第8話


 結城比奈は二年生にして、既にレギュラーに選出されていた。我々後輩からは羨望の眼差しで見られ、先輩たちからはずいぶん可愛がられている。後輩に囲まれれば照れくさそうにしながら歳上としての貫禄を見せ、先輩に囲まれれば、はにかみながら可愛らしくする。比奈はきっとそういうのを意識してやっているわけではない。人に好かれるための要素が、生まれた頃には揃っていたのだ。


 一方で私は、彼女の真逆であった。剣道も他に漏れず、年数がものを言う競技だ。比奈のようにはまるでやれないし、同級生に仲のいい人はいない。運動神経も悪いので一向に剣道が上達せず、先輩たちからは目も向けられなかった。試合に出ることなんて夢のまた夢、空を掴むようなものだった。なぜ剣道をやっているかも周りには分からなかったに違いない。そのくせ、みんなの結城比奈とは特別仲良くしているので不思議がられた。


 けれど、結城比奈が個人的にじっくり教えてくれたこともあって、まったく下手なままではなかった。スタート地点が人一倍遠いのですぐに結果が出るということは無かったけれど、時間が経つにつれて、私もすこしずつ試合に出させてもらえるようになったのだ。先輩たちからも認められるようになっていって、褒められることも増えた。顧問の指導、結城比奈の指導、稽古、自主練、色々本を読んだりもした。肉体的にも精神的にも厳しいことばかりだったけれど、私は生まれて初めてやりがいと言うものを覚えた気がする。勉学ばかりだった日々が、打破されたのだ。


 そういうことを続けていたある日のことだった。その日は試合で、私はスタメンではなかったものの、お手伝いとして会場に入っていた。お手伝いというのは主に審判係だ。公式戦でない限り、審判は部員同士で行われる。他の学校の生徒とコミュニケーションを取ったり、選手の一手を正確に判断するというのは大変だし手に汗かくほど緊張はするものの、目の前で試合を見られること自体はそれなりに楽しかった。


 他校の試合が終わり、審判としての役割から解放された私を、ちょうど顧問の先生が手招きした。


「水橋、調子はどうだ?」

「……審判はしっかりできていると思います。どこかおかしかったですか?」

「ああいや、身体の調子のことだ。実はさっきまでの試合で、次鋒が踵を痛めてな。公式戦だったらそうはいかんが、これは練習試合だし選手の替えがきく。咲良どうだ」

「……私が? 出るんですか?」


 顧問がこくりと頷く。太い眉毛に皺が寄った。剣道の団体戦は先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の五人で一チームが構成される。人によって意見は違うが、重要度の高い順から並べるとしたら中堅、大将、先鋒、副将、次鋒となるのが一般的だろう。つまり一番重要度の低いポジションに配置されることになるわけだが、それでも五人しか出られない試合に出られるのだから、それに不満があるわけではない。自分が試合に出ることに不安がある。


「咲良は練習じゃあひょろひょろして弱そうに見えるが、試合となると冷静で悪くない。次鋒が不満なら編成も変えてやれるが」

「いえ、大丈夫です。支度してきます」


 頼むぞと言い残し、先生はどこかへ去っていった。震える手をもう片手で抑えて、固い息を吐いた。


 もっと他にいい選手がいるとは思うけれど、きっと比奈の指導が生きているのだろう。評価され始めているんだ。ここで大きく戦績を残せれば、比奈みたいに格好よく剣道を続けられるかもしれない。


 思わず防具の紐を締める力も強くなった。スタメンとして起用されている先輩方は、結城比奈も含めてみな優しくしてくれる。すでに先生から報告を受けたのか、大将の先輩が励ましにきてくれた。大将が去ると、今度は比奈だ。


「咲良ちゃん!」

「私、大丈夫かな」

「練習通りにやろう。負けても死ぬわけじゃないから」

「死ぬかも」

「人工呼吸してあげるから! がんばろ!」


 そんな間の抜けたやり取りがあり、緊張したまま私はスタンバイに入る。自分の前の人、つまり先鋒が試合をしている間に、私は面を付けなければならない。これが何より重要だ。ゆるく縛りすぎると試合中に外れそうで集中できず、きつすぎるとそれはそれで集中できない。面を付ける前の手ぬぐいも大事だ。これが試合中にずれてきたら最悪である。ここで失敗することで、試合も失敗する。一つ一つの動作に気を配りながら、防具をしっかりと身に着けていく。先鋒の試合を見る暇はない。付け終わると同時に、先鋒の試合が終わった。先鋒は大勝利。二本しっかりと勝ち取り、満面の笑みで私にバトンタッチする。


