんどかった。殴られた頬も、掴まれて引っ張られる髪も、その叫び声を受ける耳朶も、なにも、私には意味がない、とことん無意味だ。痛いことはもっと知ってる、痛みを和らげる幸せも、たくさん知ってる。
だって、もう下校時刻じゃないか。いま、私の髪の毛を掴んでいるこの子も、周りで見ているだけの彼女たちも、これから傷を負うのだ。
「――なに、してるの……? 矢代ちゃん?」
更衣室の扉ががらりと開いて、そこから姿を現したのは、向日葵のような結城比奈だった。
「あっ、結城先輩……? えっと、これは」
「みんなも、何してるの? ねえ、手を離して!」
唖然として掴んだままだった手がようやく私の髪から離れる。
「咲良ちゃん、大丈夫? 痛くない?」
すぐに駆け寄ってきた比奈が、掴まれていたところを優しく撫でる。私はこくりと頷いた。本当になんともないのだ。むしろ、いつもこの時間になると私と比奈がここに集合して、そして一緒に下校するということを知らずにいた彼女たちのほうが、心配こそしないけれど、よっぽど同情できた。こんなことやめておけばよかったのに。
「先輩、あたしはなにも――この、水橋さんが」
「お願いだから、静かにしてて! 先生には言うし、私はあなたが何をしていたか見た、もうそれで全部だよ。もうここから出ていって! 二度と咲良ちゃんに近づかないで!」
こんなに激しく怒る比奈を、私はいままでに見たことがなかった。笑顔だけがよく似合う女の子の怒りは、仏頂面の私よりずっと意味がある。言い放つともう彼女たちのことなど無視して、比奈は私の身体だけを気にかける。もうなんの気力もなくなったのか、彼女たちは私を睨みつけていくようなこともなく、意気消沈した様子で、そろそろと更衣室から出て行った。
二人きりになり、静かになる。
「ほっぺた……叩かれた?」
「うん。でもなんともない」
「髪の毛は? 他は大丈夫?」
あまりにも心配する比奈を見て、思わず笑みが溢れてしまう。
「大丈夫だってば。どこも痛くないよ」
「……どうしてあんなことされてたの?」
「……私の態度が腹立ったんだって。そう言われちゃったら、何も言い返せないよね。だって実際、私は比奈ちゃんみたいに愛想ないし」
「あんなことされる理由には、ならないよ。ほんと、咲良ちゃん……変わらないよね」
首をかしげる。てっきり、私は変わったものだと思っていた。
「私、変わらないかな」
「うん、変わらないよ」比奈は私の手を握り、胸のところへと持っていく。「我慢するところも、強いところも、自分はなんにも悪くないのに、自分のせいにするとこも、出会った時から、なにも変わってない」
「変わった方がいい?」
視線が交わる。熱いくらいに、まるで恋人がするように、じっと。やがて比奈はきゅっと目を瞑って、ゆっくりと首を横に振った。ポニーテールが、優しく揺れる。
「比奈がそう言うなら、変わらないよ、私は」
変わらないと言われて、変わって欲しくないと言われて、少し不思議な気分になった。それは嬉しくもあったけれど、同時に頭に疑問符も浮かんだ。もし、私が彼女にも分かるくらいに--それこそ、比奈やお姉ちゃんのように変わってしまったら、結城比奈はどう思うのだろう。
手を握る力がずっと強くなって、比奈はなにも言わないのに、何が言いたいのか少し分かる気がした。
変わらないで、そのままでいて。手を握る強さは、その束縛だ。私は自分で自分のことを、変わることができたと思っていたけれど、比奈が違うと言うのなら違うのだろう。変わらないでと言うのなら、変えないのだろう。身長だって伸びないし、胸だって大きくならない。私がなにかをしようとするのは、すべて、目の前のこの、細い女の子のためなのだから。でももう、身長が比奈を越しそうだ。昔は、ずっと比奈のほうが高かったのに。
時と季節が、私たちを変えてしまおうとする。変わらないで、そのままで。そうあろうとしているのに。
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