ベルベットムーン

西野 夏葉

1

 伊澤理央いざわりおは、敢えて瞳のピントをぼかすことで、自分の身体に覆いかぶさる男の表情が見えないようにした。それでも、必死に腰を動かす男が気づくことはない。この女は自分だけを見てくれている……と錯覚するのみだ。いま身体を重ねている相手になんの思い入れもない理央にとっては、むしろそれが好都合でもあった。


 マッチングアプリで知り合ったこの男とは、繁華街の隅にあるコンビニで待ち合わせて、ホテル街に向かった。当たり障りのない世間話は、いつも仕事で要求されているスキルだ。男は理央の父親とほぼ同年代のようだったが、要するに父親が喜ぶような話題を口にすればよかった。それが功を奏したのか、あるいは理央の顔や身体に惹かれたのかはわからないが、この男は定期的に理央に連絡してきて、そのたびに金と引き換えに身体を重ねるようになった。

 互いにシャワーを浴びてベッドに向かったのが数十分前。いま理央に要求されているのは、唇の端から悩まし気な喘ぎ声を洩らすことと、時折あたかも快楽の絶頂を迎えたように演じることだけだった。


 やがて男が果てて、腹の上に散らかした残骸をティッシュで丸めて捨てた。余計なことを詮索されるのが嫌で、いつも理央は行為が終わるとシャワーも浴びずに、先に部屋を出てゆくことにしている。来た時と逆に、下着を身に着け、脱いだ服に袖を通す。ドアノブに手をかけようとしたところで、さっきまで理央の上で息を切らしていた男が、一万円札を三枚手渡してきた。首だけをわずかに傾けて会釈すると、理央は振り返ることなく、自分だけ先に部屋を出た。



 目立たないようにつくられた、ホテルの出口の自動ドアをくぐる。外はいつの間にか粉雪が舞っていた。まだ暦は十一月になったばかりだ。気の早い季節の足音に、わずかに顔をしかめる。さっきまで知らない男に触れられていた頬に雪が当たるたび、自分の体温で融けて消えてゆくのを感じる。それは単に自然の摂理であるのと同時に、運命に抗おうとするものの悲鳴に似ている気がした。


 そうだとすれば、ただ流されるがまま、自らの身体を小金稼ぎの道具にしている自分は、この雪のひとひらにすら負けているのではないか。


 降り注ぐ雪に身体を濡らしながら、理央は少しずつ人の数が増え始めた夕方の地下鉄駅に下りた。あとは最寄り駅の近くのスーパーに寄って、食料品を買って帰るだけだ。さっきまで金で男に買われていたということは億尾にも出さず、腹に収めるものを買う。なんとも言えない心地になった。




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