―酒―


「遅いよ! ねえ、まだ帰ってこないの!?」


 きいっと手足をばたつかせ、蓮が地団駄を踏んでいる。癇癪を起こしている彼を余所に、敦盛はのんびりと茶を啜った。


「ついさっき出て行ったばかりだよ。そりゃあ帰ってきませんよ」

「敦盛様は心配じゃないの? こんな夜遅くに出歩いて月下に何かあったらどうするの?」


 そうは言うが、まだ宵の口。確かに心配もしているだろうが、どちらかと言えば、彼は月下が自分を置いていったことに腹を立てているようだ。


一時いっときも経てば帰ってくるから……」

「夜道を一人で!?」


 宥めるも、普段の蓮からは想像もつかない早さで切り替えされた。この子供は普段おっとりとしているが、月下のことになると本当に人が変わる。


「お酒も飲まないし、帰りにはちゃんと迎えをやるつもりだから……」

「きいいい!」


 大丈夫だ、大丈夫ではないと押し問答を繰り返し、蓮は目の下にくまを作りながら敦盛の長身によじ登った。そして彼の肩口でしくしくと泣き出す。


「…………」


 泣きながらも、幽鬼のような顔つきで、無言で、目で、「早く彼女を連れ帰れ」と訴える蓮に、とうとう熱盛が根負けした。


「……分かった。分かりましたから」


 多忙な月下に息抜きをさせてやりたかったが、このままでは今にでも蓮が飛び出して行きそうだ。敦盛はかくりと首を落とし、小さなため息を吐いた。







 木枯らしが身に凍みる霜月。忘年会にはまだまだ早い季節だが、花国の繁華街には、週末になると多くの人が酒を楽しむためにやって来る。その日の夜は、安くて旨いと評判の小料理屋を貸し切り、学舎の教師達によって月下の送別会が開かれていた。

 蜂蜜で割った甘い甘い牛乳、みかんを丸ごとすり潰した、香りのよい果汁水、等々。皆が酒を楽しむ中、まだ未成年の月下は料理に全く合わないそれらを注文する。今日の予定を話した時、もちろん蓮は一緒に行きたいとごねた。ごねて騒いで泣いていた。そんな彼を敦盛に丸投げし、逃げるように店にやって来た月下だが、せっかくの会に参加しながら罪悪感で落ち着かない。おそらく、そんな気もそぞろな状況がよくなかったのだ。


「あら? この、余ってますよ。どなたのかしら?」


 誰も手を上げない。酒を嗜む者は皆酔い、自分が何を注文したのか忘れているのだ。同じく酒を飲まず、意識がはっきりしていた女性教師が「どうしましょう」と困っていたので、月下は声を上げる。


「じゃあ、私がいただきます」


 丁度よく飲み物も切れていたところに、葡萄の果汁水。彼女は迷わず手に取り、口に運んだ。


「あっ、月下先生! それは……!」


 葡萄酒です。その言葉が発せられる前に、月下の大きな一口が喉を通過した。


「……うげえっ!」


 生まれて初めて飲んだ酒は、苦くて酸っぱくて、とても不味かった。思いのほか度数の高かった葡萄酒は、月下の意識をそこで奪った。


――そして。

 月下が意識を手放してから一刻ほど経った送別会の席は、というと。


「月下先生! そこはかわやじゃありません!」

「月下先生、駄目! 壁をほじくっちゃ駄目!」

「きゃー、月下先生!」

「月下先生! お願い、しっかりしてー!」


 夢現の月下の耳に、何やら喧騒にも似た声が聞こえる。


(はて……?)


 呼ばれる名はいずれも自分、のような気がする。


(……まあ、いいか)


 何だか分からないが、体がふわふわとして気持ち良い。同時にとても眠い。月下は頭を掠めた疑問を忘れ、再び微睡みの中に帰っていった。







 卓の上のみならず、床にまで散乱した料理。割れた皿や杯。乱れた髪の教師達。着物が破れている者もいる。そして鬼の形相をした店主と、ひたすら指で障子に穴を開けている月下。


「……これは一体どういうことかね?」


 見れば分かる状況で、敢えて口に出されただろうその問いに、首を竦める者はいても答えられる者はいない。


「どうして未成年の月下が飲酒しているんです」


 おかしな行動を繰り返している月下に、敦盛は眉をしかめた。


 彼女が酒を口にしたのは事故だ。教師達を責めるのは可哀想である。それどころか、彼らは月下の暴走を止めようと尽力した。彼女がめっぽう酒に弱かったのも、恐ろしいほど酒癖が悪かったのも、本人さえ知らなかった事実。これを不幸と言わずに何と言おう。成り行きを見ていない敦盛さえ、彼らに責任がないことくらい分かる。分かるが、熱盛がうっかり苦言を零してしまったのも仕方がないのだ。彼女を送り出し、蓮の催促に根負け、すぐに自ら迎えに来た。それなのに、その僅かな時間でこの惨劇にも似た光景。何故、月下はこんなにも酔っている。


「……皆さんには迷惑を掛けたみたいですね。すみませんでした」


 月下の親代わりとなっている敦盛は、彼らに深々と頭を下げる。国長にそんな真似をさせて萎縮する教師達の中、一人の女が手を上げた。


「あのう、長様」


 それは月下と因縁がある、例の女性教師だった。


「ここのお勘定と弁償代は、わたくし達には関係ありませんわよね?」


 弁償代はともかく、飲食代まで請求するのか。あまりの厚かましさに、教師達の顔色が一斉に青くなる。余談だが、彼女は皆が酔った月下を宥める中、一人で食事を楽しんでいたため、髪にも服にも乱れはない。


「もちろんです。これ以上皆さんに迷惑はかけません。後のことは私に任せて楽しんでください」


 とにかく、この娘は一刻も早く連れて帰らねば。敦盛は店主にも頭を下げ、壊した物の弁償を約束すると、月下を背負って蓮の待つ自宅に足を向けた。


 歩を進める度に跳ねる、敦盛の括られた髪で月下が指遊びをする。


「何をやってるんだい、君は」


 熱盛は溜め息混じりに言う。それは指遊びに対してか、酒のことを指しているのか。

 彼はいったん立ち止まると、軽く跳んで下がりかけていた彼女の体を背負い直した。


「重くなったな……」


 前に背負ったのは、彼女がまだ子供の頃だった。あと一年で月下も成人を迎える。酒に酔い、敦盛の髪で遊ぶ彼女は子供のようだが、その体は既に大人の重量感。布越しに感じる丸みを帯びた感触に、気恥ずかしさを覚える。


「君をおんぶするのも、これが最後かもしれないね」


 いつまでも朗らかで優しい関係が続けばいい。しかし、最近、二人の関係が少し変化してきている。何より自分はもう年で、今後、酔った彼女を背負うのは他の誰かに変わるだろう。 そう遠くない未来を考えながら、敦盛は時間を惜しむように、普段よりもゆっくりとした早さで歩いた。


――さて。

 敦盛の自宅に着いた月下の運命だが、蓮の泣き言、恨み言の嵐に酔いが一気に覚め、敦盛に土下座を繰り返した。そして次の日には酷い二日酔いに苦しみ、さらに後日には、同僚教師達から自分の失態を聞かされ、米つきばったの如く頭を下げて歩いたとか。


 同僚達は口々に言っていた。月下をおぶり、店を出ていく国長の背中を見送りながら、酒の場に彼女を誘うことは二度と止めよう――そう誓った、と。

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