「咲良ちゃん、がんばろ」


 背中のほうで結城比奈が声をかけてくれて、私は頷きを返そうと振り向いた。


 ――その瞬間である。私の視線は彼女を通り越して、ずっと向こう、入口にいる人物に止まり、釘付けにされて、凍った。


 なんで、どうしてここに。私、なにも言っていないのに。試合があることはもしかしたら言ったかもしれないけど、出るとは一言も言っていないのに。


 そこには、父と母が、いつものような気難しそうな表情で、立っていたのだ。


「――咲良ちゃん?」

「あっ、うん、がんばる」

「大丈夫? 顔、かゆかったりしない?」

「大丈夫」


 私はもう一度だけ両親のことを一瞥して、一瞬で忘れ去るように努力した。何をしに来たのだろう。ここは私が、私でなくいられる数少ない場なのだ。私が“戦場”を走り回って、大声を上げて、長身の竹刀を振り回す姿を見たらきっと面食らうに違いない。


 そう思った瞬間、吹っ切れた。それなら見ていろ。先鋒の勝利の雰囲気と勢いを継いで、もう一度「大丈夫」と呟いた。


 私にとって。


 私にとって一番重要なのは。


 両親が見に来たことではなくて、結城比奈が見ていることなのだ。剣を構え、そこに座す。相手と向かい合い、すばやく息を吸って、吐き出す。今から、この人を斬るのだ。


「始め!」


 審判の合図と共に立ち上がり、気迫に満ちた声が会場に響く。先輩たちの応援の声が、意識の外で聞こえていた。この時にはもう、両親のことなど頭にはなかった。ただ敵と向かい合い。結城比奈の顔を思い浮かべながら、剣先で相手の竹刀を弾く。


 様子見の攻防が続く。顧問の先生はいつも言う。判定負けするくらいなら負けろと。試合の時間は非常に短い。仕掛けるなら今だという瞬間を逃せはしない。相手も同様のことを考えたようで、小さく振りかぶりこちらの面を狙ってくる。その時に開いた胴を狙い、私も振りかぶる。相手の面が私の頭を捕らえるのと同時に、その胴を掻っ捌いた。審判の票が割れる。白の旗と紅の旗が同時に上げられ、一人が足元で無効を表す。胴の勢いで一回転して、相手の喉元に剣先を突きつける。


『咲良ちゃんは試合中でも相手を冷静に見られるから、もしかしたら出鼻技……カウンターを覚えたほうがいいかもしれない。小手を狙われたら一歩下がって、それと同時に振りかぶって面を打ったり、面を打たれそうになったら胴を打ちにいったり。あえて相手と同じことをするのもいいかも。審判の判断が割れるから。とはいっても咲良ちゃんはまだ体力がないから、できるだけ短期戦でいきたいね』


 比奈のアドバイスが、いつでも生きている。敵の攻撃を、敵の不利にするのだ。そして、その時がきた。相手の肩がくっと上がる。息を吸ったのだ。そのまま竹刀を担ぎ、足を上げる。――勝った。これなら小手のほうが早い。担ぎ面には二段階の動作がいるが、小手は一弾階の動作しかいらない。そして私はしっかりと小手を捕らえ、その直後に相手の竹刀が私の頭を打ったが、審判の旗はすべて紅。わたしの一本が決まり、試合終了のブザーが鳴った。


 その日の夕食時、私は特になにも言わなかった。何故見に来たのとか、どうだったとか。何も聞かずに気づいていなかったふりをしていた。そうしたら、お父さんもお母さんも何も言わなかったので、かえってほっとした。


 本当に何をしにきたのだろう。評価でもしようとしたのだろうか。場合によっては、私を剣道から遠ざけようとしたのだろうか。でも何も言わないのだから、私には彼らがなんと思ったのかは関係なかった。


 やはり私にとって大事なのは、結城比奈に褒めてもらって、撫でてもらったこととか、先輩たちの期待に応えられたこととか、そういうものなのだ。そう私は思うのだ、私の欲しいものは、そういうものだと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る